死神リリィは明日死ぬ。
槙二
一話
それでも、彼女は美しかった。
跳ねる水しぶきはまるで、彼女を人魚のように泳がせる。
空から刺す一筋はまるで、彼女を天使のように輝かせる。
月並みな言葉、それも少ししか思いつかない自分が恨めしい。
それほどまでに僕は、彼女が好きだったのかもしれない。嘘偽りない気持ちで。
彼女と出会ったのは、ある夜のこと。深夜、旧校舎の屋上。
ここにはよく来ていた。いつも、なんでもないけど何もかもが嫌になった時。
ただちょっと悪いことがしたくて。
こんな事、先生にバレたってそんなに怒られはしないし、誰かに特別迷惑をかけるわけでもない。
いつかはバレるだろうけれど、それはきっと今日じゃない。
少し肌寒い風に当たって、人生を憂いて、物思いに耽って、日が昇る前に家に帰る。いつもはそれだけ。
学校で先生たちがよく言う言葉がある。
「卒業した後のことを考えろ。」
「進路を考えろ。」
「十年後、二十年後のことを考えて生きろ。」って。
でも、そんなのちゃんちゃらおかしいって思うんだ。
散々未来の話をするくせに、明日僕が生きていることなんて誰も保証してくれない。
僕は今を生きているっていうのに、今のために生きることを許してくれないんだ。
僕が僕であることを証明出来るのは、今の僕だけなのに。
でも、そう言うと決まってみんなこう言うんだ。
逃げてるだけだって。
そりゃ逃げ出したくもなるよ。こんな世界から。
赤く光る月。僕はただ寝そべって、見上げていた。
そういえば、今日の月は赤いってニュースで言ってたっけ。
そんなことをぼんやりと考えていた。
突然、ギリ、ギリと木々の擦れる鈍い音が響いた。
同時に、屋上の扉が開いていく。
終わった。
僕はこの特等席を奪われるんだ。
そう覚悟した時、ひょっこりと姿を表したのは、一人の女の子だった。
金髪のボブ。長いまつ毛が揃った目。一本線の入った鼻筋。シンプルなワンピースを着て、年齢は多分同じくらい。学校では見かけたことのないタイプの人間だ。
まるで白黒映画の世界から現実に出てきたような彼女は、僕に向かってにっこりと、自然に微笑んだ。
「ヤッホー」
「ヤ…….ヤッホー」
完全に面を食らった僕は、我ながら情けない返事をした。
彼女は物おじせずに許可もなく僕の隣に座り込んだ。
「ここ、よく来るの?」
「たまに、かな」
「ふーん。そっかー」
そういうと彼女は仰向けに倒れると、空を見上げた。
まるで僕のことは興味がないとばかりに。こっちは絶賛人見知り中だっていうのに。
学校帰りに妹が僕の部屋で勝手にゲームをしてた時よりも、ちょっと居心地が悪い。
「あの……どちら様ですか?名前は?」
「あーそういうの気にするタイプなんだ」
「いや、だって会うの初めてだし」
「いいじゃん別に。明日も会うわけじゃないんだからさ」
彼女はこちらを見向きもせず、あっさりと答える。
なんだかムッとしたけど、彼女が言うことにも一理はある。
何より、僕と少し考えは似ていた。
電車でたまたま隣になった、ぐらいに考えれば、彼女のことなんてどうだっていい。
「まあ、そうだね」
聞こえてくるのは自然の音と、遠くから聞こえる人工的な音だけになった。
隣にいる少しの違和感を気にしなければ、とても落ち着く空間だ。
時間が少し流れた。
やっぱり落ち着かない。
これはもしかしたら僕の恋愛経験の無さから来るものかも知れないし、一人が好きだという信念めいたものから来るのかも知れない。もちろん、後者であることを願うけれど。
僕はそっと、彼女に気づかれないように、顔をコンクリート側に向けた。すると
「やっと見た」
目があった瞬間、僕が今まで見てきたであろう全ての記憶が、一つ後ろになった。
「な……なんだよ」
「べつに?いつこっち向くかなって待ってただけ」
「そう……っすか」
「キミ、名前は?」
「そういうの、気にしないタイプなんじゃないの?」
「ん?気になっちゃったら気になっちゃうタイプだよ。私は」
「なんだよそれ」
「でっ?名前は?」
「……優斗(ゆうと)だけど」
「そっ!いい名前じゃない。私はリリィ。覚えておいてね」
覚えておいてね。
また次があるようなセリフに、僕は恥ずかしながら高揚感を感じた。
瞬間、目を疑う光景が飛び込んできた。
リリィはフェンスの上によじ登ると、こちらを向き、両手を広げた。
錆びたフェンスは、風に吹かれながら大きく揺れている。
一瞬出遅れた僕は、咄嗟に手を伸ばした。
「何やってんだよ!危ないって!」
「大丈夫。慣れてるから」
「はあ?何言って……」
「私、人間じゃないから」
そう言うとリリィは、理解の追いついていない僕を置いてけぼりに、飛び降りた。
なんの恐れもなく、柔らかなベッドに身を預けるように、彼女は落ちていった。
僕はフェンス際まで駆け寄ると、リリィを目で追った。
だが、リリィの姿は闇に紛れ、どこにも見当たらない。
あまりの出来事に、僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
気がつけば、日は昇っていた。
改めて下を覗いてみても、リリィがいた痕跡すらない。
この状況、僕はどうするべきか。
警察に?こんな話、信じてもらえないだろう。仮に信じてもらえたとして、証明出来ることなんてない。
先生に?そもそもあんな時間に旧校舎にいることを怒られて終わるのが積の山だろう。
親に?もう何年もまともに話してないのに、今更?
妹に?何も解決しないだろう。
じゃあ友達は?そんなのがいたら、一人でこんなところにいないだろう。たぶん。
誰かに頼る選択肢はない。
一応、何もしないという手もある。
でも、目の前で人が飛び降りていなくなるなんて、気にならないはずもなかった。
他にも気になることはいくつかある。
僕は次の日も、同じ時間にまた旧校舎へと向かった。
時間が経つにつれて、不思議ともう一度リリィに会えるような気がしていた。
これはただの直感で、なぜかと言われると答えられない程度のもの。
でも彼女は飛び降りる前、僕に名前を教えたんだ。
最初「明日も会うわけじゃないんだから」って断ったくせに。
だからこそ、確かめたかったんだ。
僕は屋上の扉を開いた。
リリィはそこにいた。
昨日のように平然と寝そべって、空を見上げていた。
僕に気づくと、うっすらと笑顔を浮かべた。
「ヤッホー」
「……何がヤッホーだよ」
「来ると思ってた」
「嘘つけ」
悪態をつきながらも、僕は吸い込まれるように、リリィの隣に座った。
どう考えてもおかしな状況なのに、僕は冷静だった。
「なんで生きてるんだよ」
「言ったじゃん。人間じゃないって」
「じゃあ一体なんなんだよ」
「私、死神だから」
「しに……がみ……?」
まさか、いや、少しは想像していた。
死神は人が死ぬ直前に姿を現す、なんてことを聞いたことがある。もちろん、そんなのは今の今まで僕も信じていなかったけど。
昨日飛び降りたはずのリリィがここに平然といるのならば、そんな突拍子もない存在だって充分あり得る。
そしてそんな存在が僕の前に現れたのだって、理由は分からなくもない。なぜなら昨日、ここで飛び降りようとしていたのは……
僕だったから。
でも目の前でリリィが飛び降りて、死を実感して、怖くなってやめたんだ。
「死神だとしたら、どうしてキミは飛び降りたの?」
「どうして飛び降りちゃいけないの?」
「だっておかしいじゃん。死神って……人を……殺すんだろ?それなのに、昨日のあれはまるで……」
「キミの代わりに落ちたみたいじゃんって?」
「……まあそうだけど」
いざそう言われると、僕には返す言葉もなかった。
リリィは、僕を見透かすように見つめていた。
「死神っていうのは、人の寿命を吸って生きてるんだ。例えば、あと一年で死ぬ人間を殺しちゃえば、その一年分が寿命として貰える。私たちは人の寿命が見えるからね。いっぱい生きたいなら、長く生きる人を殺しちゃえばいい。それに、誰を殺したっていい。生まれたばかりの赤ちゃんを殺すのが趣味な奴もいるし、世直しだーって言って悪い人間を殺すのがメインのやつもいる。まあ私はそんなの興味ないから、死にたいって願ってる人だけを殺してあげてた」
「じゃあなんで、僕は殺してくれなかったんだよ?」
「私、飽きちゃったんだよね。殺すの」
リリィは淡々と続ける。
「このリリィっていうのはさ、私が最後に殺した女の子なんだ。死神っていうのは、最後に殺した人の姿を借りて生きていくの。リリィは小さい頃から病気で、ほとんど寝たきりの人生を過ごしてた。ずっと窓の外の鳥の数を数えて過ごすだけ。十六歳になった時に病気がさらに悪化して、そんな時もリリィはずっと一人ぼっちだった。だからリリィは願ったの。『早く死にたい』って。そして私がリリィの願いを叶えてあげた。まあそもそも、リリィの寿命なんて後一週間もなかったし、私が殺しても殺さなくても、どうでもよかったんだけどね。でも、いざ死ぬ瞬間、リリィはなんて言ったと思う?」
「なんて?」
「『生きたい』だってさ。おかしいよね。さっきまで死にたがってたくせに、最後にはやっぱり生きたいだなんて。でもさ、私思ったの。今まで私が殺してあげてた人たちも、みんな本当は最後は生きたいって思ってたのかなって。そう思ったら急に、殺すの飽きちゃった」
「優しいんだね」
「そう?ただ自分勝手なだけだよ。でっ?キミは今どう思ってるの?」
言われて僕は、うまく答えることは出来なかった。ただ黙って、首を軽く捻った。
リリィは「そっか。」と呟く。
「……でも死神なのに、人を助けてもいいの?」
「おっ!いい質問だね!答えはねー「助けちゃダメ」なんてルールは無い、だね」
「なんか回りくどいな」
「ふふふ。まあね。死神っていうのは自由な社風の職場だから」
「どうやって就活したんだよ」
「でも、デメリットもある」
「デメリット?」
「人を殺してその残りの寿命をもらう、の反対だね。人を生かせば……人を定められた死の運命から逃せば、その伸びた寿命の分だけ、死神の寿命は減る」
「えっ?」
月を雲が隠し、辺りから完全に光が消えた。だが、リリィの瞳の色だけは、はっきりと分かるほどに赤く輝いていた。
「私は、明日死ぬの」
「そ……そんな……」
「気にしなくていいよ。これは私のただの好奇心だから。明日死ぬって、どんな気持ちになるのかなって。だからキミを選んだの。私の命が丁度明日、終わるように」
リリィの体が、一瞬薄くなったように感じた。それは、テレビの映像が乱れるような刹那的なものだったけど、リリィの言っていることが本当だということは理解出来た。
「勝手すぎるだろ。僕は昨日死のうと思ってたのに。その僕を生かして、自分は明日死ぬだなんて……。あんなの見せられたせいで、僕は死ぬのが怖くなったっていうのに……」
「ふふふ。ごめんね。死神に目をつけられた人は、不幸になるってのが相場だからね」
「確かに不幸だよ。僕の命を勝手に救った相手が、僕のせいで明日死ぬんだもん。そんなの不公平だ」
「だったら、どうする?」
どうするって言われても。
正直ほとんど脊髄反射で答えていた分、僕にこれというアイデアなんてものは浮かんでこなかった。
僕は人生で一番と言っていいほどに脳みそをフル回転させた。
僕は確かに昨日死にたかった。でも別にそれを止めたリリィを恨んでいるわけではない。もちろん、感謝もしていないが。
だから別に仕返しだなんだなんてものをする気はない。でも、リリィがもしも死神らしく、悟ったように死んでいくとしたら、なんだかそれは……悔しい。
だったら、やることは一つしかない。
「決めた!リリィには明日、人間らしく死んでもらう!」
「人間……らしく……?」
リリィは初めて、呆気に取られた顔をした。
だんだんとその表情は笑顔へと変わっていく。
一つ大きく笑い声を上げると、こう言った。
「キミ、面白いこと言うね。……でも、そうだね。私、知ってみたいな。人間らしさって言うものを。そうすれば、この子の気持ちも、ちょっとは理解出来ると思うから。でも、どうやって?」
どうやってって言われても。
また同じ展開だ。我ながら、でまかせばっかり言ってるなとつくづく思う。
僕は普段こんな性格ではなかったはずなのに。寿命が伸びたせいで、僕の中の何かが変わったのかもしれない。
僕は、救われてしまったから。
僕は立ち上がり、リリィに手を伸ばした。
「行こう!」
「どこに?」
「分かんない!」
「そういうの、いいね」
リリィは僕の手を取った。
体温がないかのように無機質なその手は、ありのままに僕を受け入れている。
僕たちは走り出した。
螺旋階段を駆け抜け、旧校舎を出た。
校門横に置いてある錆びたママチャリにまたがり、荷台についた汚れをパッパとはらうと、リリィに後ろに乗るように合図した。
「私、自転車って初めて乗る」
「何年生きてんだよ」
「死神って、飛べるから」
「そりゃ乗る必要ねえわ」
「でも、面白そうだから乗る」
リリィが乗ったことを確認すると、僕は自転車を漕ぎ出した。ペダルは一人乗りのように軽く、驚くほどスムーズに、向かい風を受け始めた。
不安定な車輪は、小さな石ころですら簡単にぐらつく。リリィは僕の服の端を掴むと、バランスを取った。
「そういえばキミ、怖くないの?私、一応死神なんだよ」
背中から伝わってくるリリィの声。僕は振り向かずに淡々と答えた。
「リリィなんかより、クラスメイトたちの方がよっぽど怖いよ」
「キミ、変わってるね」
「リリィよりはましでしょ」
「それもそうだね」
街はまだ静か。まるで僕たち二人だけがこの世界にいるかのようで、妙に居心地が良かった。
上り坂に差し掛かった。住宅街に沿ったこの坂道は、街で一番の難所の一つである。
僕に取っては当然、地獄のような坂道だ。
フラフラと横にハンドルを取られながらも、必死に漕ぎ続ける。
後部座席からは「ほらほらあともうちょっとだよ。頑張ってー」と重さのない声が聞こえてくる。
振り返って文句の一つでも言いたいが、そんな暇も余裕もない。
息を切らし、パンパンになった太ももを動かし続け、ようやくそこに辿り着いた。
「はぁ……はぁ……間に合った……」
「ん?何が?」
僕の横からリリィがひょっこりと顔を出した。
「これ、見せたかったんだ」
僕たちを迎えたのは、夜の青と太陽の赤が混ざり合ったような、朝焼けだった。
リリィは何も言わなかった。
しばらく経って、どうしても彼女の表情が気になって、そっと後ろを振り返ってみた。
リリィの目は、潤んでいるように見えた。自転車から降りると、僕の隣に並んだ。
日差しに照らされ始めた横顔は、僕の目には到底死神とは真逆の存在に映った。
「とても綺麗だね」
リリィはそう呟いた。
僕は静かに頷く。
次の言葉が思いつかない。
ただなんとなく、目に映ったコンビニを見て、リリィに尋ねた。
「お腹すいた?」
「死神はお腹は空かないかな」
「食べたりは?」
「一応出来るよ。意味はないけどね」
「充分充分」
僕はリリィを連れ、コンビニへと向かった。
買えるだけのお菓子、飲み物も二人分。レジ前で肉まんを二つ追加して、僕たちは店を出た。
途中、奇異な目を向けてくる店員と目を合わさないようにしながら。
「先に言っとくけど、私、他の人には見えないからね」
「いや、本当に先に言えよ。『何食べたい?』とか普通に言っちゃっただろ」
「あの人の顔、面白くってさ」
「勘弁してよ……もうあのコンビニ行けないじゃん」
近くの公園に入り、ベンチに腰を下ろすと、僕たちは買ったばかりの肉まんを分けあった。
白い湯気が、リリィの頬を包み込む。
死神のくせに、彼女の顔は少しだけ赤くなっていた。
「……あったかいね」
「へー熱さはちゃんと感じるんだ」
「私のこと、なんだと思ってるの」
「いや、分かんないでしょ」
リリィは、頬を膨らましながら、見た目に似つかわしくないほどに大きく口を開け、肉まんをわずか三口で食べ終えた。
その様子に唖然としつつも、僕も急いで肉まんを食べ終えた。
「ほら、まだまだいっぱいあるからさ。食べなよ」
「いいね」
続いて僕たちは、お菓子の袋をどんどん開けて、小さなお菓子パーティを開いた。
「味はどう?」
「んー分かんない……でも……」
「でも?」
「こういうのって、なんかいいね。リリィもこういうことがしたかったのかな」
「かもね。僕も誰かとご飯なんて久しぶりだよ」
「なんで?お母さんとかはいないの?」
「僕は前の父さんとの子供だから。妹だけ連れて行かれちゃって、それ以来ずっと一人暮らしなんだ」
「ふーん。複雑ってやつだね」
「まあそんな感じ」
リリィは相変わらずとてつもないスピードでお菓子を口の中へと放り込んでいく。お腹は空かないっていう話だったし、胃袋なんてものもないのかもしれない。
待て。なら、食べたお菓子はどこに行ってるんだ?
そんな疑問を抱きつつ、僕はリリィを見つめていた。
「早く食べないと、無くなっちゃうよ?」
お菓子の袋にはもう、ほとんど残りカス程度しかなかった。
「いや、もうないじゃん」
「いや、まだあるじゃん。ほら、この辺とか」
「そんなの残ってるって言わないって」
「もったいないなー」
丁度その頃、街は少しずつ活気づき始めていた。
出社し始めるサラリーマンたち。
ジャージを着て、朝練に向かう学生。
動き始めた電車の警笛。
犬の吠える声。
たくさんの人、動物ですら朝を迎え入れ、それぞれの活動を始めていた。
僕にとって凄く羨ましいことで、同時に一番否定したいことでもある。
「このままでいいのかな」
呟いて、僕は慌てて口をつぐんだ。
僕自身にとっても、思わぬ一言だったから。
いやーな気配を感じる。これは間違いなく、リリィからのものだ。
リリィは、悪戯を思いついた子供のような笑顔を浮かべていた。
「可愛いとこあるじゃん」
「うるさいなー」
「照れなくていいって」
「照れてないって」
リリィは「ほれほれー」と言いながら、僕の頬を人差し指でぐりぐり押した。
変な表現になるけど、嫌だけど嫌じゃなかった。
「ねえ、家連れってよ」
「やだよ」
「ほら、早くして」
「だからやだって」
「キミの家なんて、簡単に見つけれるんだからね。今すぐ行ってメチャクチャになってても知らないよ?」
「勘弁して」
僕たちは、自宅へと向かった。
公園を出て、坂道を下って、旧校舎を無視して十分ほどの場所にある小さなアパートの二階。その端っこにあるのが僕の部屋だ。
僕がドアを開けると、リリィは靴も脱がずに部屋へと上がった。
「靴は脱いでよ」
「あーそうだそうだ。そういうのあるんだった。忘れてた」
リリィは玄関へ引き返し、靴を脱ぐと、再び戻った。
「ふーん。結構綺麗にしてんじゃん」
「何もないだけだよ」
ベッドと古いノートパソコンが置いてあるだけの小さな部屋だ。
僕にとっては特に何もないいつもの光景だけど、リリィは楽しそうにベッドへと飛び込んだ。
「これ、やってみたかったんだよねー。ほら、リリィもずっとベッドで寝てたから、どんな気持ちなんだろうって」
「ふーん。っで?感想は?」
「思ってたよりちょっと固い」
「まあ病院のベッドと比べたらね」
僕はリリィの前の床に座った。夜中から起きてたこともあって、少し眠たい。僕は油断して、小さくあくびをした。
それに気付いたリリィは、悪い顔でこちらを見つめている。
「一緒に寝る?」
「やだ」
「ふーんじゃあ一人で寝よっと」
リリィは不貞腐れたように布団の中へと潜り込んでいった。
僕はなんとなくパソコンを開いて、起動した。
「家族 復縁 出来ない」
「妹 別の親」
「学校 辞める」
「飛び降り 怖い」
改めて見ると、ひどい検索履歴が並んでいる。一つ一つ消していった。こんなことで問題が解決するわけじゃないけど、今だけは深く考えたくもなかった。
「なーにやってんの?」
「ん?って……うわぁあああ……」
夢中になっていたせいで、リリィの接近に気づかなかった。画面は多分、見られてはいない。
リリィは適当にキーボードを叩き始めると「これ、パソコンってやつでしょ?何が出来るの?」と言った。
僕は必死にリリィからパソコンを遠ざけた。
「やめろって!壊れちゃうだろ!」
「こんなんで壊れちゃうなんて、パソコンって繊細なんだね」
「古いやつだからすぐフリーズするんだよ」
「じゃあ新しいのにすれば?」
「前の父さんからもらったんだよ」
「あーまた複雑ってやつだ」
「これは割と単純だろ」
僕は急いで画面をショート動画サイトに切り替えた。
適当にスクロールしていくと、リリィは興味深そうに覗き込んだ。
「ほら、今はこういうのを見たりするんだよ」
「へー人はこうやって他人の生活を監視してるんだね」
「監視じゃないよ。自分から発信してるんだよ」
「え?なんで?」
「みんな、自分を知ってもらって、誰かと繋がりたいんだよ」
「なるほどね。死神とは違うね」
「死神はどうなの?」
「私たちはほとんど別の死神に干渉しない。みんな考え方も違うし、会ったりなんかしちゃったら殺し合いだらけになっちゃうよ」
「恐すぎでしょ」
「そう?人だってすぐ揉めるでしょ?一緒だよ」
「んー……あんまり否定は出来ないな」
「でしょ?だからこうやって繋がろうとするなんて、人間って面白いよね」
リリィはクスリと笑うと、徐々に色んな動画に夢中になっていったようで、次第に自らスクロールするようになっていった。
「うーん。これは面白く無いなー」とか、「ははは、この人やば!」とか、まるで普通の女の子のように、楽しんでいた。
ただ、僕は気付いてしまった。リリィの体がさっきよりも薄くなっていることに。
触れようとしてもそのまま通り抜けてしまいそうな、そんな不安定な存在に、リリィはなりつつあった。
「そろそろいこっか」
「えー今いいところなのにー」
「他にも見せたいものがあるんだ」
「じゃあ行く」
僕たちは部屋を出た。
ドアを開けた瞬間、昼の太陽の光が差し込んできて、二人で目を細めた。
僕はリリィを商店街へと連れ出した。
街で一番大きな場所で、その先の綺麗な商業施設の屋上には、観覧車がついていたりする。
そのせいもあってか、商店街自体は大して盛り上がりを見せてはいない。
なんでも、来年には閉まってしまうのではないかともっぱらの噂である。
古びた看板は、何年も修理されないまま。いまだに木造の店が立ち並び、働いている人たちも若い人はほとんどいない。
時代に取り残されているとはこのことだ。
「おっ!優斗!今日も学校サボってんのかー」
店番中の八百屋のおじさんが、僕に話しかけてきた。
いつも明るくて、ノーテンキな言葉をかけてくる。
よく賞味期限ギリギリの野菜をプレゼントしてくれて、お金のない僕にとっては、とても助かっている。
「今日は休みだからいいんだよ」と返すと
「お前いつもそんなこと言ってんなー」とおじさんは笑った。
それを聞きつけた奥さんが出てきて、おじさんを引っ叩いていた。
いつもこんな感じの仲のいい夫婦だ。
その後も、商店街の人たちは、僕に気づくと、話しかけてきた。世間話を聞かされたり、愚痴を聞かされたり、持ってけって言って串団子を三本くれたり。
「結構人気じゃん」
リリィはそう僕を茶化す。
「みんなに優しいんだよ」
「照れちゃってさー」
「でも、ここの人たちを、僕は好きかな」
「人間の愛ってやつだね」
「なんかちょっと違う気もするけど?」
「似たようなものだよ」
納得はいかなかったけど、強く否定もしなかった。
リリィは商店街の景色を楽しそうにしていたし、誰にも見られないようにこっそり食べさせた串団子にも満足していた。味は分かっていなかったけど。それだけで充分だった。
「あれ、乗ってみたい」
リリィは、観覧車を指差していた。
僕はあまりあの観覧車が好きではなかった。
この商店街を終わらせる象徴のような気がして。
でも、リリィの願いを断る理由もない。
僕は素直に頷くと、観覧車へと向かった。
商店街と似たような店ばかり並べられた商業施設を登る。
エレベーターは丁度混んでいるようだったけど、ギリギリ乗れた。
リリィは「ひゃあー窮屈だねー」なんて言っていたが、他のお客さんたちは、なぜかすっぽりと人一人分空いたスペースを不思議がっていた。
次々とみんな降りていき、屋上に着く頃には、すでに僕たち二人だけになっていた。
エレベーターが開くと、スタッフの人が暇そうに仕事をしていた。
僕に気づくと、慌てて「ようこそー」なんて言ってた。
料金所に付き、僕が二人分支払うと、慌てて止められた。
僕が一言「いいんです」と言うと、困った様子だったけど、それ以上は何も言わなかった。
すぐにゴンドラが回ってくると、リリィは「お先!」と飛び乗った。
僕もすぐに後を追って、同じゴンドラに乗った。
僕とリリィは向かい合って座った。
リリィは段々と広がっていく景色に、目を輝かせている。
「そういえば、死神って飛べるんじゃないの?こんな景色珍しくないんじゃない?」
「飛ぶっていうか浮かぶ、かな。あんまり高くは無理。ビルの二階ぐらいまでかな」
「いや、充分凄いけど。でも、じゃあどうやって移動してるの?」
「目標の人を決めて、ワープ!って感じかな」
「ワープ!?」
「ほら、こうやって」
するとリリィは、姿を消した。
次の瞬間、リリィは僕の横に現れた。
顔をこれでもかと近づけ、僕を驚かせた。
「うわぁぁぁああああ!!!!」
情けなく声を上げる僕。
リリィはそれを見て愉快に笑っている。
「ははは。ほんとキミってビビリだね」
「いや、だってそりゃそ……」
突然のことだった。
リリィは僕に、キスをした。
それは、初めての僕でも分かるぐらいに体温のないキス。
でもそんなことどうでもよかった。
何も聞こえないぐらいに高鳴る心臓。
急ブレーキを踏まれたように自由の利かない体。
外の景色も、これからのことも、何も考えられないぐらいに思考を止めた脳。
そんな、永遠にも似た一瞬の間で、僕は分かった。
もうすぐ、リリィは消える。
ゆっくりと離れていく唇。
リリィはいつものように笑うと
「リリィがキミのこと気に入ったんだって」と言った。
「そっか」
たいした返事も浮かばず、ただそう返した。
リリィは外に見える海を指差した。
「最後にあそこ、連れてって」
「ちょっと遠いよ?」
「いいよ。ゆっくり行こう」
僕たちは観覧車を出て、海へと向かうことにした。
日差しはすでに夕焼け色に変わっていた。
僕はただ、リリィを乗せて自転車を漕いだ。
道ゆく車はいつもの速度で、僕たちは少し遅めの速度で。
どれくらいのスピードが適切かなんて僕には分からない。
この時間が出来る限りゆっくり過ぎてくれたら、それだけでいいのに。
どうにかして、明日も一緒に過ごせないかな。
どうにかして、明後日も一緒に過ごせないかな。
どうにかして、僕の寿命をあげられないかな。
リリィが人を知るには、時間が足りなすぎる。
いや、そうか。
生きるための時間が、足りることなんて無いんだ。
リリィが僕の背中に寄りかかった。
温もりのない温もりが、僕にはとても大切に感じられた。
そうしている間に、僕たちは浜辺に着いた。
自転車から降りるや否や、リリィは海へと駆けていく。
少し遅れて僕も走り出す。
すると、リリィは振り向いた。
「今日、楽しかったね」
「そうだね」
海のそばまで辿り着くと、二人で座り込んだ。
潮の流れは、手招きしているように優しく、波の音は、子守唄のように静かだった。
リリィはふと、太陽を指差した。
「あれが沈んだら、私、消えるから」
「うん」
「どう?寂しい?」
「寂しくないよ」
「キミはほんと嘘つきだよね。目を見れば分かるよ」
リリィは僕の気持ちを見抜いていた。きっと初めて目があったあの時にも。
だったら隠す必要も、取り繕う必要も、今はない。
「僕はリリィに、消えてほしくない。僕と明日も、いや何十年だって、一緒にいてほしい」
「私、死神だよ?」
「関係あるもんか!リリィが人間だろうが死神だろうがどうだっていい。僕はリリィが好きなんだ。……あぁそうだ。死神は人の寿命を奪って生きていくんだろ?僕の命を……僕を殺せば……」
「それ以上は、言わない方がいいよ」
崖から突き落とされるような冷たい視線。
リリィはそれを、明確に拒絶していた。
戸惑う僕の手を、リリィは優しく握った。
触れた指先は、空気の温度と混ざって、彼女の境界が曖昧になっていく。
「私、いつ死んでもいいと思ってた。キミを救って、私の寿命を縮めて、リリィの気持ちが分かれば、それでもう満足だって思ってた。でも、今日は……死にたくないかな。リリィもきっとそうだった。いつも見てる景色が、明日はもう見れないんだって思ったら、死にたくなくなったんだ」
「だったら……」
「ダメだよ。そんなことしたら、私が死ぬ時に、後悔しなくなっちゃうじゃん」
「それってどういう……」
「ふふふ、どう意味だろうね?」
僕はそれ以上聞き返さなかった。
しばらくの沈黙が流れた。
「最後に一つ、お願いしていい?」
リリィがそう切り出した。
僕は頷いた。
「死神に殺された人はね、その死神が死ねば、魂が解放されて生まれ変われるの。だから私が消えればすぐ、リリィも生まれ変われる。どこで、どんな姿でかは分からないけど……見つけてあげてほしい。そして次は、幸せにしてあげて」
「分かった。約束するよ。きっと見つける。どれだけの時間がかかっても」
「ふふふ。ありがと。今日のこと、リリィも覚えてるはずだから。なんとなくだろうけどね」
太陽は、最後の輝きを放っている。
「あーあ。死神も、生まれ変われたらいいのになー。何にでも生まれ変われるんだったら、私、人間になるのに。そしたら優斗と、もっと……」
それ以上の言葉は、僕の耳には届かなかった。
太陽は沈んでいた。
僕は溢れ出る涙を堪えきれないまま、ただ風に吹かれた。
「……ったく、最後まで言い切ってから消えろっての」
ふとを横に目をやると、そこには海辺の咲くはずの無い花が咲いていた。
リリィにそっくりで、真っ白な一輪の百合の花。
死神でもなく、人間でもなく、たった一輪の花。
それでも、彼女は美しかった。
死神リリィは明日死ぬ。 槙二 @Fujimakitokage
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