第3話「リングに刻む名前」

【マキ視点】


 正直な話、あの子が本当に来るとは思ってなかった。

 あんなに強い目で宣言して去っていったのに、次の日にはひょっこり「やっぱやめます」とか言うんじゃないかって、ちょっとだけ期待してた。いや、心配してたのかも。


 でも——


 「今日から、お願いします」


 朝一番のジムに現れたあの子は、やっぱり来た。マツリちゃん。フミヤの妹。


 ちゃんと運動できる格好で、髪を後ろでまとめて、顔にはうっすらファンデーションが残ってる。多分、鏡の前で気持ちを整えてから来たんだと思う。覚悟決めてる目してた。


 「うん、よく来たねー! あ、でもまだ入門書類も——」


 「もう提出しました。内容は全部読みました。署名も済ませてます」


 冷たい。うん、知ってたけど、冷たい。

 でも、こういう子って一周まわって可愛いんだよね。

 心開いてくれたときのギャップがたまんないっていうかさー。


 でも今日は、その「ギャップ」が見える気配すらなかった。


 ストレッチ指導しても無言。

 縄跳びは教える前に自分で始めるし、しかも速すぎ。

 ミット打ちの基礎もスキップして、いきなりシャドー始める始末。


 「ちょ、マツリちゃん? それはまだ早——」


 「……必要ありません」


 はぁぁぁぁ。


 そうこうしてるうちに、彼女はフラフラになって、顔色がどんどん青くなって——案の定、トイレに駆け込んで盛大に吐いた。


 


 休憩室のソファでうなだれているマツリちゃんに、スポーツドリンクを渡した。

 無言で受け取る手が震えてた。

 さすがに心配になるじゃん。ねぇ。


 「無理しすぎだって〜、ホント……倒れたらどーすんの。フミヤくんが心配するよ?」


 冗談のつもりだったけど、マツリちゃんの目がピクッと動いた。


 「……その名前、軽々しく出さないでください」


 「えっ……」


 「あなたのその口で、兄のことに触れてほしくありません」


 口調は静か。でも明らかに、怒りの色が混じってる。


 「兄があの日、何をされたか……あなたは、笑って見ていた」


 「ちょ、それはさ……! 確かに、悪ノリしすぎたのは認めるけど! でも、あたし——」


 「ユリカを倒したら、次はあなたです。覚悟しておいてください」


 そう言い残して、マツリちゃんは立ち上がり、休憩室を出ていった。


 背中越しでもわかる、張りつめた怒気。

 ああもう、マジで本気なんだ、この子。


 胸の奥に、ちょっとだけ冷たいものが走った。

 ——でもそれと同時に、少しだけ嬉しかった。


 だって、こんな強い感情持ってる子、最近いなかったもんね。


 


【ミサキ視点】


 その日、わたくしはロッカールームで着替えていた時に、マキさんに呼び止められた。


 「ミサキちゃーん。マツリちゃんの初スパー、お願いできる?」


 心臓が一瞬、凍りついた。


 でも、笑顔で頷いてしまった。

 だって、「無理です」と言えば、それは“恐れている”と認めることになる気がして。


 


 リングに立つと、マツリさんはすでに構えていた。

 腹筋が少しだけ割れてきてる。まだ未熟だけど、絞るべきところは確実に削ってきてる。


 あの細い腕に、どこまでの力があるのか。

 でも、それよりも恐ろしいのは——彼女の目だった。


 「始める前に、一つ言っておきます」


 マツリさんが、観客の女子ボクサーたちに向けて声を上げた。

 今日は見学者が多い。フミヤさんの件を知っている面々もいる。


 「私の“仇”は、ユリカさんだけじゃありません」


 その言葉に、数人がざわめいた。


 「……兄を罰ゲームで嘲笑した、全員です。動画は何度も見ました。顔も、声も、全部覚えています」


 わたくしの心臓が、ドクン、と強く鳴った。


 覚えている——それは、わたくしのことも含まれている。


 


 ゴングが鳴った。


 最初の一歩を踏み出せなかったのは、わたくしだった。

 マツリさんは、一切の迷いなく距離を詰めてきた。


 そして——


 「っ……くぅッ!」


 胃の下に、硬い衝撃が走った。

 瞬間、膝が抜けた。空気が吸えない。視界がにじむ。


 次の瞬間、二発目。

 わたくしは、キャンバスに膝をついていた。


 「……まだ“罰ゲーム”の代償には足りませんけど」


 マツリさんはそう呟いて、わたくしに背を向けた。


 足取りは、軽い。でもその背中には——言葉にならない重みがあった。


 


 涙が、ポタリと落ちた。


 何の涙か、自分でもわからなかった。

 でもたぶん、あのとき笑っていた自分が、心の中で崩れた音だったと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る