第8話 橋を架ける役目
夜の潮音館は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
館内の廊下には、客室から漏れ聞こえる笑い声や食器の音もなく、ただ板張りの床が夜気にきしむ小さな音だけが響いていた。遼は、貸し切り状態のように静まり返った広間の片隅に腰を下ろして、説明資料に再度目を通していた。
障子を隔てた向こうには、絶え間なく寄せては返す波の音。白波町特有の、砂を噛むようなざらつきを伴った潮騒だ。その音を聞いていると、胸の奥に沈んだ過去が自然と浮かび上がってくる。大和と笑い合っていたあの頃、そして、互いに背を向けたあの夜。
――今夜も眠れそうにないな。
手元の湯呑みには、さきほど自販機で買った麦茶がまだ温さを保っていた。喉は乾いているはずなのに、口に運ぶ気になれない。思考の底に溜まった澱が、喉元を塞いでいるようだった。
ふと、障子がすっと開いた。
振り向くと、浴衣姿の波瑠香が立っていた。濃紺の布地に淡い白の花模様が散らされ、濡れた髪が肩にかかっている。入浴を終えたばかりなのだろう。柔らかな湯気の香りが、潮風と入り混じって遼の鼻をかすめた。
「……こんな時間に、珍しいね」
彼女は遠慮がちに微笑みながら、遼の向かいに座った。
「寝られなくてな」遼は答えた。
「そっちこそ」
「同じ。……波の音を聞いていたら、いろいろ思い出しちゃって」
灯りに照らされた波瑠香の顔は、どこか影を帯びていた。普段は明るく人を和ませる彼女が、今夜に限って沈んだ瞳をしている。その変化に気づいた遼は、胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
「ねえ、遼くん」
波瑠香は、少し言葉を探すように間を置いてから、声を落とした。
「……兄はね、あの夏、本当に傷ついたんです」
その言葉は、波の音よりも深く、遼の胸に沈んでいった。
「俺は……」
何かを言い返そうとしたが、喉の奥が張り付いて声が出ない。
波瑠香は彼をまっすぐに見据えた。瞳は揺れていたが、逃げる気配はなかった。
「兄は、不器用です。責任感ばかり大きくて、周りに甘えることもできない人。だから余計に、あなたにだけは支えてもらいたかったんだと思います」
遼は視線を落とした。畳の目が、不自然なほど鮮明に映り込んでくる。
「でも、遼くんは東京に行く決意をして……それは間違っていない。むしろ当然の選択だったはずです。私だって、頭ではそう分かってる。でも――」
波瑠香は、両の手を膝の上で固く握った。
「兄にとっては、それが置き去りにされたように感じられたんです。……しかも、大切に思っていた人まで、あなたに取られたように見えてしまった」
波瑠香は目を閉じた。あの夏の日が、鮮烈に脳裏によみがえる。
――駅前で話していた遼と同級生の少女。相談をしていただけだった。だが、それを見た大和の眼差しは、氷のように冷たかった。
あの瞬間、自分は何も言い訳せずに立ち尽くしてしまった。
「誤解だ」と叫べばよかったのに。
「そんなつもりじゃない」と笑い飛ばせばよかったのに。
――結果、大和は真実を知らぬまま傷を抱えた。
「兄はね、遼くんのことを信じていたからこそ、裏切られたように感じたんです」
波瑠香の声が震える。
「信じていた人に、自分の大切なものを奪われたと……。その痛みは、きっと今でも残ってる」
遼の胸が締めつけられた。
裏切った覚えなどない。だが、結果的に彼の信頼を裏切ったのは、自分に違いない。
静かな時間が流れる。波の音だけが、二人の間を満たしていた。
「……波瑠香」
遼は低い声で言った。
「俺は、そんなつもりじゃなかった。だけど、何も説明しなかった。それが一番の罪なんだろうな」
波瑠香は顔を上げた。灯りに照らされた瞳に、涙がきらめいていた。
「兄はね、怒ってばかりに見えるけど、本当はずっと、遼くんとまた笑い合いたいんよ。私には分かる。……でも、どうしても素直になれないだけ」
遼は言葉を失った。
波瑠香の涙が、過去の誤解とすれ違いの重さを雄弁に物語っていた。
「お願いです。……兄を、許してあげてください」
その声は、切実な祈りのようだった。
遼は拳を握りしめた。過去を否定することも、なかったことにすることもできない。だが――赦すことなら、できるのかもしれない。
答えはすぐには出せなかった。だが、その夜、遼の胸に初めて「赦し」という言葉が確かな形を帯びて宿った。
---
宿に戻った遼は胸に溜まった重い空気を吐き出すように、椅子に腰掛けながら息を吐いた。
宿の小さな机の上に、薄暗い電灯の光が落ちていた。資料の束とノートパソコンの間に、いつのまにか紛れ込んでいた古い封筒がある。町役場の倉庫で見つけた広報誌の束を整理しているときに、偶然手元に残ったものだった。
遼は、それを恐る恐る開いた。中には、色あせた数枚の写真。
一枚には、小学生の自分と大和、そしてまだ小さかった波瑠香が笑顔で並んでいる。夏祭りの日の写真だろう。浴衣姿の波瑠香を真ん中に、両側で肩を組んだ自分と大和は、太鼓のバチを誇らしげに掲げている。
――どうして、俺たちはあのまま進めなかったんだろう。
胸の奥が重く沈む。東京へ行くことしか考えられなかった十代の自分。母の言葉が耳の奥に残っている。
「遼、あんたはこんな町に埋もれる子じゃない。外の世界で大きなものをつかみなさい」
あの言葉は、誇りであり、呪いでもあった。母に認められたい一心で、夢中になって勉強し、都会を目指した。だが振り返れば、それは同時に「町を選ばない」という宣言でもあったのだ。
写真の中の大和の笑顔を見つめる。あのとき、彼はもうすでに旅館を継ぐ覚悟をし始めていた。父の背中を追い、町を守ることが自分の使命だと信じて疑わなかった。遼には、それが頑固で狭い選択に思えた。だが――。
「……本当にそうだったのか?」
思わず声に出していた。机の上に置いた写真が揺れる。
大和は「町を守る」ために残った。遼は「未来をつかむ」ために出ていった。口にすれば正反対の選択に見える。だが根底には、同じ夢があったのではないか――そう思うと、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
あの夏の夜、神社の境内で交わした言葉がよみがえる。
『お前なんか、もう友じゃない』
『じゃあ勝手に町に縛られてろ』
声を荒らげながらも、どこかで「引き止めてほしい」と願っていた。だが互いに背を向け、言葉を選ぶ余裕などなかった。遼は「裏切られた」と思い、大和もまた「裏切られた」と思った。それぞれが自分の正義を握りしめ、相手の心を見ようとはしなかった。
結果として残ったのは、十数年を経てもなお消えない溝。
遼は額を押さえ、深く息を吐いた。パソコンに映る開発計画の数値資料が、無機質な輝きでこちらを見返してくる。雇用創出、経済波及効果、税収の上昇率――完璧なロジック。しかし、どれだけ並べても、大和の胸に届くことはないだろう。
「数字で人を動かせると思っていた。けど……」
声はしぼんでいく。
波瑠香の言葉が耳に残っていた。
『兄さんはね、本当に傷ついたの。信じてたからこそ……』
信じていたからこそ。
その一言が、心に棘のように刺さる。
自分もまた、大和を信じていた。二人ならどんな未来も切り拓けると。だからこそ「都会へ行く」という選択を分かち合えると思っていた。だが大和は違った。彼には彼の未来があり、それは町に根ざすことだった。
――俺は、あのとき大和の未来を軽んじた。
ようやく認めざるを得なかった。
机の上の写真をそっと裏返す。そこには幼い文字で書かれた一言が残されていた。
「ずっと友だち 三人で」
波瑠香の筆跡だ。拙い字が、今は凶器のように胸を突く。
遼は椅子にもたれかかり、天井を見上げた。蛍光灯の淡い光がにじんで見える。
「……俺もまた、裏切ったんだ」
その呟きは、誰に届くこともない。けれどその一言を口にした瞬間、心の奥に沈殿していた重石がひとつ、音もなく崩れ落ちたように感じられた。
外からは、波の音がかすかに聞こえてくる。
潮騒が、過去の記憶と現在の痛みを優しくつなぎ合わせていく。
だが、和解の糸口はまだ見えない。
むしろ、自分の罪を認めたことで、大和との距離の深さが改めて突きつけられたように思えた。
机の上の写真をもう一度手に取り、遼は唇をかみしめる。
「……どうすれば、あの頃に戻れる?」
返事はない。潮の匂いだけが窓から忍び込み、孤独な部屋を満たしていった。
---
夜の潮音館は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。玄関の提灯が揺れ、遠くで虫の声が絶え間なく響いている。廊下を歩くと古い木の床がきしみ、館全体が深い呼吸をしているようだった。
大和は、客室の点検を終え、帳場に腰を下ろした。日中は祭りの準備や旅館の手配で慌ただしく動き回り、ようやくひと息つける時間だ。帳場の窓を開けると、潮風がすっと吹き込んでくる。磯の香りが胸の奥を満たすたびに、彼の心には決まってひとりの影がよみがえる。
――遼。
名前を口に出さずとも、その存在は鮮烈に胸を占めていた。
帳場の隅に置かれた太鼓の撥が目に入る。祭りの時期になると、いつもここに置いておくのが習わしになっていた。小学生の頃、遼と並んで太鼓を叩いた日のことが、ありありと浮かんでくる。汗まみれで、息がぴたりと合った瞬間の誇らしさ。あの時の自分は疑いもなく、遼と共に未来を歩んでいけると思っていた。
しかし――。
大和は撥を手に取り、重さを確かめるように握りしめた。木の感触は変わらないのに、心にのしかかるものは昔とは比べものにならないほど重い。
「信じてたんだよ……あの頃は」
独り言のように呟きがもれる。
信じていた。遼ならば、いつか町を背負って共に立ってくれる、と。自分ひとりでは背負いきれない責任も、二人でなら――そう思えた。だが、現実は違った。遼は町を出て行き、都会で未来を掴もうとした。残された大和は、父の病と旅館の重みを一身に背負い、気づけば孤独の中で必死にもがいていた。
その孤独を、誰よりも分かってくれるはずだったのに。
帳場の帳簿に目を落とす。数字が並んでいるが、すぐに霞んで見えなくなる。波瑠香にさきほど言った言葉が蘇る。
『信じたからこそ痛かったんだ』
本当のところ、大和はまだその痛みから抜け出せていない。遼を恨む気持ちは確かにある。だが、同時に、あの頃の笑顔が心を締めつける。憎しみと懐かしさ、その矛盾に引き裂かれるような夜を、何度繰り返してきただろうか。
窓の外に目をやると、月明かりに照らされた海が広がっていた。穏やかな波が静かに寄せては返す。その音を聞いていると、過去の記憶と現在の想いが交錯し、胸の奥に渦が巻く。
「裏切られたと思った……けど……」
撥を握る手に力が入る。
もしかすると、遼の方も同じように「裏切られた」と思っていたのかもしれない。互いに自分の道を選び、それを理解してほしかった。けれど、言葉はぶつかり合い、誤解だけが残った。
あの夏、神社の境内で吐き捨てた言葉が耳に蘇る。
『お前なんか、もう友じゃない』
自分の声なのに、胸を突き刺す刃のように鋭い。
もしあの時、少しでも違う言葉を選んでいたら――。
もしあの時、遼が立ち止まってくれていたら――。
問いを繰り返しても答えは出ない。それでも、大和の心は「まだ遼を憎み切れない」という一点に、どうしようもなく引き戻されていた。
帳場の戸口から気配がした。振り返ると、波瑠香が立っていた。白い寝間着姿のまま、静かに兄を見つめている。
「お兄ちゃん……まだ起きてたの?」
「ああ……ちょっと、考えごとだ」
大和は撥をそっと机に戻した。
波瑠香は一歩近づき、声を落とした。
「やっぱり……遼くんのこと?」
図星を刺され、大和は返事をしなかった。だが、その沈黙こそが答えだった。
妹は兄の横顔をじっと見つめ、微かに微笑んだ。
「お兄ちゃん……本当はまだ、友だちだと思ってるんでしょ」
その言葉に、胸の奥の何かがかすかに震えた。だが、大和は顔を背けるようにして短く言った。
「……簡単に戻れるもんじゃない」
波瑠香は何も言わず、ただそっと帳場を後にした。
残された大和は深く息を吐き、もう一度海に目を向けた。月明かりの下で揺れる波は、まるで遠い昔の二人の笑い声のように、途切れ途切れに聞こえてくる。
「……友じゃない、か」
呟いた声は夜に溶け、潮騒と混ざり合った。
その胸の奥には、消せない痛みと、それでも消しきれない友情の残り火が、まだ確かに燻っていた。
---
遼は、東京の高層ビル群を思い浮かべていた。
ガラスに覆われた会議室で、数字と効率を突きつけるように資料を並べ、部下たちに冷静な声で指示を飛ばす自分の姿。結果だけが評価され、情に流される余地のない世界。
そこでは確かに、彼は成功者だった。肩書きも、収入も、周今になって思えば、その道を選んだ瞬間から、どこかで「何か」を置き去りにしてきたような感覚が拭えない。
潮風を受けながら遼は目を閉じた。
耳に届く波の音が、なぜか東京のざわめきよりも鮮やかに響く。白波町を背にして歩き出したあの日の決意が、果たしてどれほど強固なものだったのか――今ではもう、胸を張って答えることができない。
一方、大和の現在はまるで正反対だった。
旅館「潮音館」の暖簾を守るため、彼は町に残った。父の病を機に、責任という重みを背負い込み、地元の青年団をまとめ、祭りを仕切り、観光客を迎え、町の人々と笑い合う。
華やかな肩書きも、数字で示される業績もない。だが、大和の背中には「町の代表」としての誇りと信頼が宿っていた。人々が困れば彼を頼り、彼が声を上げれば誰もが耳を傾ける。
それは、遼が都会で得た“力”とは別種のもの。目に見えず、数値化もできない、けれど確かな力だった。
同じ防波堤に並んで未来を語った二人の少年は、やがて全く異なる道を歩んだ。
遼は遠くへ行くことで自分の価値を証明しようとし、大和は町に残ることで自分の使命を果たそうとした。
その選択はどちらも正しく、どちらも間違ってはいない。だが、その違いが、あの夏の決裂を生み、今なお二人の心を隔てる壁となっている。
――あの頃の自分たちが見たら、今の二人をどう思うだろう。
遼は苦笑を浮かべた。大和もまた、ふとした瞬間に同じ問いを胸に抱いていた。
過去の分岐点で互いを選び切れなかった二人の歩みは、今なお、交わらないまま平行線を描き続けている。
---
夜の白波町は、昼間のざわめきが嘘のように静まっていた。
潮の香りを含んだ風が路地をすり抜け、商店街の提灯がかすかに揺れる。波瑠香は一人、その細い通りを歩いていた。灯りの下に浮かび上がる影は、彼女の心の揺らぎを映すかのように長く伸びている。
兄の大和は、表向きは誰よりも強く、頑固に町を守ろうとしている。けれど、家に戻って布団に沈むときの彼の背中を、妹として波瑠香は知っていた。
あの人は、本当はまだ傷ついたままなのだ――。
遼と決裂したあの夏の日から、兄の心には一度も癒えぬ棘が刺さり続けている。祭囃子を聞けば、太鼓の音に重ねて遼の姿を思い出す。港に立てば、防波堤で肩を並べた少年時代を思い出す。
忘れたいと願っても、忘れられるはずがない。
兄にとって遼は「裏切った友」であると同時に、いまだ「かけがえのない親友」のままなのだから。
一方で、遼の方もまた同じだと波瑠香は感じていた。
冷たい言葉を口にし、合理の仮面を被ろうとしても、その奥底では後悔と懐かしさが消えていない。彼が時折ふと見せる表情――神社の階段で立ち止まったとき、潮風に目を細めたとき――そこには少年の頃と同じ光が宿っていた。
「友を捨てた」という罪悪感と、「まだ許されたい」という淡い願い。
その二つが遼の中で絶えずせめぎ合っているのを、妹としてではなく、一人の傍観者としても読み取れてしまう。
だからこそ、波瑠香の胸は苦しかった。
二人は互いを憎んでなどいない。ただ、あまりにも深く傷ついてしまったがゆえに、もう一歩が踏み出せないのだ。
大和は「裏切られた痛み」を抱え、遼は「裏切った負い目」に縛られている。
どちらも自分を責め、どちらも相手を責め、そしてどちらもまだ相手を失いたくないと心の奥で叫んでいる。
その矛盾が、二人をここまで遠ざけてしまった。
「……どうして、二人とも素直になれないんだろう」
波瑠香は小さくつぶやいた。
返事はなく、夜の波音だけが遠くから届いた。けれどその音は、不思議と彼女の心を突き動かした。
きっと自分が、この二人の間に架かる橋にならなくてはならない――。
その役目を果たせるのは、幼い日からずっと二人を見てきた自分だけなのだ、と。
彼女の足取りは、防波堤へと向かっていた。
夜空に浮かぶ星々の下で、兄と遼をもう一度、向き合わせるために。
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