軍を辞めたら勇者召喚に巻き込まれ、異世界で魔王の息子を育てることになりました
桜塚あお華
第01話 退官の日、光に包まれて
冬の風が、ベランダに吊るした洗濯物を揺らしている。
退官の辞令を受け取ったのは昨日の事だった。
四十を過ぎて初めて気づく――明日からの予定が、何もない。
そんな感覚を味わっていた。
私は柔軟剤の香りを胸いっぱいに吸い込む――これでようやく戦いの日々ともお別れだ。
戦場の音が鳴らない朝。
銃声の代わりに、湯沸かしポットの軽い音。
軍服ではなく、毛玉のついたジャージ。
「さてと、今日はのんびり洗濯日和だね」
思わず独り言が自然と漏れた。
あの鉄のように冷たい夜風や、乾いた砂埃の匂いとはもう無縁。
ふと、窓際の棚の上に置かれた写真立てが目に入る。
古びた木枠の中で、三人が笑っていた。
元夫の
眩しい夏の日。
子どもたちは泥だらけで、浩一が少し照れたように笑っている。
あの頃の私はまだ軍服を脱げなかった。
守りたいものがあるのに、手放すことしかできなかった。
胸の奥が、少しだけ痛む。
「まぁ……今さら、戻れるわけでもないか」
そう呟いて、写真立てをそっと伏せる。
見えなくなった笑顔に、指先を軽く滑らせた。
まるで、もう一度過去を箱の中へしまい込むかのように。
洗濯機の回る音が、静かな部屋に響く。
もう振り返らないと決めた背中に、風が優しく触れた。
――その静けさは、長くは続かなかった。
遠くで、雷のような轟音が響く。
瞬間、空気が変わった感覚を覚え、耳鳴りのような圧が肌を撫で視界が真っ白に染まる。
「え……?」
何が起きたのか理解できない。
目を開けると、そこはもう自宅ではなかった。
天井は高く、壁は白い大理石。
足元には幾何学模様の魔法陣が描かれ、赤黒く焦げた跡。
周囲には鎧姿の兵士、制服の少年少女が数人。
「な、なんだここ!」
「え、え? うそ、これゲーム!?」
ざわめく声があって、その中心で、豪奢な衣装をまとった男が立ち上がった。
「神の導きにより、異界より勇者を召喚した!」
兵士たちが剣を掲げ、祈りの歌が響く。
だがその華やかな空気の中に、私は血と鉄の匂いを嗅ぎ取った。
足元の漫画でよく出てくるような魔法陣ようなもの。
その中心には古代文字みたいな感じの刻印。
読めないはずなのに、なぜか意味が分かってくる。
「……これは、ただ事じゃないな」
低く漏らした声は、誰にも届いていない。
「選ばれし勇者たちよ!この世界を救う使命を授けよう!」
王様なのか、その男の声が鐘のように響く。
魔法陣が青白く輝き、光の柱が立ち上がっている。
高校生たちは興奮の渦に包まれていた。
「うわ、すげぇ!」
「これ、転生系ってやつだ!」
その騒がしさが、余計に異様に思える。
光が消えた後、残るのは焦げた匂い。
魔法陣の縁に黒い焼け跡がいくつも走っていた。
(……焼け跡? 爆発でもあったのか?)
私はもう一度周囲を観察する。
兵士の配置、王の背後の術師、出入り口――すべてを無意識に把握していた。
(兵が多すぎる。歓迎などしていない……これは『監視』だ)
そう結論しかけたとき、肩に小さな影が差した。
「ねぇ、おばさん、大丈夫?」
声の主は黒髪に眼鏡の少年だった。
落ち着いた瞳が印象的だ。
「おば……」
一瞬言葉を詰まらせ、苦笑する。
「……ああ、大丈夫。えっと……」
「僕は
「望……私は
「美咲さん、ですね。」
その丁寧な呼び方が、年齢よりずっと大人びて聞こえた。
(……子供の頃の凪を見ているみたいだ)
懐かしい名前が胸をよぎる。
あの子、今はどうしているだろう――そんなことを思いながら、男の声に耳を戻す。
「そなたらは神に選ばれし勇者である!魔族を討ち、この国に光を取り戻すのだ!」
『魔族』という言葉に、私の中で何かが疼く。
それと同時に、血と火薬の匂いが蘇る。
(この王……戦争を始める気だ。子供たちを使って)
拳を握ると、隣の望が囁いた。
「……あそこの男の人、王様らしいんです……なんか変ですよね」
「変?」
「神の導きって言葉、強調しすぎてる。信仰というより言い訳みたいで……」
それを聞いてしまった私は思わず笑ってしまった。
この世界にも、まともな思考をする人間がいる。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
(この子……鋭い。場の空気に呑まれない)
だが、男が再び両腕を広げた。
「神に選ばれし者たちよ!この国のために命を捧げよ!」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
『命を捧げよ』――それは命令だ。
救いの言葉ではない。
胸の奥が冷たく満たされていく。
息が浅くなり、掌に汗が滲む。
視線を落とすと、焦げた魔法陣の中央に文字が浮かんでいた。
――『代償』。
その意味を理解した瞬間、心臓が重く跳ねた。
(誰かが……命を代償にして、この召喚を開いたんだ)
「……やっぱりね」
思わず漏れた言葉に、望がこちらを見る。
「何か分かるんですか?」
「この召喚は……犠牲で成り立ってる。人か、あるいは魂ごと」
望の瞳が揺れた。
恐怖とも戸惑いともつかない色が浮かぶ。
「じゃあ……僕たちは、何の上に立ってるんでしょうね」
私はその横顔を見つめ、静かに答えた。
「――戦場だよ」
声は低く、確かな響きを帯びていた。
「異世界だろうが関係ない……この国の王様は戦争をさせる気なんだ。子供たちを使って」
望は唇を噛んで黙り込む。
周囲ではまだ笑い声が響いていた。
剣を掲げ、夢のような世界に酔う少年少女たち。
でも、私の耳には届かない。
聞こえるのはかすかな悲鳴の残響と、血が地を打つ音――戦場の記憶が、再び目を覚ます。
呼吸が整い、視界が澄んでいく。
(戦う準備が、できてしまった……)
退官したはずの体が、勝手に覚えている。
この世界に来た瞬間から、私はまた“戦う人間”に戻ってしまったのだ。
喧騒の中、私と望だけが静かに立ち尽くす。
そして私は、確信する――この国は長く持たない事を。
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