第15話 選んだものと得られたもの
橘への反逆の電話を終えた遼は、そのまま桐谷友里と、彼女が掴んだ不正の証拠を手に、一路、潮音館へ向かった。時刻は深夜零時を回ろうとしていた。
潮音館の玄関は閉まっていたが、波瑠香に事前に連絡を入れていたため、すぐに内側から戸が開いた。波瑠香はパジャマの上に羽織を着た姿で、驚きと緊張が入り交じった表情で二人を迎えた。
「遼くん……来てくれたのね。でも、友里さんまで。いったい何があったの?」
「波瑠香、大和はどこだ? 緊急だ。今すぐ会わせてくれ」遼の声は、疲労の色を帯びながらも、静かな覚悟に満ちていた。
波瑠香は事態の重さを悟り、二階の広間へと案内した。広間には、小さな灯りが点けられており、岬大和が一人、住民投票の署名用紙と資料を広げ、考え込んでいるところだった。
「お兄ちゃん、遼くんと友里さんが来たわ」
大和は顔を上げた。その目は徹夜で作業をしていたことを物語っており、遼の姿を捉えるやいなや、敵意と警戒が混じった鋭い光を宿した。
「何の用だ、遼。こんな真夜中に。また、俺を懐柔するための毒でも持ってきたか」大和は立ち上がり、静かに、しかし威圧的に問い詰めた。彼の声には、もう友情の欠片も感じられない。
遼は一歩踏み出し、橘から送られた脅しのビラと、友里が用意した不正の証拠のコピーを、大和の目の前の畳に置いた。
「毒ではない。これは、真実だ」
遼は、自分の胸ポケットから、皺くちゃになった古い写真をゆっくりと取り出し、その上にそっと置いた。
「橘から送られてきた、住民投票の妨害策だ。町民の不安を煽り、お前を潰すための計画だった。俺は、その実行を命じられた」
大和の険しい顔が、ビラの文言と、その横に置かれた証拠資料に目を落として、凍り付いた。彼はすぐに、そのビラが単なる脅しではなく、具体的な裏工作であることを察した。
「それで? お前は、俺を裏切るために、これを持ってきたのか」大和の言葉には、深い悲しみが滲んでいた。
「違う」遼は、まっすぐに大和の目を見つめた。「俺は、橘からの命令を拒否した。東京での地位も、成功も、すべて捨てることを選んだ。そして、この不正の証拠を持って、ここへ来た」
遼は、大和の目の前で、頭を深く下げた。
「大和。波瑠香。俺は、この町を裏切り、お前たちとの友情を壊した。この十数年間、その罪の意識から逃げてきた。だが、今、もう一度、友として、この町のために闘わせてほしい」
「この資料を見てください」友里が口を挟んだ。「町長と橘事業部長は、環境リスク補填費を削り、裏金として授受していました。彼らは、町を売っていたんです」
大和は、不正の証拠を凝視した。その顔は、最初は怒り、次に衝撃、そして最後に確信へと変わった。彼が感じていた「毒」は、彼の直感通り、卑劣な犯罪だったのだ。
大和は、無言で、証拠資料と、その上に置かれた遼と自分の笑顔の写真を見比べた。彼の目は、遼への怒りと、不正への義憤、そして友情の回復への複雑な感情で揺れ動いていた。
「お前は、すべてを失う覚悟で、ここに来たのか……」大和は、掠れた声で問いかけた。
遼は、まっすぐと顔を上げた。
「ああ。俺は、数字ではなく、この町と、お前との絆を、最後に守る道を選んだ。住民投票は、不正を暴き、町を取り戻す戦いだ」
二人の間に、静かで重い時間が流れた。白波町の命運と、二人の友情の行方が、この真夜中の広間で、究極の選択を迫られていた。
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静寂が広間を支配する中、大和は、遼が差し出した不正の証拠、妨害策のビラ、そして幼き日の写真に、視線を巡らせた。彼の表情は怒りでも悲しみでもなく、すべてを飲み込むような重い警戒心を帯びていた。
「すべてを失う覚悟、だと?」大和の声は低く、疑念に満ちた嘲笑だった。「お前の『合理的』な頭で、そんな非合理な選択を、本当にしたのか? 東京での地位、何十年もかけて築いた成功。それを、たった一枚の証拠と、過去の感傷のために捨てる、と?」
それは、大和が遼に浴びせる、最後の試問だった。彼が本当に裏切り者としての役割を捨て、町と友情を取り戻そうとしているのか。
遼は真っ直ぐに大和を見据えた。
「そうだ。俺は、橘に『もう東京には戻らない』と伝えた。俺がこの町に持ってきたものは、成功のための刃だったが、その刃は、町だけでなく、俺自身の魂も切り裂いていた。この不正を暴かなければ、俺は一生、裏切り者として生きる。そして、この町は、お前たちが守ろうとしたすべてを失う」
大和は、顔を覆った。
その行為は、遼の告白を信じたい気持ちと、過去の痛みがもたらす不信感との葛藤を示していた。
「信じられるか。あの夏、お前は俺たちを捨てたんだ。今さら、その傷を埋めるために、俺たちの戦いを利用しようとしているんじゃないのか?」
その時、そばに立っていた桐谷友里が一歩前に出た。彼女の目は、不安に揺れる遼と、試問を続ける大和の両方を捉えていた。
「岬さん。信じてください」友里は強い意志を持って語り始めた。「遼さんが地位を失うのは、本当です。私は、彼が橘部長に反逆の電話をかけたのを知っています。私は、この不正を暴くために会社を辞めました。遼さんは、私たちに証拠を渡した後、再び東京の成功者に戻る道は、完全にありません」
彼女の言葉は、外部の人間からの客観的な証明であり、大和の心に最も強く響いた。
「この不正を暴くことが、今の遼さんにとって、人間としての最後の贖罪なんです。私たちは、彼を共犯者ではなく、町の協力者として迎え入れたい。この証拠がなければ、住民投票は町長の金と橘の脅しで潰されます。私たちには、この力が必要です」
友里は、遼の覚悟を代弁し、大和に手を差し伸べた。
大和は、友里の顔、そして静かに頭を下げたままの遼を見た。彼の視線は、再びテーブルの上の古い写真に戻る。写真の中の少年たちは、純粋な夢を語り合った。その夢を、大和は今も追い続けている。
長い沈黙の後、大和は静かに息を吐いた。
「わかった」
大和は、遼の目の前で、不正の証拠である会計報告のコピーを手に取った。
「高瀬遼。
お前の動機が贖罪だろうと、自己満足だろうと、どうでもいい。だが、この証拠は、町を救うための刃だ。俺は、町民の代表として、お前が持ってきたこの刃を使う」
彼は、遼から写真の下に置かれた橘の「妨害策」のビラを払い除けた。
「住民投票は、不正との戦いになる。お前がその戦いのために、すべてを捨てたというのなら……、この町のために、命懸けで働け。それが、お前が俺たちに背を向けた十数年分の償いだ」
大和は、遼に向かって、和解ではなく、厳しい使命を与えた。友情の回復は、まだ遠い。だが、彼らは今、共通の敵と戦うための、一時的な共同戦線を組んだのだ。
遼は、大和の言葉に、涙ではなく、深い感謝を感じた。彼の顔は、久しく見せなかった、真の決意に満ちた表情を取り戻していた。
「ありがとう、大和。俺は、もう逃げない。この町を守るために、すべてを尽くす」
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岬大和からの厳しい試練を受け入れた遼は、すぐに戦闘態勢に入った。
深夜にもかかわらず、潮音館の広間は、大和、波瑠香、そして桐谷友里の四人によって、不正を暴き、住民投票を勝利に導くための作戦本部へと変貌した。
「遼。この証拠資料の信憑性は?」大和は、友里が提供した会計報告のコピーを凝視しながら問うた。
「間違いない。友里が指摘した通り、環境リスク補填費の減額分が、町長が隠し持つ『白波町未来発展促進委員会』にコンサルティング料として流れている。
これは、橘が町長に掴ませた裏金だ。公表すれば、佐々木町長は失脚し、橘は会社から追放される」
遼は、東京で鍛えた分析力とプレゼン能力を、今、故郷を守るために惜しみなく注ぎ込んだ。
「問題は公表のタイミングだ」遼は続けた。「住民投票の直前では、町長や橘が法的手段で情報自体を封殺しようとする。また、我々への逆恨みによる攻撃も激化するだろう」
友里が冷静に口を開いた。「公表は、住民投票の告示日が最適です。町民が投票という行動を起こす直前であれば、この不正は彼らの判断に最も強く影響します。そして、町長側が反論する時間も、法的措置を取る時間も奪えます」
「告示日……それが、反撃の狼煙(のろし)となる」大和は頷いた。
大和は、すぐに町民投票の準備を進める反対派の仲間たち、特に漁師の三浦重蔵に連絡を取った。
「三浦の親父。今すぐ、町中の信頼できる人間を集めてくれ。遼が、町長と東京の会社の決定的な不正の証拠を持ってきた。町民投票は、不正を暴くための戦いになる」
遼と友里は、公表のための『告発文書』の作成に取り掛かった。
遼は、自身がかつて橘の側近であったという、最も危険な立場を最大限に利用することにした。告発文書は、単に不正を指摘するだけでなく、「東京の会社による故郷への欺瞞の全貌」を、内部告発者の視点から、徹底的に暴く内容とした。
「俺が、町長への裏金の流れ、そして、橘が私に命じた住民投票妨害策の全細目をすべて記述する」遼は決意の表情で言った。「賛成派の組織化、大和の信用失墜を狙った脅し。すべてを公表すれば、町民は、町がどれほど危険な状態にあったかを知るだろう」
波瑠香は、二人が作成する告発文書を読み、涙を堪えるように口元を覆った。
「遼くん……あなた、本当にすべてを捨てるのね。会社から、何をされるか分からないのに」
「もう、失うものはない」遼は静かに返した。「俺には、この不正を公表し、大和の戦いを勝利に導く、最後の仕事が残っているだけだ」
大和は、遼の覚悟を認め、深く息を吐いた。
「わかった。告示日、町民集会の場で、俺がお前の代わりに、この告発文書を読み上げる。そして、町の魂を賭けた住民投票の始まりを宣言する」
真夜中の潮音館で、遼と大和、そして友里と波瑠香の四人は、固く手を結んだ。それは、友情の復活と、町への誓いを象徴する、確固たる結束だった。
彼らの反撃の狼煙は、白波町の夜明けと共に、全国を揺るがすことになるだろう。
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告発文書の最終チェックを終えたときには、既に夜明けが迫っていた。空は濃い藍色から、かすかに光を帯びた群青色へと変わり始めている。潮音館の広間には、徹夜明けの静かな熱気が満ちていた。
遼は広間の隅で、桐谷友里に向き合った。大和と波瑠香は、次の行動のため、すでに広間を出て仲間たちとの連携を固めている。
「桐谷君。告発文書の公表は、必ず町長の不正を暴き、住民投票の流れを変えるだろう」遼は低い声で言った。「だが、橘は黙っていない。必ず、俺たちへの報復に出る」
友里は頷いた。「わかっています。特に、高瀬さんへの攻撃は激しいでしょう。内部告発者は、最も会社から敵視されます」
「だからこそ、これは最後の密命だ」
遼は、友里の手に、自分が作成した告発文書の原本と、不正会計の詳細を記録したUSBメモリを握らせた。
「この証拠の原本は、俺たちではなく、第三者の手に渡っている必要がある。俺たちがもし、橘や町長側に拘束されたり、証拠を揉み消されたりしても、真実が闇に葬られないようにするためだ」
友里は緊張した面持ちで、USBメモリを強く握った。
「誰に渡せばいいんですか?」
「東京の本社の人間ではない。この町とも、橘とも、一切関係のない人物だ。俺が唯一、信頼できる外部の人間――弁護士、あるいは、以前俺が世話になった、倫理的な報道機関の人間だ」
遼は、人差し指で広間の外を指し示した。
「夜明けと共に、町外れの古いバス停へ向かえ。俺が呼んだ人間が、そこにいる。すべてを話し、この証拠を預けてほしい」
この行動は、遼が橘の支配から完全に脱し、「内部告発者」としての道を歩み始めたことの、決定的な証明だった。彼は、自分の安全を顧みず、町を救うための「保険」をかけているのだ。
友里は、遼の真剣な覚悟を受け取り、強く言った。
「分かりました。遼さんのために、必ずこの証拠を守り、正しく公表されるように手配します」
「いや、違う」遼は首を振った。「俺のためじゃない。この町と、岬大和の戦いのためだ。そして、君が正しいと信じる道のためだ」
遼は友里の肩に手を置き、その真っ直ぐな瞳を見た。彼は、彼女の持つ純粋な正義感こそが、この戦いを勝利に導く鍵だと知っていた。
「頼む、桐谷君。俺はここで、大和と共に、敵の攻撃を引き受ける。君は、真実の光を届ける役割だ」
友里は立ち上がり、静かに一礼した。彼女の背中は、もう不安に満ちた若い社員のものではなく、使命感に燃える共闘者のそれだった。
「必ず、やり遂げます。必ず、白波町を救いましょう」
友里は、日の出前の冷たい空気の中、慎重に潮音館を後にした。
広間に一人残された遼は、窓の外の海を見つめた。水平線が、僅かに赤く染まり始めている。太陽が昇れば、橘と佐々木町長からの報復が始まるだろう。だが、彼の心には、長年の重苦しい罪悪感から解放された、静かな昂揚感が満ちていた。
「大和。今度こそ、お前と共に戦う」
遼は、親友の戦いに身を投じるため、広間を出て、町民集会が開かれる漁港へと向かった。反撃の狼煙が上がるまで、残された時間はわずかだ。
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住民投票の告示日、午前十時。
白波町の漁港は、かつてないほどの熱気に包まれていた。漁師、商店主、家族連れ、高齢者まで、数百人の町民が、大和を中心とする反対運動の旗の下に集結していた。
佐々木町長側も黙ってはいなかった。町役場の広報車が「経済を救おう」「未来への投資を拒否するな」と、遼が用意したネガティブキャンペーンの言葉を拡声器で繰り返し叫び、広場の一角には、動員された賛成派の住民たちが、リゾート開発の垂れ幕を掲げていた。町は完全に二分されていた。
高瀬遼は、集まった人々の群衆の最後尾、三浦重蔵ら漁師たちの中に身を潜めていた。彼は、いまだ町民にとって「東京の会社の人間」であり、公然と壇上に立つことはできない。彼の役目は、大和が告発を始めた際の護衛と証拠保全だった。
大和が、漁船を修理するドックの屋根に組まれた即席の演壇に上がった。彼の背後には、「白波の未来は俺たちが決める」と書かれた横断幕が風に揺れている。
「みんな、集まってくれてありがとう!」大和の声は、マイクを通し、海鳴りに負けない力強さで響き渡った。「今日から始まる住民投票は、この町の未来と魂を決める戦いだ。俺たちは、この町を売らせない!」
観衆から、熱狂的な歓声が上がった。賛成派の広報車が、さらに大きな音量で妨害を試みる。
「町長と東京の会社は、俺たちの不安を煽っている。『開発が中止されれば町は滅びる』と! だが、俺たちが本当に恐れるべきは、この町を裏切る不正だ!」
大和は、一呼吸置いた。彼の視線は、町長の広報車の方向を一瞥し、そして、群衆の中の遼を一瞬捉えた。
「俺は今から、東京の会社、そして佐々木町長が、この町に対して行ってきた卑劣な裏切りを、すべてこの場で告発する!」
大和は、遼と友里が徹夜で作成した告発文書を、マイクの前に突き出した。
「この文書は、東京の会社が、町長に裏金を渡し、開発計画を進めようとした不正の証拠だ!」
広場は、一瞬にして静まり返った。広報車の叫び声だけが虚しく響く。
「東京の会社は、環境補償費を削り、その金を町長の息子が個人で設立した団体に『コンサルティング料』という名目で流していた! 佐々木町長は、この町の未来を、個人の懐を肥やす道具として売り渡そうとしたんだ!」
ドッと、静寂が破れるほどの動揺と怒号が広場に満ちた。
「嘘だ! そんなことはない!」佐々木町長の側近が、群衆を押し分けて叫んだ。
大和は動じない。
「嘘ではない! この告発文書には、裏金の具体的な会計報告が記されている。
そして、この不正を暴いたのは、他でもない、この計画を推進するために町に来た東京の会社自身の人間だ!」
大和は、一呼吸置いた後、渾身の力を込めて、遼の存在を公にした。
「その人物は、高瀬遼だ! 彼は、会社からの脅迫を拒否し、昇進の道を捨て、すべてを失う覚悟で、町長と橘の不正の証拠を俺たちに提供した!
彼は今、この場にいる!」
群衆の視線が一斉に、遼が身を潜める群衆の最後尾へと集中した。
遼は、覚悟を決めて、一歩前に踏み出した。彼の表情は青白いが、目はまっすぐ前を見据えている。彼は、今、町の未来を賭けた戦いの、最前線に立たされたのだ。
「彼は、裏切り者ではない! 町を救うための、真の共闘者だ!」
大和の宣言は、遼の東京でのキャリアに終止符を打ち、同時に、彼を故郷の守護者として生まれ変わらせた。
群衆は、驚きと怒りのあまり、一瞬声を失ったが、やがて、不正を働いた町長と会社への怒りが爆発した。
「佐々木を辞めさせろ!」
「裏切り者!」
住民投票は、ここに、「開発の賛否」から「不正の糾弾」という、全く新しい戦いへと変貌を遂げたのだった。
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岬大和による告発は、白波町を一瞬にして激震させた。町民の怒りは、リゾート開発への賛否を超え、佐々木町長と東京の会社による不正へと集中した。
告発からわずか二時間後、遼の携帯電話に、東京本社の人事部から一通のメールが届いた。それは、橘浩一による、即座の、そして徹底的な報復だった。
件名:解雇通知と法的措置について
貴殿は、重大な秘密漏洩と会社への背信行為により、本日付で懲戒解雇とする。また、貴殿による機密情報の不正持ち出しおよび公開は、会社の名誉と経済的利益を著しく損なうものであり、刑事・民事両面での訴訟を速やかに提起する。東京本社への立ち入りは一切禁止とする。
人事部
遼は、携帯を握りしめたまま、漁港の隅に立ち尽くした。彼はすべてを失う覚悟を決めていたが、実際にその言葉を突きつけられると、長年追い求めたキャリアの終焉という現実の重みに、改めて打ちのめされた。
「刑事・民事の訴訟……」
それは、故郷を守った代償として、犯罪者として告発され、巨額の賠償金を背負うことを意味していた。遼は、自分の人生が、一瞬にして「無」になったことを悟った。
その時、町役場側から動員されていた賛成派の群衆の中から、数人の男たちが遼に近づいてきた。彼らは佐々木町長と繋がりが深い、町外の建設業者や、リゾート計画で利益を得ようとしていた者たちだった。
「おい、高瀬! お前、何を勝手なことをしやがるんだ!」
「お前のせいで、計画が潰れたら、俺たちの利益はどうなる!?」
男たちは、怒りに満ちた顔で遼を取り囲んだ。彼らの怒りは、町長が不正を働いたことよりも、自分たちの利益が失われたことに向けられていた。
「静かにしろ! 俺が話す」
一人の男が、遼の胸倉を掴んだ。
「お前は、この町のために来たんじゃないのか! なぜ、金を貰って、裏切るような真似をする! 責任を取れるのか、この裏切り者め!」
遼は、もはや反論する力も、説明する義務も感じなかった。彼らは、真実よりも目の前の利益を信じている。
「裏金をもらっていたのは、町長だ。俺は、町を救うために……」
「うるさい!」男は遼を突き飛ばした。
遼は倒れ込み、アスファルトに手を付いた。彼の周りに集まっていた群衆は、この騒動に驚きながらも、「東京の会社を裏切った人間」に対する町長の支持者たちの感情的な報復を、静観するしかなかった。
その瞬間、大和が群衆をかき分けて駆けつけた。
「やめろ! 何をしている!」
大和は男たちを力強く押し戻し、遼の前に立った。
「遼は、この町のために命懸けで不正を暴いた! お前たちが攻撃すべきは、彼じゃない! 町を売ろうとした佐々木町長だ!」
しかし、男たちは聞く耳を持たない。彼らは、遼を「東京から来た裏切り者」として攻撃することで、自分たちの失われた利益への怒りを発散させていた。
「岬! お前も同罪だ! リゾートができれば、お前の旅館だって潤うはずだったのに!」
大和は、遼を立たせ、その背中を庇った。
「俺は、金でこの町を売らない。遼もそうだ。行け、遼。ここは俺が引き受ける」
遼は、大和の背中を見た。友の信頼、そして、自分に向けられた町の一部からの憎悪。彼は、東京の成功を失っただけでなく、故郷の人間関係の複雑な闇にも直面していた。
遼は、大和の指示に従い、人々の視線から逃れるように、漁港を後にした。彼の足取りは重い。
成功者としての地位を失った今、彼は故郷の守護者として、孤独な戦いを強いられていた。彼の前途には、橘からの訴訟、町長からの逆恨み、そして、故郷の一部からの不信という、三重苦が待ち構えていた。
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漁港での騒動から逃れた遼は、潮音館の裏手、三人が幼い頃によく遊んだ小さな入り江の防波堤に座り込んでいた。手には、橘から送られてきた冷たい懲戒解雇通知と、巨額の損害賠償訴訟を予告するメールが残されている。
成功者の地位を失い、故郷の一部から憎悪を受け、さらに法的な罰を背負うことになった。
彼の人生は、文字通り、一夜にして崩壊した。
その時、背後から波瑠香が近づいてきた。彼女は、遼のために温かいタオルとコーヒーを持っていた。
「お兄ちゃんは、まだみんなの家を回っているわ。友里さんも、証拠の最後の裏付けを外部の弁護士と連携させている。町は、完全に住民投票の熱狂に包まれている」
波瑠香は、遼の隣に座り、コーヒーを手渡した。彼女は、彼が受けた仕打ちをすべて知っているはずだが、その目には非難の色は一切なかった。
「解雇通知、見たのか」遼は静かに言った。
「ええ。そして、あなたを突き飛ばした人たちのことも」波瑠香は海を見つめたまま、続けた。「ひどい仕打ちだったわ。でも、あなたは、正しいことをした」
その言葉は、遼の心の固い氷を溶かすように響いた。
「俺は……すべてを失った。成功者としての地位、キャリア、そしてこれから、橘との法廷闘争が始まる。俺は、町を守った代わりに、犯罪者予備軍になった」
波瑠香は、そっと遼の手に触れた。その温かさは、東京の乾いた人間関係にはなかったものだ。
「そうよ。あなたは成功者としてのすべてを失った。でも、あなたは、あの白い波に誓った子どもの頃の遼に戻ったのよ」
彼女は、静かな確信をもって言った。
「あなたは、佐々木町長や橘さんのように、金と数字の奴隷になる道を選ばなかった。友人として、故郷の人間として、人間としての尊厳を選んだ。町長や橘に訴訟を起こされようと、町民の一部に憎まれようと、あなたが選んだ道は、魂が報われる道よ」
遼は、波瑠香のまっすぐな言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。大和の言葉は「使命」だったが、波瑠香の言葉は「赦し」だった。
「これで……俺は、この町で生きていけるのか」
「ええ」波瑠香は力強く頷いた。「あなたがすべてを捨てたことで、お兄ちゃんは、町民に不正の真実を伝えることができた。町長側の妨害策はすべて無力化した。住民投票は、公正な一騎打ちになった。あなたの犠牲が、この町の未来を変えたのよ」
彼の孤独で非合理的な選択は、波瑠香の無条件の赦しによって、初めて絶対的な正義となった。
遼は、深く、長い息を吐いた。彼の顔から、成功者としての仮面が完全に剥がれ落ちた。残ったのは、疲労と、これから始まる厳しい現実に立ち向かう、静かで確固たる決意だった。
「俺は、逃げない。この訴訟も、この町の未来も、すべて引き受ける」
彼は立ち上がり、水平線に目を向けた。太陽は完全に昇り、海面はキラキラと光っている。その白波の輝きは、彼が幼い頃に誓った、純粋な心そのものだった。
住民投票の投票終了まで、あと少し。
遼は、新しい自分として、町と友の運命を見届けるため、静かに歩き出した。
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波瑠香からの赦しを受け、遼の心は静かな決意に満たされていた。彼はそのまま潮音館には戻らず、一人、投票が行われている公民館の周辺を歩いた。
彼の姿は、もはや東京から来たエリートビジネスマンではない。質素な服装は疲れと、背負った重い運命を物語っている。
町民の誰もが彼を知っているが、ほとんどの者は声をかけない。その沈黙は、彼が故郷のために払った犠牲への敬意と、彼のキャリアを潰した不正への怒りが混じった、複雑な感情だった。
投票所の前では、大和が汗だくになりながら、投票を促す最後の訴えを続けていた。彼の隣には、漁師の三浦重蔵たちが立ち、反対派の強い連帯を示している。
遼は、大和に近づくことを躊躇した。自分の存在が、投票所の空気をこれ以上乱すことを恐れたのだ。彼は遠巻きに、親友の最後の闘いを見守る。
「町の皆さん! 高瀬遼が、すべてを失う覚悟で持ってきてくれた証拠を信じてください! これは、町を売ろうとした裏切り者たちとの戦いだ! 私たちの町を、私たちの手に取り戻そう!」
大和の魂の叫びが、海風に乗って響き渡る。
午後五時。日が西に傾き、海面を赤く染め始めたその時、町役場の職員が投票所の入り口に立ち、「投票終了!」を告げるブザーが鳴り響いた。
全ての動きが止まった。広場に集まっていた町民たちは、期待と不安、そして疲労がないまぜになった表情で、開票所の公民館を見つめた。
遼は、大和と合流した。二人は、言葉を交わすことなく、ただ頷き合った。友情の修復は、言葉や謝罪ではなく、共に戦うという行動によって、すでに完了していた。
「遼」大和が静かに言った。「お前の犠牲は、決して無駄にはならない」
「俺がすべきことは、すべてやった。あとは、町の意思を信じるだけだ」遼は返した。彼の声には、決意の後の、深い虚脱感が滲んでいた。
二人のそばに、波瑠香と、用事を済ませて戻ってきた桐谷友里が合流した。四人は、運命の審判を待つために、公民館の階段に座り込んだ。
開票作業が始まった。中は異様な緊張感に包まれている。町長派の幹部と、反対派の代表である三浦重蔵が、開票立会人として中にいる。
待つこと一時間。外はすっかり闇に包まれ、公民館の窓から漏れる光だけが、開票結果を待つ人々の顔を照らしていた。
遼は、ポケットからあの古い写真を取り出し、指で優しく撫でた。写真の中の三人の笑顔が、今の彼らを静かに見つめている。
そして、午後七時過ぎ。
公民館の扉が開き、佐々木町長の秘書が、信じられないほど青ざめた顔で飛び出してきた。彼の顔は、敗北を物語っていた。
そして、続けて出てきた三浦重蔵が、広場に集まった町民に向かって、声を張り上げた。彼の声は震えていたが、それは歓喜によるものだった。
「みんな! 住民投票の結果が出た! 開発計画、反対多数!!」
その瞬間、広場は、一瞬の静寂の後、熱狂的な歓声に包まれた。海鳴りにも負けない、町民たちの歓喜の叫びが夜の空に響き渡る。抱き合い、涙を流す人々。
彼らは、自らの手で、町の未来を取り戻したのだ。
大和は、その場で崩れ落ちるように膝を突いた。波瑠香がすぐに彼を抱きしめた。
遼は、静かに立ち上がった。
彼の犠牲は、報われた。彼のキャリアは終わったが、彼の故郷は救われたのだ。
大和が顔を上げ、遼を見つめた。その目には、勝利の喜びと、深い感謝の念が満ちていた。
二人の幼馴染は、成功と友情の究極の選択の末、町の未来という、最も大切なものを共に守り抜いたのだった。
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住民投票の「反対多数」が確定した後も、漁港を包む歓喜の渦は収まらなかった。人々は抱き合い、喜びを分かち合う。大和は群衆に囲まれ、英雄のように称えられていた。
遼は、その喧騒から一歩離れた場所で、勝利の光景を見つめていた。彼の表情には、安堵と、すべてを出し尽くした後の静かな達成感が浮かんでいた。
やがて、人々の波が引いた後、大和が波瑠香と友里を伴って、遼のもとへ歩み寄った。
大和は、無言で遼の肩を叩いた。その眼差しは、言葉以上の信頼と深い感謝を伝えていた。
「遼。勝ったぞ」大和は、掠れた声で言った。
「ああ。お前が勝ったんだ、大和」遼は微笑んだ。その笑顔は、東京で成功を掴んだ時の傲慢な笑みではなく、故郷の少年の無邪気さを宿していた。
大和は、遼の顔を真正面から見つめ直した。
「本当に、すべてを捨てたんだな。昇進も、地位も。これから、橘からの訴訟がある。お前が負った代償は、あまりにも大きい」
「俺が失ったのは、いつか失うはずだった砂の城だ。その代わりに、俺は故郷と、お前たちの絆を取り戻した。それで十分だ」
波瑠香は、涙をこらえきれずに二人に近づいた。
「遼くん……ありがとう。本当に、ありがとう。あなたこそ、この町を救った真の英雄よ」
「違う」遼は首を横に振った。「俺は、自分の罪を償っただけだ。町を守ったのは、お前たちと、町民一人ひとりの意志だ」
その時、桐谷友里が、少しはにかんだように口を開いた。「遼さん。私の密命は完了しました。証拠の原本は、確実に外部の弁護士の手に渡っています。これで、橘と町長は、法的にも逃げ場はありません」
「ご苦労だった、桐谷君」遼は友里に深く頭を下げた。「君がいなければ、俺は不正を暴くことも、この一歩を踏み出すこともできなかった。君が、俺の良心を繋ぎ止めてくれた」
四人の間には、硬い絆が結ばれていた。それは、過去の友情に、大人の覚悟と連帯が加わった、新しい友情だった。
「さて、これからどうする、遼」大和が訊ねた。
「橘との戦いが待っている。この町を離れ、しばらくは身を隠す必要があるかもしれない。訴訟が始まれば、この町に迷惑をかける」
「迷惑なんかじゃない」大和は強く言った。「お前はもう、俺たちの仲間だ。逃げる必要はない。この町に残るなら、俺たちが全力でお前を支える。俺の旅館でも、漁師の仕事でも、何でもいい。この町には、お前を匿う場所がある」
遼は、大和の心からの言葉に、深く感動した。成功者としての自分を捨ててもなお、故郷が彼を必要としてくれる。
「ありがとう、大和。だが、俺は、自分の力で、橘にケリをつける必要がある。すべてが終わったら、必ず、この白波町に戻ってくる。その時まで、この町を頼む」
遼は、胸ポケットから古い写真を取り出し、大和と波瑠香の前に差し出した。
「もう一度、誓おう。俺たちが、子どもの頃に、この白い波に誓ったことを。『この町を守り、そして、三人の絆を二度と裏切らない』と」
三人は、再び、写真に手を重ねた。夜の海から聞こえる波の音が、彼らの誓いを静かに見守っていた。
夜が明けたら、遼は一人、この町を出る。
失脚した町長の混乱、橘からの訴訟、孤独な戦いが彼を待っている。だが、彼の心は、故郷と友情という名の、揺るぎない錨によって繋ぎ止められていた。
遼は、朝日が昇る海に向かい、静かに未来への一歩を踏み出した。その足取りは、もう誰の命令にも従わない、彼自身の人生を歩み始めた、自由な人間の足音だった。
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