二歩だけ踊るー70歳、初恋相手の幼馴染と同居始めました

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第1話 光の匂い

ひいらぎ 淺黄あさぎの朝は、光の匂いから始まる。


築八十年を超えた平屋の家。

東を向いた縁側に、日の出が正確な角度で射し込む。障子が淡い乳白に染まり、畳がその光を吸って呼気のように返す。

古い木と乾いた藺草いぐさが混じった香り。季節の輪郭が、匂いの温度でわかる。春はやや甘く、夏は青く、冬は粉っぽくなる。

いまは梅雨明け前。湿りを孕んだ光が、家の奥へゆっくり侵入してくる。


柱時計が低い声で六時を告げる。

振り子の音が空間の中心を揺らす。

遠くの県道では新聞配達のバイクが一台、坂を下り、また上る。

庭の樫の木で、四十雀しじゅうからが一声だけ鳴いた。


その連なりが、淺黄にとっての「おはよう」だった。

無人の朝だが、空気の方から挨拶してくる。


ゆっくりと起き上がり、襟元を整える。寝間着の綿は陽を受けて柔らかい。洗いざらしの白。洗濯板でこすった跡が残っている。

この家に住み始めて二十数年。どこにも欠けがないわけではないが、欠けた部分も含めて、淺黄の地図になっている。


台所に立ち、鉄瓶を火にかける。

金属が鳴くように温まり、まもなく湯気が立つ。

その音の向こうで、ラジオのスイッチを入れると、AM放送の声がかすかに響く。

ニュースでは、昨日の雨で川が氾濫しかけた地域の話をしている。

人間の世界は、相変わらず忙しい。

この家は、時の網目を少し広く取っている。


火を弱め、朝食を整える。

出汁の香りが立ち上がる。煮干しと昆布。

味噌汁、炊き立ての白米、自家製の梅干し。

誰に見せるわけでもないのに、順序はいつも同じだ。

この秩序が、彼女にとっての祈りだった。


食後、湯呑を置いた音が、部屋の静寂に吸い込まれる。

その瞬間、胸の奥にわずかな穴が開く。

食器の数が一つであることを、意識してしまったからだ。


誰かと食卓を囲んだこともあった。

笑い声があった。

それがいつの間にか、記憶の棚の奥にしまわれた。

今となっては、静けさの方が体に馴染む。

それでも、静けさが“過剰”になる朝もある。


――こういう朝が、最近は少し増えた。


淺黄は自分にそう言い聞かせ、立ち上がる。

書斎へ向かう。

八畳間の中央に文机。その周囲を、天井まで届く書棚が囲む。

背表紙が並ぶ。民俗学、文学、宗教史、方言、伝承。

本棚の前に立つと、彼女の時間が一瞬だけ反転する。

若い頃、大学で教鞭を執っていたときの空気が蘇る。

だが、いまの彼女にとってこの空間は、研究室ではなく、

――生活そのものの形だ。


眼鏡をかけ、昨日書きかけた随筆の原稿を広げる。

題は「沈黙の民俗」。

筆を取ろうとして、指が止まる。

紙の上に、光の粒が落ちている。

障子の隙間から射す朝日が、文字の影を薄く縁取っていた。


万年筆のキャップを外す音が、やけに大きく響いた。


そのとき――。


玄関の方で、郵便受けがガタンと鳴った。

いつもの時間より少し早い。

配達員だろうか。

立ち上がり、廊下を歩く。

軋む床。

受け取り口に手を伸ばすと、分厚い封筒が一通。

差出人を見て、眉を上げた。


真珠まじゅ……」


あの人、柘榴ざくろの娘の名前。


封を切る。

中には短い手紙が一枚。


> 『母がまた、少し落ち着かないようです。

> どうにも“静かすぎて退屈”だそうで。

> きっと、また淺黄さんのところへ行く話をしてると思います。

> いつもすみません。 真珠』


文字が端正で、どこか実務的だ。

だが、行間に柔らかい気遣いが滲んでいる。

淺黄は小さく息を吐いた。

あの人――柘榴。

昔から落ち着くという言葉を知らない。

じっとしていると、風邪をひくような性質の人だった。


手紙を置き、視線を縁側へやる。

外は薄く曇っている。

樫の葉が微かに揺れて、まだ湿った風が吹く。

その匂いが畳に移り、室内が少し涼しくなる。


あの人の顔が、唐突に浮かぶ。

若草色の服。笑い皺。

三人の夫を見送りながらも、笑顔を絶やさなかった。

華やかで、面倒見がよく、そして――どうしようもなく寂しがり屋。


「……もう、来ないでよ」


口に出してみる。

声は驚くほど静かだった。

否定の形をしているのに、響き方は願いのようだった。


思い出は、決して封じられない。

記憶の底で、いつでも呼びかけてくる。

朝の光が障子を透かすたび、淺黄はそれを感じる。

孤独は守るものでもあり、時に壊すものでもある。


机に戻る。

原稿用紙の上に、書きかけの文字が並ぶ。


――沈黙は、誰の所有物でもない。

――けれど、人はそれを分け合うことができる。


自分で書いた一文が、急に胸に引っかかる。

「分け合う」。

いつ以来だろう、その言葉を実感したのは。


万年筆を置き、両手で湯呑を包む。

温度がまだ残っている。

それを確かめるように指を押し当てる。


廊下の先で、柱時計が七時を告げる。

その音が、わずかに滲んで聞こえた。


---


午前九時。

淺黄は手紙を机に戻し、座布団に腰を下ろした。

長年使っている綿入りの座布団。

膝の下で柔らかく沈む。

光が一段階強くなる。

庭の隅にある紫陽花が、薄紫の花を揺らしている。


「……行くべきか、行かざるべきか」


誰に向けたわけでもない独白。

言葉に出した瞬間、心が軽くなる。

思考おもいは言葉にして初めて形になる。

それを誰よりも知っているのに、知っているからこそ、彼女は長い間、黙ってきた。


湯をもう一度沸かす。

茶葉を替え、香りを確かめる。

少し酸味が強い。

今日の天気にはちょうどいい。


その時、電話が鳴った。

受話器を取る。


「もしもし、淺黄さん? 真珠です」

「まあ。手紙が届いたばかりよ」

「早かったですね。――母、やっぱり、また言い出してるんです」

「静かすぎるって?」

「ええ。毎回それです。母は、家が静かになると発熱するタイプですから」


二人の間に笑いが流れる。

笑いの音の裏に、わずかな心配が滲む。


「この前までは元気だったんだけどな。……最近、父の十三回忌の準備もあって、思い出すことが多いのかもしれません」

「そう。あなたはどう? 無理してない?」

「私は大丈夫です。――むしろ、母が“行く!”って言い出すと、荷造りが戦争なんですよ」

「ふふ。目に浮かぶようだわ」


真珠がため息をつく。

「でも、母は淺黄さんに会うと落ち着くんです。不思議なくらいに」

「昔からそうだった。あの人は、誰かに自分の音を反響させないと、静けさに迷子になるの」

「音……ですか」

「そう。あなたのお母さんは、音の人。私は、静けさの人。――昔は、その違いでよくぶつかったのよ」


「でも、いまは違う?」

「ええ。今なら、ぶつかる音も懐かしいわ。……それに、静けさばかりじゃ退屈なのも、少し分かってきた」

「母が聞いたら泣きますよ」

「泣く前に笑うでしょうね。あの人は、そういう人」


「じゃあ、もし、母が急にそちらに行くと言っても……?」

「拒まないわ」

「本当に?」

「ええ。――ただし、お茶の一杯くらいは淹れてもらうけれどね」


真珠が笑う。

電話の向こうで、何かを片付ける音がする。

生活音のリズムが、通話を通じて届く。

それだけで、部屋の空気が少し温かくなった。


「ありがとうございます。母、喜びます」

「こちらこそ。――あの人の声、また聞きたいもの」

「すぐ、聞こえますよ。たぶん、思っているより早く」


通話が切れる。

受話器を戻す。

部屋に再び静寂が落ちる。

だが、さっきまでの静けさとは違う。

何かが近づいている音を、空気が先に知っている。


淺黄は深く息を吸い、障子の隙間から光を見た。

その光の中に、かすかに香る――柘榴の香水の記憶。

甘く、少しスパイシーで、笑い声の匂いがする。


「また、嵐が来るわね」


呟きながら、彼女は微笑んだ。

光が、障子の紙目を透かして広がる。

音のない風が縁側を撫でる。

静寂はまだ保たれているが、その内部ではもう――鼓動が始まっていた。


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