孤立した狙撃手
わんし
孤立した狙撃手
深い森だった。
それはただの暗闇ではない。
湿度を限界まで吸い込んだ土の匂いと、雨上がりの木の葉が放つ重たい呼気が、光を一滴も通さない分厚い闇を生み出している。
男、すなわち狙撃手は、その闇の中に溶け込んでいた。
カメレオンのように皮膚と装備を周囲の環境に同化させ、呼吸の熱さえも大地に吸い込ませることで、彼は自らの存在を無に帰していた。
彼は孤立した特殊部隊員であり、彼の任務はただ一つ――この一分以内に、鉄壁の警護に守られた敵の総司令官を仕留めることだった。
ミッション遂行までの猶予は、もはやほとんどない。
彼はすでに最終射撃位置につき、精密射撃ライフルを岩の割れ目に固定していた。
頬骨に冷たいストックの感触を確かめながら、彼の意識はスコープの中の小さな世界だけに集中している。
そこには、わずか二〇〇メートル先に建てられた、簡素だが強固な野戦本部があった。
そして、その開け放たれたテントの中央、揺れるハリケーンランプの光に照らされて、ターゲットの姿がはっきりと見えていた。
敵将、その人だ。
彼の排除が、この戦域全体の戦況を一変させる。
それは、残された味方部隊の犠牲を最小限に抑え、戦争を終わらせるための唯一にして最大の切り札だった。
この弾一発に、数千の命が懸かっている。
(落ち着け、俺)
心の中で彼自身に語りかける。
それは訓練で何千回も繰り返した、最も重要な儀式だった。
彼の耳元に、無線機の低い声が響く。
声はほとんどノイズに埋もれていたが、彼はその言葉を正確に聞き取った。
『ブラボー・シックス、交戦可能時間まで、カウントダウン開始。六〇』
一分間の猶予。
時間切れは、敵に彼の存在が察知された時を意味する。もう後戻りはできない。
六〇秒。
彼の心臓は、まるで訓練で教わった理想的なペースを再現するかのように、静かに、ゆっくりと鼓動していた。
ドドン……ドドン……。
心拍数は、一分間にわずか四〇回。
体内の血流が、呼吸に合わせて穏やかに流れるのを感じる。
彼は人間ではなく、完璧な射撃機械になる必要があった。
彼は、まず風を読んだ。
暗闇の中、風速計の液晶を見ることは許されない。
彼は自分の頬に当たるわずかな空気の流れ、そして何よりも、目の前のブッシュの葉の動きで風を計測する。
木の葉は左から右へ、ごくわずかに揺れている。
これは三時の方向からの微風。
距離二〇〇メートル、使用弾薬を考えれば、三クリック分の修正が必要だ。
カチリ、カチリ、カチリ。
ダイヤルを回す音は、彼の耳には世界の終わりを告げる警鐘のように大きく聞こえたが、その音は空気中に拡散して消える。
彼は修正を終え、再びスコープに目を押し付けた。
五〇秒。
標的は、野戦テーブルに広げられた地図を指差しながら、二人の副官と話し込んでいる。
彼の頭部は、狙撃に最も適した状態で固定されていた。
スコープのレティクルが、ターゲットの左目の上、額の中心を完璧に捉える。
弾道学上、最も確実に即死に至らしめるためのポイントだ。
湿度の計算。
気温の予想。この夜の重い空気は、通常よりも弾をわずかに下に引きずり込もうとするだろう。
彼は、すでに三〇〇メートル以上の長距離射撃を専門としてきたベテランだ。
二〇〇メートルという距離は、彼にとって呼吸と同じくらい簡単なはずだった。
しかし、この任務の重さが、すべての感覚を増幅させていた。
彼は深く、そして静かに息を吐き出す。
訓練の指導教官の声が、脳裏に響く。
『最後の一秒まで、お前はただの風だ。音もなく、熱もなく、ただ流れ去る存在だ』
四〇秒。
彼の全身から、不要な力が抜けていく。
人差し指だけが、わずかに引き金に触れていた。肌が引き金金属の冷たさを認識する。
彼の指先は、まるで独立した神経を持つ生き物のように、その役割を理解し、完璧なタイミングを待っている。
その時だった。
皮膚の感覚が、警告を発した。
それは音ではなかった。
振動でもなかった。
風の流れの変化でもない。
ただ、彼の皮膚と一体化した暗闇が、わずかに、本当にわずかに「満たされた」と感じたのだ。
まるで、水面下で微小な気泡が破裂したかのような、空間的な違和感。
三五秒。
(何だ……?)
彼の訓練された本能が、一瞬にして最高の危険信号を鳴らした。
背後。
間違いなく、彼の背後から、何かが近付いている。
それは人間だろうか。獣だろうか。
反射的に背後を振り向くことは、この状況では死を意味する。
ミッションの失敗、そして彼自身の即死。
射撃姿勢を崩した隙に、ターゲットは警護兵に連れられて姿を消すだろう。
数千の命が、彼の瞬時の判断にかかっている。
彼は動かない。射撃姿勢を崩さない。
しかし、彼の心臓は、訓練で達成した完璧なリズムから逸脱し始めた。
ドドンッ、ドドンッ!
心拍数が急上昇する。
アドレナリンが血管を駆け巡り、目の奥がわずかに熱を持つ。
三〇秒。
スコープの中のレティクルが、まるで彼の心の動揺を反映するかのように、微かに揺れている。
(訓練を思い出せ。心拍が上がっても、呼吸で抑えろ)
彼は、ゆっくりと息を吐き出すことに集中する。
肺の中の空気を、すべて、均等に、そして静かに吐き出す。
しかし、背後の「影」の存在感が、物理的な重さとなってのしかかる。
それは音を立てていない。
あまりにも静かだ。
それが、最も恐ろしいことだった。
彼と同じか、あるいは彼以上の、暗闇での戦いのプロ。
この森を支配する暗殺者、あるいは敵の特殊部隊員。
二五秒。
彼は、ターゲットの額の中心に、レティクルを固定し続けた。
指先が、今にも引き金を引こうと、わずかに力を込める。
しかし、その刹那、背後で微かな、本当に微かな「擦れる音」がした。
それは、服が木の枝に触れた音ではない。
土の上を、何か固いものが、わずかに滑る音。
(ナイフ……!)
彼の脳裏に、その単語が閃いた。
それは、近接戦闘のために鞘から抜かれたナイフの、最後の鞘留めが外れた音。
彼を仕留めるために、既に「影」は最終的な攻撃態勢に入っている。
二〇秒。
背中を冷たい汗が伝う。
彼は、あと数秒で、背中から脊髄を断たれるだろうことを理解した。
彼の命は、残り十数秒。
(ミッション優先……!ミッション優先だ……!)
彼は自分に言い聞かせた。
何があっても、ターゲットを仕留めろ。これが最後のチャンスだ。
彼の犠牲をもって、戦局を終わらせるのだ。
彼は呼吸を止めた。
完璧な無呼吸状態。
この数秒間に、すべてを賭ける。
肺の酸素が切れる前に、引き金を引く。
一五秒。
「影」が、一歩、踏み込んだ気配がした。
その瞬間、彼の訓練された肉体が、意識とは別の指令を発した。
(待て! ターゲットが動く!)
スコープの中の敵将が、突然、副官の言葉に頷き、わずかに右に体を傾けた。
射撃角度が、ほんの数センチ、ずれる。
これは致命的なミスになる。額の中心から、肩のラインへと狙いが逸れる。
一〇秒。
彼は、ターゲットの動きが止まるのを待つ。
しかし、時間はない。
一分という制限は、敵の警戒態勢が最高潮に達する瞬間を示していた。
「影」の存在感は、もはや皮膚に突き刺さるような痛みとなった。
彼は知っている。
この状況で待つことは、死を意味する。
だが、外せば、仲間の命と彼の命が無意味になる。
五秒。
ターゲットはまだ動いている。
(このままでは、ミッション失敗!)
彼は、最後の瞬間、常識では考えられない判断を下した。
彼は、スコープからわずかに目を離し、背後を一瞬、本当に一瞬だけ、全身の感覚でスキャンした。
闇の中、彼の眼には何も映らなかった。
しかし、彼の特殊部隊員としての経験が、暗闇の中に立つ「影」の位置、身長、そしてナイフを構える腕の高さを正確に把握した。
四秒。
彼は、引き金にかけた人差し指の力を、逆に抜いた。
そして、ライフルを固定していた左手を、岩から離し、ゆっくりと、しかし信じられない速さで、自分の腰のホルスターに向かって動かした。
三秒。
ターゲットは、まだ動き続けている。
「影」が、殺意を込めた最終歩を踏み込んだ。
彼の耳には、空気を切り裂く微かな音が聞こえた。ナイフだ。
狙いは、彼の首筋。
二秒。
その瞬間、彼の腰から、サイドアームが抜き放たれた。
彼は、ライフルを構えたまま、左手のサイドアームを背後に、目視することなく発砲した。
ダアンッ!
森の静寂を引き裂く一発の銃声。
そして、それにわずかに遅れて、もう一つの、鈍い音が響いた。
(命中!)
彼の訓練は、無駄ではなかった。
身体の反射速度が、意識の判断を凌駕した。
一秒。
背後の「影」は倒れた。
しかし、その一発の銃声が、敵の野戦本部に鳴り響いたことを意味する。
警報が鳴り響き、テントの周りの警護兵たちが一斉にざわつき、ライフルを構える音が聞こえ始めた。
(猶予は、もうゼロだ!)
彼のサイドアームの銃声が、敵将の動きを止めた。
ターゲットは、驚愕の表情で、音のした方角、つまり彼が潜む森の方角を振り向いた。
その頭部は、再び完璧に静止した!
彼は、左手のサイドアームを放り投げ、再びライフルの引き金に指を戻した。
ゼロ秒。
最後の風を読む。
背後からの反動は、狙撃をわずかに下にずらすかもしれない。
彼は、その計算を、一瞬にして弾道計算に加えた。
心拍は、激しく叩きつけるように鳴り響いている。
ドドン! ドドン! ドドン!
しかし、その心臓の鼓動の間に、完璧な静寂の瞬間があった。
シュッ……。
息を吐ききった、最後の瞬間。
彼の指が、優しく、しかし確実に、引き金を絞り込んだ。
カアアァン!
二度目の銃声。
それは一度目のサイドアームの音よりも、はるかに鋭く、重く、そして決定的な響きを持っていた。
スコープの中、ターゲットの額の中心から、赤い霧が爆ぜた。
敵将は、椅子に座ったまま、崩れ落ちた。
その体は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりとテーブルの上に倒れ込んだ。
ミッション、コンプリート。
彼は、ライフルをその場に捨てた。背後を向く。
暗闇の中、彼は倒れた「影」に向き合った。
それは、やはり敵の特殊部隊員だった。
全身を黒い戦闘服で覆い、手には鋭利な戦闘用ナイフが握られたまま、うつ伏せに倒れていた。
彼の狙撃は正確で、弾丸は「影」の右肩を貫通し、命を奪っていた。
彼は、その「影」の体を、わずかに持ち上げ、仰向けにした。
その顔を見て、隊員は息を呑んだ。
それは、過去の合同訓練で一度だけ顔を合わせたことのある、敵対する国の部隊のエースだった。
互いに存在を知りながら、直接顔を合わせたことのない、暗闇のプロフェッショナル。
彼らは、互いのプロフェッショナルとして、一分という時間に、お互いの命とミッションを賭けていたのだ。
(お前も、俺と同じだったのか……)
彼は、口に出さずに呟いた。
その「影」の瞳は、彼のミッションを阻止できなかった悔しさに満ちたまま、闇を見つめていた。
その時、彼は自分の左脇腹に、熱く、ねっとりとした感触があることに気づいた。
「影」が最後の抵抗で、彼に触れていた。
倒れた敵の手から、ナイフが離れていた。
彼の左脇腹の戦闘服が、深く切り裂かれている。
痛みはまだ、アドレナリンに遮断されていたが、彼の命が、ゆっくりと、しかし確実に流れ出していることを皮膚の感覚が告げていた。
彼は立ち上がった。
敵の野戦本部からは、すでに大声の怒鳴り声と、捜索の開始を告げる無数の足音が響き始めている。
森の木々は、揺れ動き、ライトの光がこちらに向かって差し始めている。
彼は、背中のパックから、一枚の無線機を取り出した。
『ブラボー・シックスより本部へ。ターゲットを排除した。ミッション完了。これより、離脱行動に入る』
無線機から、感激と混乱が入り混じった声が返ってきた。
『シックス!シックス、無事か?!すぐに支援を――』
彼は、その言葉を聞き終わる前に、無線機のバッテリーを抜いた。
この森から、彼は単独で脱出しなければならない。その脇腹の傷が、致命傷でないことを祈りながら。
彼の体から流れ出る血液は、湿った土に染み込み、足跡を隠してくれるだろうか。
彼は、倒れた「影」の顔を、そっと木の葉で覆った。
敬意だった。彼を殺そうとした敵に対する、最高のプロフェッショナルとしての敬意。
そして、彼は一歩を踏み出した。
暗闇の中を、再び、音も立てずに移動する。
彼の心臓は、まだ激しく、しかし穏やかに鼓動していた。
彼は、確かに一分という極限の戦いを生き抜いた。
背後の影との戦い、そしてターゲットとの戦い。二つの任務を、彼は同時に成し遂げた。
彼は、森の奥深くへと進む。
その足取りは、わずかにふらついていたが、彼の瞳は、暗闇の奥に潜むかすかな光を捉えていた。
それは、夜明けの光ではない。
故郷で待つ仲間たちの顔、そしてこの一発の弾丸によって救われた数千の命の重さだった。
彼は、もはや狙撃手ではない。
彼は、運命の歯車を動かした、一人の特殊部隊員だ。
彼の命の灯火は、今、まさに消えようとしているのかもしれない。
だが、その灯火は、彼が救った数多の命の光の中で、永遠に輝き続けるだろう。
彼の物語は、この暗闇の森で、静かに、そして壮絶に、幕を閉じる。
だが、彼の任務は、まだ終わってはいない。
彼は、生きて、仲間の元へ帰らなければならない。
それが、一分間の戦いで命を落とした、背後の「影」に対する、唯一の、そして最高の勝利の証になるのだから。
彼は、森の闇の中を、一人、静かに、前へ、前へと進み続けた。
そして、彼の意識が途切れる寸前、彼の耳に、遠く、本当に遠くで、味方のヘリコプターのプロペラ音らしきものが聞こえた気がした。
(ああ……)
彼は、そう呟き、そして、すべての力を抜いて、湿った土の上に、静かに倒れ込んだ。
彼の頭上、暗闇を切り裂くように、一筋の光が差し込んでいた。
それは、夜が終わりを告げ、彼が救った世界に、新しい朝が訪れることを告げる、希望の光だったのだろうか。
彼の体は、深い森の闇の中、完全に溶け込んでいた。
任務を終えた、狙撃手として。
彼の物語は、永遠に、この一分間の極限の戦いの中に、深く刻み込まれたのだ。
彼は、もう動かない。
だが、その使命は、遥か彼方の世界で、確かに、生き続けている!!
孤立した狙撃手 わんし @wansi
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