虚ろな自由
佐々木
一章 虚ろな自由
朝、寝室の鏡に映る自分を見つめる。きゅっと口角を上げれば、そこに現れるのは、非の打ち所のない「優等生 萩原凛」の顔。透き通るような白い肌、大きく見開かれた瞳は希望に満ちているように見せかけ、桜色の唇は常に微笑みを湛えている。この仮面を被れば、私は世界に歓迎される。制服に袖を通すと、昨日まで肌に纏わりついていた重い空気が、少しだけ薄まる気がした。まるで、別の皮膚を一枚まとったかのように。
リビングの奥からは、義母の祈りの声が薄闇に溶け出す。聖典の囁き。単調な繰り返しが、私の意識を鈍らせていく。かつて義父と義母が激しく言い争った場所は、今、線香の煙と、途切れない祈りの声に支配されている。沈香の甘く重い香りが、古い木の匂いと混ざり合い、この家の淀んだ「悪臭」の一部となっていた。夫という存在を失い、精神的に病んだ義母は、信仰の中に新たな「居場所」を見出したのだと、私は知っていた。その「居場所」が、私を巻き込むことでさらに肥大していくことも。
義母の視線が、鏡の中の私を捉える。その眼差しは、亡き実の母に瓜二つのこの顔を、まるで神殿の宝物のように、あるいはどこか品定めするように見定める。
「ああ、今日も神々しいお顔立ちね。神もきっと、こんなに信心深いお家で、あなたを慈しんでくださっているわ」
細く、骨ばった指が、私の頬をなぞる。その体温が、私の内側で冷たい蛇のように這いずり回り、不快感を撒き散らした。義母の賛辞は、私への愛ではない。信仰という名の狂気の淵で溺れる彼女自身の、か細い承認欲求を満たすためのものだ。私の美しさは、彼女にとって、その信仰の輝きを増すための「祭具」に過ぎない。私は、彼女の祭壇に捧げられた生贄のようなものだった。
「ありがとうございます、お義母様」
声は、仮面と一体化した笑顔と同じく、完璧に抑揚を整えて発せられる。
食卓には、すでに義兄が座している。彼の視線は、私を避けるように虚空を彷徨うが、その実、常に私の輪郭を、熱を持ちながらなぞっていることを、私は知っていた。物陰から差し込むような、ねっとりとした視線。それは、私が口にする食事の味を、泥のように変える。夜の闇に紛れて、私の部屋のドアの前で息を潜める気配は、もはや幻聴ではない。微かに軋む廊下の床、押し殺された吐息。その全てが、私の夜を、窒息するような恐怖で満たしていた。
家という閉塞的な空間から抜け出すと、ようやく肺が新鮮な空気を求めた。春の朝のひんやりとした空気が、私の体内に澱んだものを洗い流してくれるかのようだった。学校へと続く道の、土の匂い、風の匂い、そして遠くで咲く桜の甘い匂い。それは、私を偽りの日常へと誘う、開演の合図だった。
学校の門をくぐると、すぐに友人たちが私を見つけ、駆け寄ってきた。
「凛、おはようー昨日のドラマ見た?」
「萩原!!今日の数学の宿題見せて!!!」
彼らの明るい声が、私を包む。親密な距離で交わされる言葉や、笑い声は、家庭の「悪臭」を忘れさせてくれる、爽やかな風の匂いがした。私は笑顔で応え、彼らの話に付き合い、昨日の流行りのドラマの感想を交わす。私はクラスの中心にいる。学業は常に優秀で、教師たちからの信頼も厚い。先生からクラス委員長を任されれば、率先して皆をまとめる。周囲の期待に応え、誰からも慕われる「完璧な優等生」。それが、私の学校での役割だった。だが、その完璧な笑顔の裏で、私は常に疲弊していた。誰かの役に立ち、誰かに必要とされていると感じる瞬間だけが、私の存在を繋ぎ止める唯一の糸だった。しかし、本当の私を見せれば、この糸は簡単に切れてしまうだろう。その恐怖が、私をこの仮面の中に閉じ込めていた。
授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る。一日中貼り付けていた笑顔の筋肉が、引き攣るように強張っていた。誰もいない教室で、ふと窓の外を見上げると、夕焼けが茜色に空を染めていた。空は、どこまでも広く、私を拒まない。このまま、どこか遠い場所へ消えてしまえたら。この仮面も、私を縛る全てを脱ぎ捨てて。そんな思いが、胸の奥で燻る。 そんな私の心を、放課後のいつもの場所で、彼氏が待っている。
「凛、お疲れ様。今日、映画見に行かない?最近公開されたやつ、面白そうなんだ」
私の彼氏、拓海は、野球部のエースで、明るく優しい。太陽のように眩しい笑顔で、いつも私を迎えに来てくれる。彼の瞳は私だけを映し、一途に愛してくれる。彼の笑顔は、偽りを知らない。彼の匂いは、夏の草原のように爽やかで、私の家庭に澱む匂いとは、あまりにもかけ離れていた。彼が側にいると、淀んだ空気が、少しだけ浄化される気がした。 私たちは映画を見たり、カフェで他愛のない話をする。時には、夕暮れの河川敷を並んで歩いた。拓海は、私が少しでも沈んだ顔をしていると、すぐに気づいてくれる。
「どうした?何かあったか?元気ないな」
「ううん、何でもない。ちょっと疲れただけ」
私はいつもそう答える。彼の温かい手に、心のどこかで感謝しつつも、冷たい私が囁く。この温もりは、私の偽りの姿に向けられたものだと。彼が愛しているのは、私が演じる「凛」であって、本当の私ではない。その事実に、胸の奥がチクリと痛む。彼の純粋な優しさに触れるたび、私は自分が醜い嘘つきのように思えた。
「お前の笑顔が好きだ、凛。俺が、絶対お前を幸せにするから!」
その言葉は、祝福の歌のように甘美だったけれど、私の心の奥底には届かない。私の「本当の私」を知れば、彼はきっと、その純粋な光を失うだろう。その恐怖が、私を彼から遠ざける。私は、この「偽りの愛」という鎖を、自ら選び、真実から目を背け続けた。
そんなある日、進路相談のために、私は放課後の進路室へと足を踏み入れた。ノックをすると、「どうぞ」と低い声が聞こえた。古文の先生が、机に積まれた古書に顔を埋めている。
「失礼します、先生」
ドアを開けると、古書の埃っぽい匂いに混じって、あの先生独特の、静かで落ち着く香りがした。家庭に纏わりつく嫌悪感を覚える匂いとも、信者たちの奇妙な香水とも違う、清澄な香り。理性を麻痺させるような重い沈香の香りとも、拓海の爽やかな香りとも違う、静かで、しかし確かな存在感のある香り。その瞬間、私の内に深く凍てついていた心が、微かな震えと共に目覚めるのを感じた。
先生は、私が中に入ると、ゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は、私の完璧な作り笑顔の奥に何か隠されたものを見つけようとするかのように、深く、まっすぐだった。まるで、私の心の奥にある澱んだ泥沼の匂いを、彼の魂が嗅ぎ取ったかのように。
「ああ、萩原か。進路相談だったな。さあ、そこの椅子に座りなさい」
先生の声は、決して感情的になることはなく、常に穏やかだった。だが、その声の響きには、どこか私の心を落ち着かせるような不思議な力があった。張り詰めていた心が、少しずつ弛緩していく。
「ありがとうございます。先生、古文のことで少しお伺いしたいのですが…」
私は進路の相談を装い、まずは古文の学習方法について尋ねた。先生は、一つ一つ丁寧に答えてくれた。彼の声は、乾いた砂漠に染み込む水のように、私の心に沁み渡っていく。時折、私が理解に苦しむような顔をすると
「ふむ、そうか。では、この場面の登場人物の心境を、君はどう読み解く?」
と、一方的に教えるのではなく、私に考えさせるように促した。 その問いかけは、私の思考を、普段の「正解」を求めるだけの勉強とは違う、もっと深い場所へと誘うようだった。私は、彼の言葉に導かれるように、登場人物の心情を、自分自身の感情と重ね合わせながら語り始めた。
「…きっと、この姫は、本当の気持ちを誰にも言えず、ずっと寂しかったんだと思います。でも、身分も立場も違う人に、ほんの少しだけ、本当の自分を見せたかったんじゃないでしょうか」
私の言葉に、先生は静かに頷いた。そして、いつもの穏やかな声で言った。
「そうか。君は、その寂しさを、よく知っているのだな」
その言葉は、私の心を直接、撫でるようだった。私の完璧な仮面を、一瞬にして剥がされたかのような感覚。私は、返事もできずに、ただ先生の顔を見つめ返した。彼の瞳は、私が誰にも見せない「寂しさ」を、確かに見透かしていた。彼の瞳の奥には、私と同じ「寂しさ」のようなものが、微かに揺れているように見えた。
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