透明な声を抱いて
ReiN.
第1話
私は、声の多い生涯を送ってきました。
けれど、そのどれもが、誰かのための言葉でした。
やさしい言葉も、怒りも、恋の告白も、
すべて“届くこと”を前提にしていた。
でも、ある日、声が消えた。
喉を失ったわけじゃない。
ただ、誰にも届かなくなった。
音のない世界で、初めて気づいたの。
——私は、自分の声を知らなかった。
それでも、筆を取る。
もう誰にも読まれないと知りながら。
私のなかにまだ残っている、“あなたの声”を確かめるために。
⸻
第一章 声をなくした日
声をなくしたのは、ある春の午後だった。
季節はあたたかく、世界は何ひとつ変わらず、
ただ、私の中だけが音を失っていた。
誰かの笑い声も、鳥のさえずりも、
まるで遠い夢の中の出来事みたいに薄れていく。
「話さなきゃ」と思っても、
口を開く前に、胸の奥で何かが崩れてしまう。
その音だけが、私にだけ聴こえていた。
――かすかな、ひび割れるような音。
それは、声の終わりではなく、始まりだったのかもしれない。
“あなた”の声が、心の奥で囁いていた。
「まだここにいるよ」
その瞬間、私はようやく静かに泣けた。
涙が音を取り戻していくように。
透明な声は、そうして、私の中で生まれた。
⸻
第二章 亡き恋人へ
声をなくした日から、私は音のない世界に慣れてしまったと思っていた。
だが今、君の匂いが戻ってくると、私はその誤解に気づく。
消えたのは声ではなく、受け取る器の蓋だけだったのだ。
夕暮れの光が古いアパートの窓ガラスを橙に染める。
君が最後に座っていた椅子の背に、まだ君の温度が残っている気がして、
私は指先で布を撫でる。
布は何でもない生地だが、
私の指は君が触れた重さを探している。
そこには確かに何かがあった——
君の仕草の癖、笑ったときに歯の裏にかかった影、呼吸のリズム。
「ねえ、聞こえる?」
私は自分に問いかけるように言う。返事はない。
だが胸の奥で、ふっと何かが震えた。
それは音ではなく、空気の波紋だ。
私は目を閉じ、耳を失った世界の中で唯一の聴覚を研ぎ澄ます。
涙が頬を伝い落ちる。熱さが声を連れてくる。
君はいつも、静かでゆっくり喋った。
怒るときでさえ、低くて抑えた声だった。
私が大きな言葉を投げると、君は小さな囁きで返した。
それは救済のようでもあり、判決のようでもあった。
私はそれを聞き逃したくなくて、
何度も何度も同じ場所に戻った。
声を聞くために戻った。君の影を確かめるために。
あの日、君が消えた。
病院の廊下は蛍光灯で白く、時間は定規で測ったように進んでいった。
機械の音、誰かの咳、薬の匂い——世界は普通に回り続けた。
私はその回転に縫われるように座って、
冷たくなっていく君の手を握った。
手は、まだ温かかった。
だが、その温度は私を離れていった。
私は叫んだ。声は出たが、すぐに空気に溶け、消えた。
君の手は小さく震え、最後に私の指を強く握り返した。
力はあった。けれど次の瞬間、彼女の指は私の中に静かに滑り落ちて戻らなかった。
今夜、窓の外の風が君のブレスレットの金属音を思い出させる。
私はテーブルに残された白いティーカップを持ち上げる。
君がよく淹れていた紅茶の香りを想像する——
少し濃くて、甘味を嫌って苦味を残す。
私は唇を寄せるふりをして、君の口元の形を思い出す。
形が思い出されると、言葉がまたひとつ戻ってくる。
「もし次の世界があるなら、もう一度、あなたを最初から好きになる」
その言葉を、私は昔、冗談混じりに君に言った。
君は不敵に笑って、「試してみればいい」と答えた。
私は本当に来世を望んでいるのか分からない。
ただ、言葉を繰り返すたびに、君が戻って来る確率が微かに上がる気がするのだ。
声は戻らなくても、意味のある繰り返しは心を繋ぎ直す。
繰り返すことで、私は君を現前させる。
部屋の空気が濡れたように重くなる。
涙がテーブルにポタリと落ち、カップの縁で模様を描く。
私は君の名を、音にならない音で呼ぶ。
名を呼べば、たとえ空気が返事をしなくても、
私の中で君は応える。
君の笑いが、小さく庭の方から返ってくるように感じる。
君はいつも言った、「後悔しないで」と。
だが、私の後悔は小さな暗号のように胸に残り、形を変えて増えていく。
私は言葉を選べず、いつも先走ってしまった。
たくさんの「言えなかった」を、今、この静けさにぶつける。
ぶつけるたびに、何かが崩れ落ち、少しずつ形を変えていく。
もし君が今、どこかで私の声を聴いているのなら、返事をしてほしいとは言わない。
ただここに戻ってきて、私の横に座ってほしい。
君がいるだけでいい。
窓の外の街灯が揺れる。
私は背筋を伸ばし、空白の中で君の輪郭を描く。
描けば描くほど、君は生々しくなる。
私はその生々しさに震え、そして笑う。
笑うことを許すのは、君だけだった。
「また、見つけるよ。どこにいたって、見つけ出す」
私は小さく誓った。
誓いは薄紙のようで、紙はすぐに破れるかもしれない。
それでも、誓うという行為が私を前に進める。
君がここにいない世界で、私は声を取り戻す方法を探す——
思い出すこと、書くこと、唄うこと、そして誰かに話すこと。
声は戻らなくても、私の中で君はずっと話しかけている。
透明な声として、朝の光の中、器の底で震えている。
窓の外で猫が鳴いた。
私はその音を君の声だと誤魔化して抱きしめた。
泣き疲れたとき、私は君の名前を一つ、また一つ、ゆっくりと数える。
名前が増えるたびに、部屋の暗がりに小さな灯りが点る。
最期に、私は静かに笑って言う。
「来世で会えたら、私、ちゃんとあなたの心を奪ってみせるから」
風が答えるように、カーテンが揺れた。
空気は何も言わない。
だが私の胸は、ほんの少しだけ、軽くなった。
透明な声を抱いて ReiN. @nikoniko487
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