AI創作論
北宮世都
創作者に向けて
まず初めに私の立場を明確にしたい。私はAI技術そのものに対して怒りを抱いているわけではない。現在AIは道具にすぎない。道具は使う者の意思によって善にも悪にもなる。私が嫌悪し、警鐘を鳴らしたいのはAIを利用して承認欲求を満たそうとする者、金を稼ごうとする者、他者に対して損害を与える者―つまり自己の利益のため、あるいは他者に危害を加えるためにAIを利用する人間の姿勢である。
AI創作における問題を語る上で、創作者をその活用度合いによって大別したい。一方には添削などにAIを活用する軽度の使用者がおり、もう一方にはゼロからプロットをAIに作らせるような全面依頼者がいる。程度の差があれど、大きく分けるとこうなるだろう。
AIを活用する軽度の使用者に対して私が問いたいのは、AIが介入した作品に対して自分の思考が宿っているか?ということである。具体的に言えば、執筆活動において添削を依頼した際、変更された箇所を見て読者に向けて「なぜその表現にしたのか」という理由を説けるだろうか?他者の思考―すなわちAI―が介入したことによる変化を確認した上で、最終的に自身の考えとして表現できるだろうか?この自己検証ができないのであれば、その文章はもはやあなたの創作物とは言えないのではないだろうか?最終的に貴方の創作物であるのかどうか、これが私にとって一番重要なAI活用者に対する問いである。
一方、AIに創作物を全面的に依頼するような作者に対して私は率直な嫌悪感を抱いている。この姿勢が孕む本質的な問題は、AIの創作物を自分のものとして発表することは果たして創作活動と呼べるのかということだ。現在、AIの創作物に対する権利どころか、AI自体の権利さえ法的に確立されていない。だがそれでも、作品の奪取は創作活動とはもはや言えず、創作者としての姿勢が根本から問われる行為である。
フィリップ・K・ディックの作品である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という作品においてアンドロイドの歌唱に主人公が感動するシーンが描かれており、現実でもAIが傑作と呼べる作品を作り人の心を動かす日が来る、あるいはもう来ているのかもしれない。そしてそれを鑑賞した際に抱く感情は間違いなく本物であろう。ただその作品を我が物顔で盗作する人間は唾棄すべき存在であることは間違いない。
結局のところ、AI時代における創作者に求められるのは技術の活用能力ではなく、倫理観と誠実さである。自己の利益追求や他者への危害を目的としたAI利用に対して、私たちは創作者としての責任を問い直さなければならない。創作は創作者の能動的な思考と選択の上に成り立っているのだ。その過程を放棄した時、そこにあるのはもはや創作ではない。
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