キミの痛みは僕のもの。

槙二

第1話

人類がSNSに依存し始めて数十年。SNSでの幸福競争が社会を疲弊させた結果、政府は“感情の再配分”に踏み切った。


 それからすぐ、テキストや画像の発信はすっかり息を潜め、今では感情そのものを共有できるようになった。幸せのシェアはもはや存在せず、代わりに痛みや悩みを他人に肩代わりしてもらうことが、格差を埋める手段として一般化した。


 自分の感情を誰かにダウンロードしてもらえば、苦しみはその相手へと完全に移行される。


 例えば、いじめっ子は被害者の痛みを受け取ることで、贖罪しょくざいを果たすとされる。

 富裕層は贅沢税として、貧困層の苦しみを分担する義務を負う。


 一定の基準以上の幸せを得ている者は、相応の苦しみも受け入れなければならない。

 それにより、全人類は一定水準の感情のバランスを“保証”されるようになった。


 僕の弟もこの制度に救われたひとりだ。

 学校でのいじめの痛みを、加害者に肩代わりさせることで、ようやく笑えるようになった。


 この制度の導入後、経済成長は鈍化した。しかし、真の平等という観点では“成功”と評価する専門家も数多くいる。


 精神疾患を抱える患者数は大幅に減り、いわゆる引きこもりやニートの数も減った。富を一人で独占しようとする者すら数を減らした。


 耐えられない苦しみを分散して共有することは、人類にとって必然の進化だった。


 ……ただ、一つだけ想定外の問題があった。感情の枯渇、である。


 感情の共有が可能となってからというもの、人類全体は痛みに対する拒絶が強くなった。


 その結果、少しの痛みや苦しみですら耐えられない人間の増加に繋がり、負の感情を誰かに吐き出さずにはいられなくなる”感情デトックス依存症”の流行に繋がった。


 この症状が現れた人間は、全ての苦しみや痛みを肩代わりしてもらった後も、自らの感情を吐き出そうとする。次第に幸福と苦しみの違いすら分からなくなり、自らの精神を空っぽへと追いやってしまう。


 最悪の場合”感じる”という行為自体が不可能となり、最終的には、何も感じない植物状態と化す。


 ただ、対処法がないわけではない。


 他人の負の感情を注ぎ、空になった心を満たし、感情のバランスを取る。そうすることで、ほとんどの患者は目を覚ますことが可能だ。しかし、リスクが全くないわけではない。


 全く関係のない赤の他人の感情を注いでしまうと、目覚めた時に記憶喪失になってしまう。これは空っぽになった脳が、赤の他人の感情こそが本来の記憶だと誤認してしまうためだ。


 これを防止するために、患者に注ぐ感情は、あくまでその患者に関わりのある感情である必要がある。家族や恋人、親友のような人物のように、患者の記憶が混ざっている感情を共有することで、患者は自分が自分であった記憶を思い出すことが可能になる。


 もちろん、100%とは言えないが。

 確率としては、目覚めるだけでも五分五分。

 目覚めたとしても人形のようにうつろな状態のままの可能性もあるし、完全に復活したとしても、感情デトックス症候群が完治する保証はない。


 それでも人には、どうしても目覚めて欲しい人がいる。


 僕にとっての彼女がまさにそれ。


 彼女は典型的な感情デトックス依存症の末期患者である。

 家庭環境で悩まされていた彼女は、負の感情を吐き出すことに躍起になってしまった。


 若い女性の負の感情という物は、一定数の歪んだ男性から好まれる。彼らは女性にお金を払い、悩みや苦しみを共有してもらうことで、快感を得る狂った存在だ。しかし吐き出す側にとっても悪い話ではなく、一度ハマってしまうと中々抜け出せない。


 彼女は今、病院のベッドで横たわっている。それももう十年は経つ。

 僕が彼女を待ち続けているのも、同じだけの時間だ。


 大学生の時に家を出た彼女には、連絡の取れる家族はおらず、親友もいない。

 唯一僕だけが、彼女を救うことの出来る存在というわけだ。


 すぐにでも僕の感情を彼女に分け与えれば良かったのだが、僕達が知り合ってから、彼女が今の状態になるまでにはあまりにも期間が短すぎた。


 毎日彼女を見つめ、彼女が目覚めないことで感じるこの痛み。

 眠る彼女に話しかけ、返事のない苦しみ。


 僕の中の全ての負の感情が、彼女による物だと間違いなく言い切るために、これだけの時間がかかってしまった。


 そして今から僕は、彼女に僕の想いを注入する。どんな結果になろうと後悔はしない。例え自分の精神が空っぽになってしまったとしても。


 もしも愛が辞書の通りの意味なのだとしたら、僕のこの感情は愛ではないのかもしれない。なぜなら、これは僕のわがままだから。感情を吐き出すことを望んだ彼女とは真逆の行動を取るのだから。


 それでも僕は、彼女を愛していると胸を張って言える。


 僕と彼女を一本の線が繋いだ。一つのボタンを押すだけで、僕の感情は彼女へ流れ出す。点滴のようなものだ。


 改めて考えると、簡単で便利で、恐ろしい世の中になってしまったものだ。

 まあ今はそんなことはどうでもいい。


 僕は彼女への願いを込め、静かにボタンを押した。


 彼女の中へと流れていく僕の負の感情。

 心の全てが波にさらわれていくような感覚。自分の汚い部分が全て洗い流されていく。下手な薬物なんかよりもよっぽど気持ちがいい。

 感情デトックス症候群になる人の気持ちが分かる。


 僕は出来る限り正気を保ちながら、彼女の目覚めを祈った。

 次第に僕の意識も薄くなっていき、数分後には完全に気を失っていた。

 だが僕は最後に見た。彼女の頬を涙が伝うのを。それは僕の涙か、彼女の涙かは分からなかったが。


 しばらくして、僕は目が覚めた。どれだけの時間眠っていたのかは分からないが、日が暮れていることだけは確かだった。


 ベッドにもたれかかるように眠っていた僕に、一つの視線が送られていた。

 彼女だった。

 まだ上手く動かせない体を壁に預けながら、ベッドに座り込んでいる。

 

 おぼつかない目が、辺りを注意深く見渡している。

 僕と目が合うと、驚きからなのか、キョトンとした瞳になった。


 そしてそこから、一粒の涙をこぼした。


 そんな彼女を見て、僕はにっこりと笑い、こう言った。


 「初めまして」

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キミの痛みは僕のもの。 槙二 @Fujimakitokage

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