『左手の月』

沖 霞

第1話

 第1章 乗り過ごし


 「やべぇ、乗り過ごした」


 口に出してから、誰にも聞かれていないことを確認する。

 車内は、もう自分と運転手だけだった。


 仕事帰りのバス。ぬるい暖房と揺れに、知らぬ間に意識が沈んでいた。

 眠ったつもりはなかった。なのに、目の奥に薄い光が残っている。

 ──あれは、夢に差し込んだ月の光だったのかもしれない。


 「次、止まります」


 アナウンスが響き、反射的に降車ボタンを押す。立ち上がると、体の芯がまだ重い。

 眠気の抜けない脚を引きずって、出口へ向かった。


 バスが止まり、ドアが開く。

 夜気が流れ込んできて、肌を撫でていった。


 静かな住宅街のはずれ。

 見覚えはあるはずなのに、何も思い出せない。

 どの建物も、灯りが消えていて、世界から切り離されたようだった。


 街灯がひとつ、頭上にあった。

 光は弱く、アスファルトの水たまりに滲んでいる。

 すぐ横に自販機があって、変わらない機械音をくぐもらせていた。

 誰もいない夜に、自販機だけがいつもの声を出している。


 霧雨が、まだ続いていた。

 ポケットに傘はなく、フードもないまま歩き出す。

 それでも、濡れても構わないと思った。


 ベンチがあった。

 俺はそこに腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。


 ポケットの中でスマホが震えた。

 取り出さずに、ただ振動が止まるのを待った。

 画面の光が怖かった。そこに映る何かが、自分の生活の輪郭を再確認させる気がして。


 吐いた息が白く曇って、すぐに消えた。


 遠くで犬が一声、鳴いた。

 それはまるで、自分とは無関係な誰かを呼ぶ声だった。


 ほんの少し──うたた寝をしただけ。

 それだけのはずだったのに、世界が微かに軋んでいる気がした。


 夜の風景から、自分の輪郭だけが消えていくようだった。



第2章 声と記憶


 顔を上げたとき、通りの向こうに人影があった。


 傘も差さずに立っている。

 光を背にして、顔はよく見えない。

 けれど、どこか――記憶の底に沈んでいた気配があった。


 違う。偶然だ。そう言い聞かせるよりも先に、その人影がこちらへ歩き出した。


 足音は、街灯の唸りと霧雨の音に溶けて、聴こえなかった。

 ただ、歩幅と姿勢だけが、懐かしい“誰か”の輪郭をなぞっていくようだった。


 視線が重なる。

 光がわずかにずれて、その横顔を照らした。


 瞬間、息が止まる。


 

 声にならない呼吸だけが、喉を焼いた。

 胸の奥が、静かに沈むように痛んだ。


 その人が小さく、息を吸い込む気配がした。


 ──「……亮、くん?」


 呼ばれた名前が、夜の空気に沈んでいった。


 髪は肩で切り揃えられ、昔よりも明るい色に染められている。

 服も、化粧も、印象も違う。

 それでも、笑ったときの目元と、声だけは──変わらなかった。


 俺は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。



「こんなところで、お会いするなんて──偶然ですね」


 佐倉が笑った。

 “お会いする”なんて、そんな言葉を彼女の口から聞いたのは初めてだった。

 柔らかいのに、どこかよそよそしい。その敬語が、胸に鈍く刺さった。


 「バス、乗り過ごしたの?」


 「……うん。仕事帰りに、ちょっと寝てた」


 自分の声が、思ったよりも低く響いた。

 佐倉は「ふふ」と短く笑って、顔を傾けた。


 そのときだった。

 彼女が髪を耳にかけた拍子に、袖が少しずれた。


 左手の薬指に、細いリングが光った。

 街灯の明かりが水たまりに滲み、雨粒が指先を打っていた。

 そのたびに、リングがかすかに光った。


 目を逸らそうとして、できなかった。

 そこだけが、時間から取り残されたように、妙にくっきりと見えた。


 何かを言いかけて、やめた。

 佐倉は、それに気づいたように、ほんの少しだけ微笑んで視線を逸らした。


 「まだ……働いてるんだね。あの店」


 「うん、まあね。夜だけだけど」


 また沈黙が落ちた。


 雨が、少しだけ強くなった気がした。

 屋根のない場所を、静かに叩く音がする。



第3章 静かな空気


 少し強くなった雨の音が、会話の終わりを告げたようだった。

 庇のない縁を、細い粒が絶え間なく叩いている。


 どちらからともなく、二人の距離がわずかに開く。

 言葉ひとつで埋められる隙間なのに、誰も何も言わなかった。


 そういう時間だけが、長く、確かに流れていく。


 佐倉はコンビニの明かりを見やった。

 冷たい白。規則的な明滅が、ガラスの奥で瞬く。


 その隣には、橙色の街灯がぼんやりと濡れた地面を照らしている。

 今ここにある光と、過去の記憶を包んでいた光。

 どちらにも焦点が合わない。混ざり合う気配さえなかった。


 亮は、佐倉の横顔から視線を外せなかった。


 目の前にいるのに、もう届かない。

 思い出の中の彼女と、今の彼女の輪郭が重ならない。


 まるで、別の世界から来た人みたいだった。

 袖口の布が湿って、肌に貼りついた。

 指先が少し冷えていく。呼吸だけが、胸の奥で浅く往復した。



第4章 月と敬語


 雨粒の音が薄くなった。どこかで雲がほどけたのだと思った。


 白い光の上に、冷たい白と淡い青が重なった。見上げると、月があった。


 ビルの隙間から覗くようにして、月が顔を出していた。

 濡れたアスファルトにも、その光が届かないほど静かに落ちていた。


 佐倉は空を見上げたまま、小さく笑った。


「……月が、綺麗ですね」


 その言葉は、宙に向けて置かれた挨拶のように、夜気に吸い込まれていった。

 届かない場所へ、そっと落ちていく音だった。


 喉が渇いた。舌先に、わずかに金属の味が滲んだ。

 言葉の形だけが、喉に引っかかっていた。


 亮は何も言えなかった。


 ただ、その敬語がどこかに仕舞われていた記憶を静かに揺らした。



第5章 離れていく背中


 彼女は、最初の一歩をためらわなかった。

 路面の水が浅く弾けて、すぐに静まった。


 月明かりの下で、彼女の影が薄く伸びていくのを見ていた。

 声にならない返事が、胸の中で遅れて揺れた。


 足音は軽く、衣擦れの音さえ夜気に溶けていく。

 亮は、目を逸らせなかった。ただ、顔だけは見られなかった。


 背中は遠ざかるほどに、過去の輪郭と重なっていく。

 あの夜も、こうして見送った。


 言えなかったこと。渡せなかったコーヒー。

 紙コップの、ぬるい熱。

 差し出せなかった傘。雨粒の冷たさ。

 触れられなかった指先。


 全部が、いま、目の前で二度目の距離をとっていく。


 胸の奥が、ひとつ鈍く鳴った。


 彼女が最後に月を振り返ることはなかった。

 そのまま、角を曲がって見えなくなった。


 亮は一歩も動けなかった。

 守ることと、言わないことを、いつからか同じにしていた。

 壊したくないと口実にして、言葉を隠した。

 それでも──


 今も昔も、

 俺は、守ることしかできない。



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『左手の月』 沖 霞 @azoworks1966

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