【短編小説】夫婦(体の)交換日記 ~もう一度、愛を知る七日間~(約32,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章「すれ違いの日常」

 午前零時を回った川村家のリビングは、静寂に包まれていた。


 キッチンのシンクには夕食後の食器が洗われ、整然と水切りカゴに並んでいる。ダイニングテーブルの上には、明日の朝食の準備が済んだ痕跡——パンを入れる皿、バターケース、コーヒーメーカーのタイマーセット——が残されていた。


 二階の寝室では、川村彩花が一人ベッドに横たわっていた。

 三十歳。結婚五年目。

 かつてはグラフィックデザイナーとして充実した日々を送っていた彼女は、今では週三日のパート勤務と家事に追われる毎日を過ごしている。


 スマートフォンの画面が彼女の顔を青白く照らしていた。SNSのタイムラインには、かつての同僚たちの投稿が並ぶ。新しいプロジェクトの成功、デザイン賞の受賞、海外出張の写真。彩花は画面をスクロールする指を止め、深いため息をついた。


「私も……あの頃はなあ……」


 呟きは誰にも届かない。

 夫の達也はまだ帰宅していない。

 最近は午前一時を過ぎることも珍しくない。


 彩花は天井を見上げた。結婚当初は、達也の帰りを待っていた。温かい夕食を用意し、「おかえり」と笑顔で迎えた。しかし次第に、その努力は報われないものに思えてきた。達也は疲れ切った顔で帰宅し、食事を黙々と食べ、シャワーを浴びて寝る。会話らしい会話はほとんどない。


 結婚前は違った。


 達也は彼女のデザイン作品を誰よりも理解してくれた。二人で美術館を巡り、カフェで何時間も語り合った。あの頃の彼はどこへ行ってしまったのだろう。


 午前一時三十分、玄関のドアが開く音がした。彩花は目を閉じ、寝たふりをした。もう迎えに行く気力はなかった。


 階段を上がる重い足音。寝室のドアがそっと開き、達也が入ってきた。彼は妻が寝ていることを確認すると、安堵したような表情を浮かべた。


 川村達也、三十二歳。


 IT企業でプロジェクトマネージャーを務める彼は、日々の激務に追われていた。複数のプロジェクトを同時進行し、クライアントからの無理な要求に応え、部下の管理をする。会社では「頼りになる」と評価されているが、その代償は大きかった。


 達也はスーツを脱ぎながら、妻の寝顔をちらりと見た。結婚して五年。最近、彼女と向き合うのが怖くなっている。なぜなら、自分が何も与えられていないことを知っているからだ。


 仕事が忙しい。

 それは言い訳だとわかっている。


 しかし、どうすればいいのかわからない。家に帰れば、完璧に整えられた空間がある。食事は作られ、洗濯物は畳まれ、部屋は清潔に保たれている。それは妻の努力の結果だが、達也はいつしかそれを当然のこととして受け取るようになっていた。


 シャワーを浴びながら、達也は今日の会議を思い返していた。新しいプロジェクトのローンチまであと二ヶ月。クライアントは無理なスケジュールを要求し、チームメンバーは疲弊している。自分がしっかりしなければ、すべてが崩れる。砂上の楼閣を必死で支える仕事……。達也は今の自分をそうイメージせざるを得なかった。


 そんな責任感が、彼を家庭から遠ざけていた。


 翌朝、午前六時。彩花は目覚まし時計より早く目が覚めた。習慣になっている。隣を見ると、達也が疲れ切った様子で眠っていた。


 彩花は静かにベッドから抜け出し、一階へ降りた。朝食の準備を始める。トースターにパンを入れ、卵を茹で、サラダを作る。コーヒーメーカーからは香ばしい香りが漂ってくる。


 これらの作業は自動的に進む。

 考えなくてもできる。

 まるで工場のラインのように。


 彩花は自分の人生がいつからこんなに機械的になったのだろうかと考えた。結婚前は、毎日が新鮮だった。新しいデザインのアイデアが浮かび、クライアントとのミーティングで議論し、作品が形になる喜びがあった。


 今は?


 週三日のパート先は地元のスーパーの事務。データ入力と電話応対。誰にでもできる仕事。家に帰れば、家事が待っている。掃除、洗濯、料理、買い物。終わりのないループ。


 ふと彩花はマズローの欲求階層説を学生時代に習ったことを思い出した。

 人間の欲求には段階がある。

 生理的欲求、安全欲求、所属欲求、承認欲求、自己実現欲求。

 彼女は今、どの段階にいるのだろう。


 基本的な生活は保証されている。夫の収入で暮らせる。しかし、自己実現からは程遠い。承認欲求も満たされていない。いや、所属欲求すら怪しい。この家に、夫婦として本当に所属している実感があるだろうか。


 午前七時、達也が階段を降りてきた。スーツにネクタイ、整えられた髪。外向けの顔。


「おはよう」


 彩花は明るい声で言った。演技だとわかっていても、そうせずにはいられない。それが最後の砦だった。


「……おはよう」


 達也は新聞を手に取り、ダイニングテーブルに座った。彩花はトーストとサラダ、ゆで卵を載せた皿を彼の前に置いた。


「昨日も遅かったね。大変?」


「まあね」


 短い返事。

 会話はそこで途切れた。

 達也は新聞に目を落とし、黙々と食事を始めた。


 彩花は自分の分の朝食を持ってきて、向かい側に座った。二人の間には、物理的には一メートルほどの距離しかない。しかし心理的には、もっと遠く離れている気がした。


「今日は何時頃帰れそう?」


「わからない。プロジェクトが佳境だから」


「そう……」


 また沈黙。


 彩花は思い切って切り出した。


「ねえ、達也。来月、私たちの結婚記念日だよね」


 達也の手が一瞬止まった。


「ああ……そうだったな」


「どこか食事にでも行かない? 久しぶりに二人で」


 達也は困ったような表情を浮かべた。


「仕事の状況次第かな。確約はできない」


「そう……」


 彩花の声に失望が滲んだ。達也はそれに気づいたが、どう反応していいかわからなかった。


「悪いけど、本当に忙しいんだ。終わったら、ゆっくり休みを取るから」



 彩花の言葉に棘があった。


「どういう意味だよ」


 達也の声に苛立ちが混じる。


「そのままの意味。いつも『終わったら』『落ち着いたら』って言うけど、それっていったいいつ来るの?」


「仕事なんだから仕方ないだろう。お前だってわかってるだろう?」


「わかってるわよ。でも……」


 彩花は言葉を飲み込んだ。こんな朝から喧嘩をしたくない。


 達也は時計を見た。


「もう行かないと」


 彼は立ち上がり、鞄を掴んだ。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


 玄関のドアが閉まる音。彩花は一人取り残された。


 テーブルの上には、達也が半分残した朝食があった。彩花はそれを見つめながら、涙が込み上げてくるのを感じた。


 この結婚は間違いだったのだろうか。


 五年前、あんなに愛し合っていたのに。

 達也の笑顔、優しい言葉、二人で過ごした時間。

 すべてが輝いていた。


 それが今では、すれ違いと沈黙だけが生活を支配している。


 彩花は深呼吸をした。泣いている時間はない。九時からパートがある。食器を洗い、部屋を片付け、自分も準備をしなければならない。


 彼女は立ち上がり、機械的に家事を始めた。

 心の中の悲しみを押し込めながら。


 一方、満員電車に揺られる達也も、複雑な思いを抱えていた。


 彩花の失望した表情が頭から離れない。自分が冷たくしていることはわかっている。しかし、どうすればいいのだろう。仕事を疎かにはできない。チームを、クライアントを、会社を背負っている。その反動がすべて彩花に行ってしまっている。それが甘えであることを、達也もうっすらと自覚していた。


 でも男とは、そういうものではないのか。

 家族を養い、社会的責任を果たす。それが求められる役割ではないのか。


 しかし、その役割を果たすことで、一番大切なものを失っているのではないか——そんな疑問が、達也の心の片隅にずっとあった。そうだとしたらそれは本末転倒……そんな想いを達也は頭を振ってむりやり振り払った。


 オフィスに到着すると、すでに何通ものメールが届いていた。クライアントからの変更要求、部下からの相談、上司からの督促。達也はため息をついた。


 今日も長い一日が始まる。


 その夜も、達也は午前一時過ぎに帰宅した。彩花はすでに寝ていた——少なくとも、そのように見えた。


 達也は静かに寝室に入り、妻の隣に横たわった。暗闇の中で、彼は小さく呟いた。


「ごめん……」


 その言葉は、彩花の耳には届かなかった。

 いや、届いていたかもしれないが、彼女は反応しなかった。


 二人の間には、手を伸ばせば触れられる距離にいながら、決して交わらない境界線があった。


 夜は更け、川村家の静寂は続く。


 翌日も、その翌日も、同じような日々が繰り返された。朝の短い会話、達也の長時間労働、彩花の孤独な家事。二人は同じ家にいながら、まるで別々の人生を生きているようだった。


 そして、運命の日が訪れる。


 それは何の前触れもなく、突然やってきた。


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