ノーサイドの空

マゼンタ_テキストハック

ピョンチャン洞の坂道で

 ソウル、平倉洞ピョンチャンドン。北漢山から吹き下ろす風が、伝統家屋の瓦屋根を静かに撫でていく。元Jリーガーのキム・健二は、この坂の多い高級住宅街で、過去を埋めるように穏やかな日々を送っていた。かつて、九州のピッチを駆けた彼の人生は、地鳴りのような歓声とブーイングに満ちていた。特に、サガン鳥栖の青を纏っていた頃のアビスパ福岡との「九州ダービー」は、彼のサッカー人生そのものだった。


「健二、お前は俺を裏切った」


 引退の引き金となったあの日、ライバルチーム福岡へ移籍した親友、亮太に浴びせた言葉が今も耳に残る。選手の引き抜き、サポーター同士の衝突。ダービーの因縁は、二人の友情を無残に引き裂いた。


 ある日の午後、健二は車で古びたカセットテープを再生していた。SHOW-YAの『Glamour』。激しいギターリフと寺田恵子のハスキーな声が、錆びついた感情を呼び覚ます。『愛さずにいられない-Still be hangin' on-』のメロディが、亮太への愛憎と重なった。皮肉なものだ。今もなお、あの熱狂にぶら下がっているのは自分の方ではないか。


 そんな時、スマートフォンが震えた。亮太からの短いメッセージだった。


「会いたい。明後日、鳥栖スタジアムに来てくれないか」


 心臓が大きく脈打った。なぜ今さら。だが、健二の足はソウルを発ち、二十年ぶりに九州の地を踏んでいた。


 誰もいないスタジアムのスタンドで、亮太は一人待っていた。皺の増えた顔は、健二が知る彼の面影を残している。


「あの移籍は、お前から逃げるためだった」亮太が静かに口を開いた。「お前の才能に嫉妬して、同じチームにいるのが苦しかった。最低の裏切りだったと分かってる。すまなかった」


 健二は何も言えなかった。憎しみはとうに風化し、残っていたのは虚しさだけだと思っていた。だが、違った。心の奥底で、ずっとこの言葉を待っていたのだ。


「俺のほうこそ、すまなかった」健二の声が震える。「お前を許せなかったのは、ピッチを去る言い訳が欲しかっただけかもしれない」


 二人の間に流れる長い沈黙を、スタジアムを吹き抜ける風が埋めていく。それは試合終了を告げるノーサイドの笛のように、長く続いた彼らのダービーの終わりを告げていた。


 ソウルへ戻る飛行機の中、健二は窓の外を見つめていた。『限りなくはるかな自由へ〜go again〜』。SHOW-YAの曲が頭の中で鳴り響く。平倉洞のあの静かな坂道を、明日はもっと軽い足取りで登れるだろう。もう一度、自分の人生を、自分の足で走り出すために。

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