第5話『殴る手の震え』
リングを降りた瞬間、私は崩れ落ちるように膝をついた。
「……うっ、ぐ……っ」
喉の奥からこみ上げてくるものを抑えられず、トイレにもたどり着けないまま、ロッカールームの隅で盛大に嘔吐した。胃の中身はとうに空っぽのはずなのに、体が止まってくれなかった。
この身を削る戦い方が、私の限界を越えていることなんて最初から分かってた。それでも、私はやった。やらなきゃ、意味がなかった。
カレンを叩き伏せたあの瞬間――私は、“誰かのため”ではなく、“誰かを壊すため”に拳を振るっていた。
『それでいい。復讐っていうのはそういうものでしょ?』
背中から、あの声が囁く。夢で私に嘲笑を投げかけた、“もう一人の自分”。
『優しさなんて捨てなよ。怖がってるフリもやめなって。結局、殴ったんでしょ?自分の手で。しかも楽しんでたでしょ?』
「……ちがう……そんなの、ちが……っ」
拳を見つめる。震えていた。悔しさで、怒りで、……怖さで。
「マツリさん!」
声が響いた。見上げると、ミサキが駆け寄ってくるところだった。いつもの優雅なお嬢様口調はそのままに、でも目は真剣だった。
「お身体は……っ、だ、大丈夫ですの!?」
「……放っといて」
「放ってなど、おけますか。わたくしは……わたくしはっ、マツリさんに謝らなければならないのです!」
ミサキはひざまずき、私の肩に手を置いた。
「お兄様への仕打ち……わたくしも参加していました。楽しいとさえ思っていた、最低の人間でしたの。それでもあなたが、あんなにも命を削って、誰にも媚びずに真っ直ぐ戦って……わたくし、やっと気付けたのですわ。自分がどれほど愚かだったか!」
その言葉に、私は思わず顔を背けた。泣きたくなんてなかった。今さら泣いても、何も変わらない。
でも。
「私……本当は……ずっと怖かったの……っ」
喉の奥から、言葉が漏れた。
「殴られるのも、殴るのも、……お兄ちゃんが壊されて、それでも拳を選んだ自分が、何より怖かった」
拳を握る。震えが止まらない。
「私は、ただ……守りたかっただけなのに……気がついたら、誰かを壊すことばかり、考えてた……!」
ミサキが、そっと私の手を握った。あたたかかった。許すつもりなんてない。だけど、この手を握ってくれる誰かがいたことに、少しだけ、心が戻ってきた。
「……マツリさん」
ミサキの背後から、他の女子ボクサーたちも少しずつ近づいてきた。皆、複雑な顔をしている。それでも――確かに彼女たちは、私を恐れるだけではなく、何かを感じはじめていた。
***
「なんかさぁ……あたしら、ちょっと……やばいことしてた、かもね?」
マキは窓際に座って、コーラを飲みながらぽつりとつぶやいた。誰に話すでもない独り言。でも、口に出さないと、向き合えないと思った。
マツリがリングで見せたあの姿。あれは“復讐”なんて簡単な言葉じゃ語れない。あの子は、誰よりも傷ついて、誰よりも強くなってしまった。
「フミヤ……今さらだけどさ」
コーラの缶を置いて、ゆっくりと立ち上がる。
「一回ちゃんと、謝りに行くよ。あたしも」
その頃――ユリカは、別のリングで黙々とシャドーボクシングを続けていた。表情には焦りも動揺もない。ただ静かに、冷たく、何かを見据えていた。
次に戦うべき相手を。
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