屋上の死神

大谷丑松

屋上の死神

 雨上がりの午後だった。

 灰色の雲の切れ間から、街を濡らした光が鈍く反射している。

 会社の屋上には、ほとんど風の音しかなかった。


 佐伯慎一(さえき しんいち)は、フェンスの縁に片足をかけていた。

 眼下に広がるアスファルトの道路。そこを小さく車が行き交う。

 もし今ここから身を投げれば、自分の存在など一瞬で消えてしまうだろう。

 職場では誰も自分に期待していない。友人も家族もいない。

 今日という日を終えたところで、明日が変わるわけでもない。


 ――終わらせてしまおう。


 そう思った瞬間、背後から声がした。


「それ以上進むと、死ぬよ」


 振り返ると、屋上のドアの前にひとりの少女が立っていた。

 高校生くらいに見える。制服のような黒い服を着て、長い髪が風に揺れている。

 けれど、その顔立ちには年齢不相応な落ち着きがあった。

 どこか無機質で、まるで現実の存在ではないような。


「誰だ……君は」


「死神。あなたの死を回収しに来たの」


 佐伯は苦笑した。


「……なんだそれ。俺の頭がおかしくなったのか」


「そう思ってもいいよ。でも、あなた、本当に死ぬつもりだったでしょ?」


 彼女は近づいてきて、フェンス越しに佐伯を見上げる。

 その瞳には、冷たさと優しさが同居していた。


「死ぬ人の時間は、私には見えるの。あなたは、もうすぐ“期限”だった」


「だった?」


「うん。でも、少しズレたみたい。だから、暇つぶしに来たの」


「暇つぶし……?」


「そう。どうせ死ぬなら、その前に“生きる練習”でもしてみない?」


 彼女はいたずらっぽく笑った。

 あまりにも現実離れしたその表情に、佐伯は思わず足を引っ込めた。



 それから数日、佐伯は少女に振り回されることになる。

 彼女は毎日のように現れた。

 会社の帰り道、公園のベンチ、コンビニの前。

 まるでストーカーのように。だが不思議と、誰も彼女の存在に気づかない。


「今日はどこ行く?」

「死神がそんな軽いノリで言うかよ」

「だって、生きてる間くらい楽しまないと」


 少女はコンビニで肉まんを買っては「これ、好き」と言い、

 夜の公園で星を指さしては「地上の魂の数より少ないね」とつぶやいた。

 佐伯は、そんな彼女と他愛もない話をしながら歩いた。


 奇妙だったが、なぜか居心地がよかった。

 誰かに自分の愚痴を話すのは久しぶりだった。

 職場の不満。上司への苛立ち。親の期待に応えられなかった過去。

 少女は否定も同情もしない。ただ黙って聞いてくれる。

 その沈黙が、妙に温かかった。



「ねえ、君はさ。人の死を回収するって言ってたけど、それって辛くないのか?」


 ある夜、佐伯がそう尋ねると、少女は一瞬、口を閉ざした。

 そして小さく笑った。


「辛いよ。だって、私だって本当は死ぬのが怖いから」


「……死神が、怖い?」


「私は昔、人間だったの。生きるのが怖くて、自分で死んだ。

 だから罰として、“死を見る側”になったの。

 死を怖がる人たちを見送る役目。

 でもね――みんな、死ぬ前に“生きたい”って顔をするの。

 それを見るたびに、ちょっと安心するんだ。

 ああ、死んでしまった私でも、生きることを羨ましく思えるんだなって」


 彼女の声は、風に溶けるように静かだった。

 佐伯は言葉を失った。

 胸の奥に、小さな熱のようなものが灯った気がした。



 その日から、佐伯の中で何かが少しずつ変わっていった。

 朝起きてコーヒーを淹れる。

 職場では笑顔で「おはよう」と言ってみる。

 昼休みに空を見上げる。

 そんなささいな行動ひとつひとつが、確かに“生きている”という感覚をくれた。


 少女はそんな彼を見て、少し寂しそうに笑った。


「もう大丈夫だね」


「何が?」


「あなたの“死の期限”、消えたみたい。

 だから、私はもう行かなきゃ」


 佐伯は言葉を詰まらせた。

 この数週間、久しぶりに誰かと過ごした。

 笑って、話して、泣いて。

 それが、たとえ幻想だったとしても――彼女に救われたのは確かだった。


「……ありがとう」


 その言葉に、少女は小さく首を振る。


「違うよ。私の方こそ。あなたを見て、少しだけ“生きたくなった”から」


 彼女は微笑んで、ゆっくりと背を向けた。

 春の風が吹く。

 気づいたときには、もうその姿は消えていた。



 ――数年後。


 佐伯は同じ会社の屋上に立っていた。

 今は課長として部下を抱え、日々忙しく働いている。

 だがこの日、偶然にも一人の若い社員がフェンスの向こうに立っているのを見つけた。

 肩を震わせ、泣いている。かつての自分のように。


 佐伯は静かに声をかけた。


「それ以上進むと、死ぬよ」


 青年が振り向く。

 佐伯は笑った。

 どこかで聞いたその言葉に、あの日の少女の姿が重なる。


 ――今度は、あなたが誰かを生かしてあげて。


 春の風が吹いた。

 空には白い雲が流れている。

 佐伯はその空を見上げながら、そっとつぶやいた。


「ありがとう。……生きてみるよ、まだもう少しだけ」


 そして彼は、青年の肩を優しく叩いた。

 二人の影が、午後の光の中でゆっくりと並んだ。


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屋上の死神 大谷丑松 @otani_ushimatsu

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