第6話 波瑠香の揺れる心

 蝉の鳴き声が、朝から空の隅々まで張り詰めていた。

 ジージーと鳴り響くその声は、まるで町全体を包み込む太鼓のリズムのように絶え間なく続き、耳にこびりつく。白波町の夏は、ただ暑いだけでなく、潮と土と祭りの気配が入り混じる独特の匂いを伴っていた。


 高瀬遼が通う白波高校の校舎は、海岸線から坂を少し上がった丘に建っている。窓から見下ろせば、町の家々の屋根が並び、その向こうに青く広がる海がきらめいている。太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトの道には揺らめく陽炎が立ちのぼっていた。


 午前の授業が終わると同時に、生徒たちは一斉に立ち上がり、窓際へ駆け寄る。海から吹き込む風を少しでも取り込みたいのだ。しかし、その風さえ潮の湿気を含み、生ぬるくて心地よいとは言えなかった。


 教室の片隅で、遼は汗を拭きながら参考書を閉じた。夏休みに入ってからも受験勉強に追われ、机に向かう時間ばかりが増えている。目の奥に残る疲労の影を、誰も気づかぬふりをしていた。

 だが、窓の外に広がる祭りの準備の気配が、否応なく視線を引いた。神社へと続く参道には色とりどりの提灯が吊り下げられ、商店街では浴衣姿の子どもたちが紙袋を抱えて走っている。


 白波町の夏祭りは、この町にとって一年で最も大きな行事だった。港町である白波に暮らす人々にとって、漁の安全と豊漁を祈る祭りであり、同時に町全体が一体となって騒ぎを楽しむ場でもある。大和も幼い頃から太鼓保存会の練習に通い、今では高校生ながら若手の中心となっていた。


 その大和はというと、昼休みが始まると同時に校舎を飛び出していった。祭りの実行委員を兼ねており、放課後には旅館「潮音館」にも顔を出さなければならない。父の体調が優れず、家業を手伝うことも増えていたからだ。

 汗を拭く暇もなく駆けていく背中を、遼は思わず目で追った。


 「……相変わらずだな」


 つぶやいた声は、ざわつく教室にかき消されていった。


 遼にとって、大和の姿は羨望と苛立ちの入り混じった存在だった。町を愛し、人のために尽くし、誰からも頼られる。自分には到底できない生き方だとわかっていながら、その真っ直ぐさが時に眩しすぎた。


 一方で遼自身には、別の未来が見えていた。教師から勧められた模試や大学説明会の案内。東京に出れば、もっと広い世界が待っている。母からは「この町に縛られず、羽ばたきなさい」と言われ続けてきた。

 だが――窓の外に広がる提灯の光景を目にすると、その未来がどこか遠く、実感のないものに思えてしまう。


 放課後になると、町はさらにざわめきを増した。商店街の通りには屋台の骨組みが立ち並び、板前や菓子屋の職人たちが威勢のいい声を張り上げる。焼きとうもろこしの香ばしい匂い、綿あめの甘い匂いが、通りに混じり合って漂ってくる。

 浴衣姿の子どもたちが団扇を振り回し、太鼓の練習場からは「ドン、ドン」という低い音が絶えず響いていた。


 日が暮れるにつれ、町全体が熱気を帯びていく。潮の香りを含んだ風が、提灯の赤い光を揺らす。境内では青年団が太鼓の準備を進め、子どもたちは金魚すくいの桶を覗き込みながら歓声を上げている。

 祭りが始まる前から、すでに町全体が一つにまとまっていた。


 その光景を、遼は教室の窓から最後にもう一度見下ろした。

 「俺も……あの輪の中にいるはずだったんだろうか」

 そう心の奥でつぶやいた声は、自分自身にすら届かなかった。



---



 私は喧騒の中を歩きながら、胸の奥で小さくため息をついた。

 兄・大和は祭りに全力を注ぎ、遼は机に向かっている。幼い頃は三人で一緒に走り回っていたのに、今はそれぞれ違う方向へと進んでいる。

 「変わってしまったのかな……」

 心の奥でつぶやきながらも、兄や遼の姿を誇らしく思う気持ちを拭えなかった。二人はどちらも、真剣に未来と向き合っているのだ。


 蝉の声は、朝から耳の奥に焼きつくようだった。

 白波町の夏は、毎年こうして始まる。潮風に混じる磯の匂いと、太陽に照らされて白く光る瓦屋根。通学路のアスファルトはすでにじりじりと熱を放ち、靴底が吸い付くように感じる。


 私は教室の窓から、その町の景色をぼんやりと眺めていた。

 視線の先に、二人の姿がある。兄の大和と、高瀬遼。


 兄は祭りの準備で町の青年団と一緒に動いている。まだ授業が終わったばかりのはずなのに、肩に汗をにじませ、半分壊れかけた木製の太鼓台を直していた。額に巻いた白い手拭いが、汗でぐっしょり濡れている。

 その姿は、昔から変わらない。何か困った人がいればすぐに駆け寄り、誰より先に手を動かす。大和にとって「町を支える」ことは、息をするのと同じ自然な行為なのだ。


 一方で、遼はといえば。

 放課後の昇降口を抜けて、制服の上に羽織った薄いジャケットを翻しながら歩いていく。手には資料の詰まった鞄。向かう先は駅だ。東京の大学説明会。模試、参考書、願書——そんな言葉を、最近の遼から何度も聞いた。

 彼の背中は、町のざわめきから少しだけ浮いて見える。周囲の時間がゆったりと潮のように流れる中、遼だけが急ぎ足で、次の波を追いかけているように思えた。


 私は、二人の姿を同時に見つめながら、胸の奥がざわつくのを止められなかった。

 兄と遼。

 小さい頃からずっと一緒だった二人。秘密基地を作っては未来を語り合い、夏祭りの太鼓を並んで叩き、海辺で夕焼けを背に笑い合っていた二人。私にとって、その光景は「永遠に変わらないもの」だと信じていた。


 けれど、高校生になった今——違う道が見えてしまう。

 兄は父の体調を気にして、旅館を支えることを第一に考えている。

 遼は「ここで終わりたくない」と言うように、町の外へと視線を向けている。


 どちらが正しいのか。私には分からない。

 兄が必死で太鼓台を担ぐ姿を見ると、「一緒に支えてあげたい」と思う。

 遼が熱心に参考書を開き、夜遅くまで灯りを点けているのを見ると、「夢を叶えてほしい」と心から願う。

 私の心は、二つの方向に同時に引き裂かれる。


 その日の放課後、私は兄を手伝いに神社の境内へ向かった。境内の木陰には、青年団の人たちが集まり、大声で掛け声をかけながら櫓を組み立てていた。兄はその中心にいて、長身を生かして木材を持ち上げ、若者たちに的確に指示を飛ばしていた。

 「お兄ちゃん、重くない? ちょっと休んだら?」

 私が声をかけると、兄はにかっと笑った。

 「平気だ。こういうのは勢いが大事なんだ」

 その笑顔は眩しかった。けれど、私は知っている。兄はいつも無理をする。父の代わりに旅館を背負おうとする責任感が、その肩を重くしていることを。


 ふと視線を横にやると、駅へ続く坂道の向こうに遼の姿が見えた。

 夕焼けを浴びて、細長い影を背後に引きずりながら歩いていく。制服の背中はどこか都会的な雰囲気をまとい、同じ町の高校生とは思えないほど。彼の視線は、もう町の先を見据えている。

 「遼は今日も行くんだね」

 私が小さく呟くと、兄は黙ったまま、組み上げた木材に手をかけ続けた。その横顔は険しく、何かを堪えるように唇が固く結ばれていた。


 その沈黙が、私の胸を締めつける。

 兄も遼も、互いに大切に思っているのに。どちらも間違っていないのに。

 どうして二人の距離は、こんなにも少しずつ開いていくのだろう。


 その夜、私は机にノートを広げながら、どうしても文字が頭に入ってこなかった。窓の外からは太鼓の練習の音が響き、遠くで列車の汽笛が夜を切り裂く。

 「二人とも、同じ夢を見てたはずなのに……」

 心の奥でそう呟いたとき、不意に溢れたを私は止めることができなかった。



---



 夕暮れの光が、町の屋根をオレンジ色に染める。白波町の海沿いの商店街には、祭りの櫓や幟を運ぶ人々のざわめきが混じる。汗と潮の匂いが、町全体を包み込む。


 神社の境内では、兄の大和が木製の太鼓台を支える青年団の間を走り回っていた。手には金槌、肩には板材を担ぎ、声を張り上げる。


 「こっちの柱、少し右にずらして!」

 「大和、重いよ! 無理しないで!」


 声は何度も飛ぶが、兄は一度も止まらない。

 大和にとって、祭りは単なる行事ではない。町を盛り立てる、父の代わりに支える、守るべきもの——そのすべてが、彼の肩に重くのしかかっていた。


 私は木陰からその姿を見つめ、胸が締めつけられた。

 兄はいつも、誰かのために動く。誰かのために頑張る。それは美しいことだと分かっている。だが、同時に、兄は自分の限界を超えてしまう。心の余裕など、もうないのだ。


 「お兄ちゃん、大丈夫かな……」

 小さな声でつぶやく。兄の額に流れる汗、荒い息遣い、時折落ちそうになる木材を咄嗟に支える指先——すべてが焦りを物語っていた。


 父の体調は、去年の夏から少しずつ悪化している。以前は旅館の帳場を手伝いながらも笑顔でいられた父だが、今は顔色もさえない。大和は、父の代わりに旅館を守らねばならないという重圧を、誰にも見せずに抱えていた。


 祭りの太鼓の練習に身を投じながらも、頭の片隅で心配の影が離れない。

 「もし父さんが倒れたら……町はどうなるんだろう」

 足元の木材を叩くたびに、その思いが胸の奥で鈍く響く。


 夕方の光は、兄の影を長く伸ばす。影は地面に絡みつくようで、まるで町全体の重さを背負っているかのようだった。祭りを楽しむ町の人々の笑顔と、自分が抱える焦燥感とのギャップが、大和の心をさらに押し潰す。


 「俺は……俺は何としても町を守らなきゃ……」

 口の端に力を込め、額の汗を手の甲で拭う。だが、その手も震えていた。

 すぐ隣では、青年団の一人が「大和、休めよ」と声をかけるが、兄は首を振った。

 「大丈夫だ。まだやれる」


 その言葉の裏に、焦りと恐怖が隠れていることを、私は知っていた。

 遼のことも頭をよぎる。東京へ向けて進学の準備をしている遼。

 「もう、あの子とは時間を合わせられない……」

 兄は心のどこかで、幼い頃からの親友との距離の広がりを感じていた。だが、それを認めれば、自分の誇りが折れるようで、言葉にできない。


 その焦りは、祭りの準備だけでなく、町全体を見渡す責任感から生まれるものだ。手元の太鼓を調整しながらも、頭の中で計算が止まらない。人手の配置、飾りつけの順序、櫓の強度——全てが頭の中で渦巻き、心を休ませてはくれない。


 私は兄の後ろ姿を見つめ、ふと幼い頃を思い出す。

 秘密基地の岩場で、波風に吹かれながら大和が笑っていた。あの頃の大和は、ただ無邪気で、力強く、未来を恐れていなかった。

 今の大和は、あの少年の影を胸に抱えながら、大人の責任という重荷に押しつぶされそうになっている。


 「お兄ちゃん……無理しないで……」

 心の中で何度もつぶやくが、声には出せない。言えば兄は、「大丈夫だ」と笑うだろう。だが、その笑顔は、私には少し怖く見える。必死さが、すでに限界を超えているように思えたからだ。


 夕暮れの海風が、私の頬をかすめる。潮の匂いが混じる風は、祭りの準備で汗をかいた町の匂いと相まって、夏の重さを運んでくる。

 私は目を細め、兄の影を追う。木材を持ち上げるたびに震える指、肩に食い込む負荷、眉間のしわ。全てが、焦りそのものだった。


 「この町を、守らなきゃ……」

 兄の心の声が、夕陽に溶けて遠くまで届くようだった。

 そしてその声は、まだ幼い頃に誓った「みんなで町を盛り立てる約束」と、今の現実を、無言のまま繋いでいた。



---



 蝉の声が町の空気を震わせる。熱気が立ち込め、海風はわずかに塩の香りを運ぶ。白波町の商店街は、夏祭りの準備で活気に満ち、笑い声や掛け声があちこちから聞こえてくる。


 遼は駅前の小さな喫茶店のテラス席に座り、手元の資料に目を落とす。紙の匂い、コーヒーの苦み、そして遠くから漂う潮風——すべてが幼い頃の町の記憶を呼び起こす。しかし、その胸には期待よりも、焦燥が渦巻いていた。


 「ここでくすぶっているわけにはいかない」

 自分にそう言い聞かせる。東京の大学説明会は、遼にとって未来への扉だった。白波町の小さな町で生きるだけでは、夢を叶える力はつかめない。知識、経験、人脈——すべてが都会にある。


 教師や進学相談員からの言葉も、心の支えだった。

 「遼くん、君なら東京でもやっていける」

 その一言が、希望であり、同時にプレッシャーでもある。町を愛する気持ちはある。だが、自分の人生を広げること、成長することは、それ以上に重要だった。


 ノートに書き込む数字や資料の文字列が、頭の中で勝手に未来の計画に変換される。模試の結果、東京での生活費、奨学金の手続き——現実的な計算は、夢を具体的な形にするための地図のようだった。


 だが、胸の奥には複雑な感情が潜む。

 「大和に理解してもらえるだろうか」

 町に残る大和のことを思い浮かべる。祭りの準備に奔走する彼、父の旅館を支える責任感、町の仲間との絆——すべてが大和の人生であり、遼には分からないもののように見えた。


 昨日も、駅前で偶然会った町の少女と話すとき、心の中に微かな罪悪感が芽生えた。大和の想いを知らぬまま、無邪気に会話していた自分。

 「…違う、俺は奪おうとしてるわけじゃない」

 心の中で繰り返すが、焦りは消えない。大和との距離が、日ごとに広がっていくのを感じるのだ。


 テーブルの向こう側には、波瑠香がそっと座っていた。

 「遼、本当に東京に行きたいんだね」

 優しい声に、遼はふと我に返る。

 「うん……でも、俺、町を嫌ってるわけじゃない。大和や町のことは大切だ。ただ……自分の可能性を広げたいだけなんだ」


 波瑠香は黙って頷く。理解はできる。でも、心のどこかで、兄との距離が広がる痛みも感じているのだろう。遼はその微妙な表情に気づき、少し胸が痛む。


 外の光は夕方に差し掛かり、町全体を黄金色に染める。遠くで太鼓の練習が聞こえる。祭りの音、蝉の声、波のざわめき——すべてが、遼の心の奥に混ざり合う。都会への夢と、町への愛情、友情への罪悪感が複雑に絡み合い、胸を締め付ける。


 「俺は…前に進むしかない」

 ノートを閉じ、立ち上がる。太陽が沈む前に、駅へ向かわなければならない。東京行きの列車が、遼の未来を運ぶのだ。だが、心の片隅には、幼い頃に交わした約束の影が残る。大和と、波瑠香と、あの秘密基地で誓った未来——それは、まだ消えてはいなかった。


 足音が舗道を叩くたび、未来への決意が強くなる。しかし、同時に友情の糸が、そっと切れかかっていることも、遼はまだ知らなかった。



---



 夕方の光が、白波町の路地を柔らかく染める。祭りの準備があちこちで進む中、遼は急ぎ足で町の中心を抜け、神社の階段下で立ち止まった。向こうから大和の声が聞こえる——呼びかける声ではなく、怒りに震える声。


 「遼! お前は本当に、町を見捨てる気なのか!」


 その声に、遼は一瞬立ち止まり、胸の奥が締め付けられる。怒りと悲しみが混ざった声。子どもの頃から何度も交わした友情の証——その絆を、いま、言葉だけで突き崩されるような気がした。


 「違う! そうじゃない! 俺は…俺はただ、未来を掴みたいだけなんだ!」

 遼は声を張り上げた。東京の大学、将来への夢、そして自分の可能性——すべてをかけて挑む決意。それを伝えたかった。だが、大和には届かない。


 大和は顔を真っ赤にして、拳を握り締める。

 「未来だと? 未来ってのは、町を、俺たちを置き去りにしていい理由にはならない!」


 遼は目をそらす。言葉の裏に、幼い頃からの友情の重みがあるのを感じたからだ。しかし、押しつぶされるような気持ちに負けてはいけない。

 「俺だって町やお前のことを大事に思ってる。でも、このままここにいるだけじゃ、俺の未来は潰れる!」


 大和の目には涙が浮かぶ。悔しさ、孤独、そして少しの裏切られた感覚——それが混ざり合って、言葉を鋭くしていた。

 「…なら、俺はどうすればいい! 全部俺が背負えっていうのか!」


 遼は立ち尽くす。大和の言葉の重さを理解しているからこそ、反論するのが怖くなる。だが、胸の奥の熱が冷めることはない。

 「違う、そんなこと言ってない! ただ…ただ、俺も自分の人生を生きたいんだ!」


 波瑠香は少し離れた場所から二人を見守っていた。風が髪を揺らし、夕陽が彼女の影を長く伸ばす。心の中で小さく息をつく——二人は、同じ夢を持っていたはずなのに、なぜこんなにも遠くに行ってしまうのか。


 「二人とも…!」波瑠香は一歩踏み出そうとするが、言葉が出ない。幼い頃からずっと見守ってきた二人が、今、言葉を交わすたびに傷つき合っている——その光景に、胸が痛む。


 神社の石段の上から、夕陽が海に反射して金色に輝く。二人の影が、重なり合い、そしてわずかにずれる。まるで、交わりそうで交わらない線のように。


 遼は深く息をつき、目を閉じた。

 「…ごめん、大和。でも、俺は…」


 「俺も謝る。でも、これ以上は我慢できない!」大和の声は震え、怒りと悲しみが混ざった叫びになる。


 その瞬間、波瑠香の胸の中で、何かが決定的に変わった気がした。幼い頃に交わした誓いも、笑い合った日々も、いま、この口論の前では、遠い思い出に変わる——そう感じたのだ。


 風が二人の間を通り抜け、太鼓の音が遠くから聞こえる。夕焼けは柔らかい色のまま、町全体を包み込む。だが、遼と大和の心の間には、まだ見えない亀裂が広がっていた——小さく、しかし確かに。



---



 商店街の風はまだ熱を帯びていて、蝉の声が容赦なく耳を打つ。浴衣姿の子どもたちや準備に追われる大人たちの姿が、まるで波のように波瑠香の視界に押し寄せる。その中で、兄・大和の背中がひときわ大きく見えた。汗に濡れた額をぬぐい、太鼓の設営に必死に取り組む姿。彼の瞳の奥にある孤独さ、必死さ——波瑠香は胸が締め付けられる思いで見つめていた。


 「お兄ちゃん……」小さな声が自然に漏れる。


 一方で、遼のことも頭から離れない。進学説明会や模試に追われる彼の姿を思い浮かべる。目指す未来のために努力している遼。その真剣さを、波瑠香は理解していた。けれど、同時に心のどこかで不安が募る——二人の間には確かに亀裂が生じ始めている。


 「どうして、あんなに頑張るのに……二人はうまくいかないの?」

 波瑠香は自分の胸の奥で問いかける。幼い頃、三人で秘密基地に集まり、未来の夢を語り合ったあの日々が蘇る。笑い声、太鼓のリズム、潮風に吹かれた防波堤——あの頃の純粋さが、今のこの状況とあまりにも遠く感じられた。


 通りを渡る小学生たちの声が、ほんの一瞬だけ大きく響く。波瑠香は視線を落とし、手をぎゅっと握る。どちらも間違ってはいない——兄の町を守る思いも、遼の未来を追う姿も。それは理解できるのに、どうして二人の心は交わらないのだろう。


 「私……どうしたらいいんだろう」

 波瑠香は自分の胸の内を言葉にできず、ただ立ち尽くす。目の前にいる大和の背中に、幼い頃からの安心と愛情を感じる。しかし、隣にいない遼のことも、彼女の心を離れない。友情が壊れる瞬間を、波瑠香は嫌というほど目撃してきた。


 夕陽が海に溶けるように、オレンジ色の光が町を包み込む。その柔らかさと裏腹に、波瑠香の心の中の揺れは激しく、波のように行き場を失って渦巻く。


 「二人とも……本当に、同じ夢を持っていたのに」

 小さな声が、波の音に混ざって消えていく。波瑠香は思わず目を閉じ、深く息を吸った。兄と遼、どちらの背中にも歩みを止めることのできない強さがあることを知っている。それでも、どうしてこの夏、二人はこんなにも遠くにいるのだろう——。


 鼓動のひとつひとつが、胸の奥で痛いほどに響く。波瑠香は、ただその場に立ち尽くし、夕暮れの光の中で揺れる二人の影を見つめ続けた。

 そして心の奥で、そっと誓う——いつか、この二人の間を取り持つ橋になろう

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