復讐妹のボディブロー
青島シラヌイ
プロローグ「ボディの夢と拳の現実」
僕は、ボクシングに憧れていた。
ただの少年の夢だった。テレビの画面越しに見た、鍛え抜かれた男たちがリングで繰り広げる闘争。足音、汗、皮膚がぶつかる音。なかでも、ボディブローに魅せられた。息を詰まらせ、崩れ落ちる巨体。打たれた瞬間、相手の顔に浮かぶ表情。痛みでも苦しみでもなく、敗北の自覚——。あれが、僕にとっての“勝利”だった。
でも、そんな夢は小学生のうちに死んだ。
運動神経は鈍く、肺活量も体力も他の男より劣っていた。体は細く、太らないくせに筋肉もつかない。ボクシングの「ボ」の字にすら届かない身体。それでも未練がましく、理屈の世界に逃げ込んで大学に進んだ。研究者になれば、他人より賢く見えるし、自分を誤魔化せると……思っていた。
でも、今日。
その幻想は、リングの上で終わった。
「ふんばって、フミヤ~! 今のうちにパンチくらい出さないとヤバいよ~!」
マキが笑っていた。赤いメガネを指で押さえながら、観客席の一角で足をバタつかせていた。
僕をリングに引きずり上げた張本人だ。最近偶然再会して、僕が昔ボクシングに憧れていたことを——よりにもよって軽いノリで——喋ってしまったのがすべての始まりだった。
「ユリカはね~、今日ちょっとだけ気が立ってるから、ちゃんとガードしないと危ないかもよ? あっ、もう無理かもね~!」
観客席から笑いが起きる。全員、女子ボクサーだ。驚くほど腹筋が割れている。
まるで美術解剖図から抜け出したような造形。遠くからでもわかる、堅く整った腹直筋。
一方で僕の腹は、細いだけだった。脂肪は少ないけれど、筋肉の“輪郭”なんて一切ない。
それが彼女たちにとって、どれほど“滑稽”なのか……今は痛いほどわかる。
「いくぞ」
目の前に立つのが、ユリカ。
長身で、銀色の短髪。黒曜石のような肌に、微塵も感情を浮かべない女帝の面構え。
構えたまま動かない。威圧するでもなく、見下すでもなく、ただ“仕事”として僕を壊すつもりなのだとわかる。
その恐ろしさに、脚が震える。
「……っ」
それでも、僕は拳を振るった。
子どもの頃、頭の中で何度も繰り返した夢。
細い腰を捻って、右の拳を——
——めり、と音がした。
……拳が、当たったのだ。
彼女の腹に。ユリカの、美しく割れた腹筋に。
打ち込んだ瞬間、拳に跳ね返る感触。
硬い。あまりにも、硬い。だが僕の拳は確かに入った。
わずかにユリカの眉が動いたように見えた。
「……よし」
希望だった。
僕にも打てるんだ。夢を、ほんの少しだけでも、届かせられるんだ。
その瞬間、ユリカの拳が僕の腹に突き刺さった。
ドシュッ。
肺が裏返ったみたいだった。
呼吸が止まり、胃が、食道が、喉が逆流する。
口から、音が漏れた。吐き出したかった。でも吐けない。
気がついたとき、僕はロープにもたれていた。
「まだやれるよね~フミヤくん! ユリカ、もうちょっとだけ~!」
マキの声が遠くなる。
次の瞬間には、リングに這いつくばっていた。
吐いた。
胃液と、今日の朝食の断片と、何より誇りを、すべて吐き出していた。
女子たちは爆笑した。
「なにこれ、ウソでしょ」
「吐いたよ?マジで吐いた!」
「ちょっと……男子ってこんな弱いの?」
罵声が、笑い声が、飛び交う。
でも地獄は、まだ終わっていなかった。
“罰ゲーム”。
ロープで体を縛られた僕は、椅子に座らされ、口にはマウスピースの代わりに何か甘ったるいガムを押し込まれた。
腕は頭の後ろで組まされている。逃げられない。
観客席の女子ボクサーたちが、代わる代わる腹を触ったり、拳で突いたりしてくる。
「わぁ、これが“割れてない”腹かぁ……すごい、無防備~♪」
「ガードも何もないじゃん。これ、打ってもいいの?」
「軽くでしょ?軽く♪」
軽く、なんて嘘だった。
ミサキという女は、妙に丁寧な口調で僕の耳元に囁いた。
「わたくし、男性の痛がる顔って……大好きですの」
拳が沈むたびに、内臓が震える。
カレンという長身の美女は、笑いながら僕の膝の上に座った。
「うふふ、これ、拷問みたいじゃない? 最高だわ」
ユリカはその様子を黙って見ていたが、ある瞬間だけ、静かに前に出てきた。
僕の正面に立ち、再び、あの腹筋で僕を見下ろした。
そして、ノーガードの僕の腹に、黙って拳を沈めた。
声が出なかった。
嗚咽だけが、唇から零れた。
彼女たちは、笑いながら帰っていった。
僕の中で何かが、二度と戻らない音を立てて壊れていた。
憧れは、もう幻想じゃない。
これは現実だった。
ボディブローは、夢じゃない。
——悪夢だ。
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