キャンバスと指

低泉ナギ

01. My fair muse


 アトリエは酒と絵の具の匂いで満ちていた。


床には空き瓶と紙くずが散り、机のあちこちに乾いた絵の具と粘土がこびりついている。

空気までが、ただれて粘ついていた。


「このニセモノめが!」


荒んだ声が部屋を揺らした。


「そうではないと何度言ったらわかるのだ、この売女!」


「ば、売女なんて……ひどい」


初めてそんなことを言われて、クラゲに刺されたみたいに胸がチクチクした。

悪魔は泣きたくなってきた。

じごく生まれ、じごく育ちの悪魔には、ニンゲンがわからなかった。


芸術家は少女の肖像を指差して、声を張った。


「この絵をよく見ろ、悪魔。この可憐な顔になれと言うのに。そんな品のない目に、この私の心がそよぐとでも思うてか」


「でもわたし、この絵とおなじ顔になりましたよ。どう違うの?」


机を叩く音が響いた。


「たるんだ声を出すんじゃあない、この子牛!」


「子牛じゃないです、悪魔なんです」


ひどい言われようだ。

悪魔はヘビのように首を長くしてうなだれた。


「これ、もとの姿に戻るんじゃあないよ。まったく、これだから近頃の箱入り悪魔は……」


ぶつくさ言いながら、芸術家はイスに腰を下ろした。悪魔はしぶしぶ絵の中の少女に変身した。


こんなはずじゃなかったのに。

ずっとクジラの歌を聴いて眠っていたかった。

暗くて温かい海底を思って、悪魔の目に大つぶの涙がにじんだ。


肖像画の少女のほほ笑みが、かすんできた。


「そんなにこの子が好きなら、こんなことしなくてもホンモノをさらってくるのに」


悪魔がつぶやくと、芸術家は顔をまっ赤にして叫んだ。


「なんてこと言うんだ、この悪魔め!彼女を巻き込むんじゃあない!こんなひどい仕打ち、決してあの子にしてなるものか!」


「じゃあ、ちゃんとあの子をあいしてよ!」


芸術家は立ち上がると、ツカツカとブーツのかかとを鳴らして悪魔につめよった。


「ふん、私をたぶらかそうとしてるのか?ーー私とあの子を結びつけて、あの子を不幸にしようと。そうだな?」


悪魔は呆れてものも言えない。


「こんなことで悩むのは、私一人と悪魔一匹でいい。私とおまえはいわば、生涯を共にする筆とキャンバスだからな。いっしょに苦しもうではないか」


人のそれを模した胃から、とつぜん酸が逆流してくるのを感じ、悪魔は両手でとっさに口をおさえた。


「ーーやだやだやだ!きもちわるい!ニンゲンきもちわるいの!」


芸術家は目を細めて、しかしどこか満足げに頷いた。


「いいぞ。その悲鳴には、真の嫌悪と混乱を感じた…。ちゃんとかわいい。かわいいぞ、我が悪魔よ」


「ぜんぜんうれしくない…」


とは言ったものの、その言葉はまるで酸性雨のように悪魔の乾いた心を湿らせた。


「それだ!」


芸術家の歓声に、悪魔はおどろいてつま先立ちになった。


「その火照った顔、そのうるんだ瞳だ!それでいいのだ悪魔、わかってきたじゃないか。この調子ならすぐにあの子になれるぞ」


「え、ほんと!」


「突如としてダメだな。ガキみたいな声を出すな!」


一瞬だけ喜んだ悪魔は、すぐに怒号を浴びせられて笑顔のまま動きを止めた。


「乙女の恥じらいを持て!『えーやだァ、ソレほんとォ…?』みたいな感じだよ。ホラ、こうだ!」


体をくねらせて上目遣いで迫る芸術家に、悪魔は後ずさった。


「そんなこと言われても」


「もっと恥じろ。恥を知れ!」


「すっぽんぽんなのに、恥もなにもないですよ」


「なおさら恥じらえ!ええい、その棒立ちをやめろ!」


悪魔の喉から子犬のような鳴き声が漏れた。

芸術家はその場でカツカツとブーツの底を鳴らして、鼻から重い息を吐いた。


「あの子になれないからって、フランスパンにでもなるつもりか。仕事をナメてるのか?」


後ずさりつづけて、悪魔はついに壁まで追いつめられてしまった。


「お仕事をナメてはいないのです……でも、せめて何か着るものをください」


「バカ言うんじゃないよ、おまえ。こっちが恥ずかしいでしょうが」


「なんであなたが恥ずかしいのですか」


「仮にも雌の悪魔に、私の服など着せるわけにはいかんだろう。”ちょっと臭いかも?”とか、思ってもみろよ、私はおまえを殺して死ぬるぞ」


「……ああもう!」


平静を保っていた悪魔が爆発した。


「めんどくさい!あなた、すっごいめんどくさいです!」


「なんでも願いを叶えてくれると言ったのはキサマだろうが。こちとらは魂を賭しておるのだ、文字通りにな!」


「だって、こんなのおかしいです!何回やり直したってあなたはずっとだめって言いつづけて、ずっとわたしをいじめたいだけなんだ」


「バカな文句は仕事をしてから言え、この甘ったれガールが!」


「もういいです、あの子をさらってきて、あなたを好きになる呪いをかけちゃいますから!」


ヘビの姿になって、しゅるりとドアへ向かった悪魔の手にーーというか、しっぽにーー芸術家がとびついた。


「しっぽさわんないでください!」


「待て待て、おちつきなさい。悪魔だからって短気をおこすものじゃあないよ、キミ」


「酔った勢いで悪魔召喚したひとには、言われたくない!」


あばれるしっぽに抱きつきながらも、芸術家はしっかりと床を踏みしめた。


「わかった、わかった。お互いに悪いところがあった。それでいいね?どっちも悪い!」


「よくない!あなたがぜんぶ悪いもん!」


「わかったから。だからその、ぬるぬるするのを一旦やめてくれ。気持ちが悪いんだウロコが」


悪魔はぴたりと動きを止めて、口元をわななかせた。


「えっ、気持ち悪い…?わ、わたしが?」


「おや、その表情。あの子の姿でもう一回やってみてくれ。とてもかわいい気がする」


悪魔はしっぽをふって芸術家をつきとばした。

芸術家はびっくりするほど軽くて細かったから、すごい勢いで尻もちをついた。

一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をしたが、すぐに余裕をつくろうと、足を組んで横になった。


「いいよ……?少しくらいおてんばでなくては。あの子も怒るときは怒るからな。でも、危ないから次からはつきとばすんじゃなくて、私の尻をたたきなさい」


「あの、もしかしてなんですけれど、あなたヘンタイなんですか?」


芸術家は立ち上がって、乱れた襟元を直した。


「芸術家など、みな変態だとも」


「そんなことないはず……」


「文明に揉まれて磨かれねば、石は光らぬ。おまえという雪原を理想で染めるのも、また文化のすり合わせだ」


「わたし一方的にすられてる気がするんですけど」


「やってみなければわかるまい。さあ、あの子の姿に変身してみせろ。こすってやるから!」


「ねーもう、ほんとにきもちわるいんです」






こうして、悪魔と芸術家の共同生活が始まった。





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