第51話 蒼の都ルシエラ ― 水晶の街 ―

朝の海は鏡のようだった。

波一つない水面を”アクア・レイン号”が滑り、静かに音を立てながら進む。やがて、霧の向こうに青い光が見えた。

「……あれが、“蒼の都”ルシエラ」

船長オルカが呟く。遠くに見えるのは、海上に浮かぶ巨大な都市。透明な橋が幾重にも交差し、白銀の水晶塔が陽光を反射して輝いている。まるで“水”そのものが都市の形を取ったかのようだった。

「すっごい……!」

ミーシャが目を輝かせる。

「まるで空に浮かんでるみたい」

「実際、あれは浮遊構造です」

アリーシャが解説する。

「水晶の基盤に魔導浮力を持たせ、海底に沈まないよう調整している。世界でも唯一の“水上都市”よ」

やがて、港の魔導灯が光を走らせ、船がゆっくりと接岸した。潮風の中で鐘が鳴る。ルシエラへの入国を告げる鐘だ。


船を降りた瞬間、ケインたちは言葉を失った。街全体が水晶でできていた。透明な道が川の上に伸び、街路の下を清流が流れる。魚が橋の下を泳ぎ、道端には花ではなく“水草”が咲いている。建物の壁面は淡い青に光り、通りを行く人々の影が水面に揺れた。

「……まるで夢の中みたい」

エリスが小さく息を呑む。

「ここでは“水”が神の象徴なんです。魔力を持つ者も、そうでない者も、みんなが“流れ”を敬うんですよ」

「流れ、ね」

ケインが空を見上げた。雲の切れ間から差す光が、水晶塔の先端で七色に屈折していた。その光の帯が、まるでどこかへ導く“道”のように感じられる。

「ようこそ、旅の方々」

港に立っていた管理官が笑顔で迎えた。

「ここは王国直属の聖都ルシエラ。滞在には宿泊許可証が必要ですが……冒険者協会の紋章、お持ちですね?」

ケインは腰の証を見せる。

「フラム共和国所属、ケイン・アークライト。旅の目的は“封印の調査”です」

管理官が一瞬、目を細めた。

「……封印、ですか。ならば、気をつけて。ここでは“水”が、時に心を映すそうです」

意味深な言葉を残し、管理官は去っていった。


港から伸びる水晶橋を渡り、彼らは宿を探した。街の中では水が小川のように道に沿って流れ、それを跨ぐ小橋や渡し舟があちこちに見える。

「うわぁ……道の下に魚が泳いでる」

リュカが目を輝かせる。

「この街の人たちは、川と一緒に暮らしてるんだね」

「ここでは“乾いた地面”の方が珍しいらしい」

ハントが肩をすくめる。

「荷車よりも船が多い街なんて、初めて見た」

宿は、運河沿いの小さな宿屋だった。青い屋根の二階建て、水晶製の窓枠が光を受けてきらめく。

「いらっしゃいませ、旅人さま。六名様ですね」

宿の女主人が柔らかい笑みを浮かべた。

「今日は幸運ですよ。水祭りの前夜ですから、宿は普段満室なんです」

部屋に入ると、外の光が水の反射で壁に揺れていた。リュカはその光を見つめながら、ベッドにふわりと倒れ込んだ。

「……ふかふか……」

「気に入った?」

アイカが笑う。

「うん、森の寝床とは全然違う。あったかい」

その純粋な笑顔に、皆が思わず和んだ。

「こういう時間が、いちばん大事かもな」ケインが小さく呟く。


夕方、エリスは街の中央区にある“水神教会”を訪れた。

ルシエラの信仰の中心であり、同時に学術機関でもある場所。青白い石で作られた礼拝堂の中央には、大きな水晶の聖杯が置かれ、その中には“常に満たされ続ける水”が湛えられていた。

「……変わっていませんね」

エリスは懐かしそうに目を細める。その声に反応し、一人の神官が歩み寄った。

「――エリス? まさか、君が」

「お久しぶりです、司祭サリエル様」

白い法衣の男は驚きと喜びを混ぜた表情で彼女を抱きしめた。

「聖女が旅に出るなど、誰も信じていなかったぞ」

「私も信じられません。でも……旅で学ぶことは多いです」

サリエルは頷き、教会の奥へ案内した。通路の先、青い光に照らされた壁面に古代文字が刻まれている。――”封印は七つにして一つ”。

「これが、古の碑文です」

サリエルが説明する。

「七つの封印は、世界を支える柱。しかし同時に、“一つの心臓”でもある。その意味を完全に解いた者は、未だ誰もいません」

「……導師の目的が、これに関わっているのかもしれません」

エリスの言葉に、サリエルの表情が僅かに陰る。

「導師――あの名をこの地で口にしてはならぬ。“水”は聞いている。波は記憶する」

その時、壁の奥で何かがわずかに“鳴った”。鐘のようでも、波のようでもない――ただ、世界の底がひとつ呼吸したような音。


宿に戻る頃、夜は深まっていた。

街の灯りが水に映り、波がわずかに揺れるたびに光が乱反射する。まるで星空が地上に降りたようだった。

「この街……静かすぎるな」

ケインが呟く。

「人の声より、水の音の方が強い」

「それが“ルシエラの調和”なんですよ」

エリスが答える。

「この国では、言葉より“音”を大事にするんです。流れる水の調べが、祈りであり、記憶なんです」

アイカが手すりに寄りかかりながら空を見上げる。

「でも、その流れが止まったら?」

「――封印が、解ける」

ケインの声は低かった。その瞬間、港の方で“揺らめく光”が見えた。水底から淡い青が立ち上がり、波の形をとる。やがて、それは人の姿のような影を作り、音もなく消えた。

「今の……?」

「見間違いじゃない」

アリーシャが即座に答える。

「封印が、“目を覚まそうとしてる”」

潮風が吹く。海の匂いの奥に、微かに鉄の香り――“魔力の焦げ”が混じっていた。それは、嵐の前に似ていた。


深夜。

宿の外で、ルシエラの街全体が青く光った。誰もが眠りの中で、その淡い閃光を感じる。――まるで、海そのものが息を吸ったように。ケインは寝台から跳ね起き、窓の外を見た。

「……封印が、呼んでる」

静かな夜、遠くの塔の上で、一筋の光が天へ伸びた。それは、確かに彼らの“次なる試練”の始まりを告げていた。

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