神様の見えない街で
Simon Grant
第1話 ムスリムの少女、アイシャ
保久良ハイツは、薄いベージュ色の外壁がところどころ剥げた、二階建ての古いアパートだ。
築四十年をとうに過ぎ、角の部屋のベランダには、潮風でできた小さな錆が点々と残っている。
間取りは二K。風呂とトイレは付いているが、どこか湿った匂いが抜けない。
家賃四万円。神戸市東灘区青木——海のにおいが少しだけ紛れ込む下町の片隅で、
アイシャはそこに暮らしている。
朝、目覚ましの音が止むと、部屋に静けさが戻った。
アイシャは天井を見つめたまま、胸の前で指を組み、息を整える。
窓を開けると、遠くで港のクレーンがうなるように軋み、
空にはまだ夜の名残りが薄く残っていた。
洗面台の鏡に顔を映すと、頬が少しこけて見える。
水で手と顔を清め、濡れた指先で前髪をなでつけた。
祈り用のスカーフを手に取る。
古い布だが、母がインドネシアで縫ってくれたもの。
今日は巻かずにバッグへしまった。
コンビニのバックヤードでは、ヒジャブが邪魔になることがある。
それは“仕方のないこと”として、彼女は理解している。
誰も悪くない。ただ、彼女は静かに息を飲むだけだった。
ガスコンロで湯を沸かし、マグカップに粉末のコーヒーを落とす。
砂糖は小さじ一杯。朝ごはんは、昨夜の残りのご飯を温め、ゆかりをふった。
湯気とともに塩気がやさしく広がる。
祖国の味ではない。けれど、この街で生きる朝の味だった。
ゴミ袋を結び、玄関を開ける。
外の空気は少し冷たい。
廊下の端、202号室のドアが開いて、痩せた背の高い男が出てきた。
古びたジャンパーに汚れたスニーカー。
前歯が二本なく、笑うと空気が抜けるような音がする。
「おはよう」
階段ですれ違いざまに男が短く言った。
声は小さいが、よく通る。
アイシャは立ち止まり、小さく会釈して口を開いた。
「……オハヨウゴザイマス」
言葉が朝の空気に溶ける。
男——岸本という名前だと郵便受けの表札で知っていた——は、
帽子に手をやる仕草をして、ぎこちなく笑った。
それだけのやりとりなのに、胸の奥が少し温かくなる。
言葉は、時々、体温みたいに効く。
外階段を降りると、国道の方から車の音が続いて聞こえた。
海沿いを渡る風には、鉄の味が混じっている。
この街の海——青木の海——には古い言い伝えがある。
昔、青い亀に神さまが乗ってやってきて、
この地の山へ向かったという。
青き亀が転じて“青木”。
だが、その神さまが途中で姿を消したとも言われている。
たぶん、昔話だ。
けれど、その話を初めて聞いたとき、
アイシャはなぜか、胸の奥がひんやりした。
——神さまは、どこへ行ったのだろう。
フェリーが出ていた頃、青木はにぎやかな街だったという。
四国から人が押し寄せ、港は明るく光っていた。
コンビニの常連の老人が、古い写真を見せてくれたことがある。
「ここからフェリー乗ってな、うどん食いに行ってたんや」と笑っていた。
だが、1999年3月16日、フェリー乗り場は中央区の新港埠頭に移り、
この街は急に静かになった。
その跡地にできたのが「サンシャインワーフ神戸」。
週末は家族連れでにぎわう。
フリーマーケット、子どもの笑い声、屋台の煙。
アイシャはその賑やかさを、いつも少し遠くから見ている。
自分のシフトが終わる頃には、もう片づけの時間だからだ。
その朝も、阪神電車に乗って出勤した。
窓の外を流れる白い空、広告の化粧品、知らない顔。
隣の女子高生二人が早口で話す日本語は、
波みたいに耳を通り過ぎる。
聞き取れない単語が増えるたび、
胸の奥に小さな泡が立つようだった。
彼女はスマホを取り出し、昨日覚えた言葉をノートに打ち込む。
〈おつり〉〈値下げ〉〈袋いりますか〉
日本語とカタカナが雑に混ざったそのページは、
誰にも見せない、小さな努力の証だった。
朝七時。コンビニのシフトが始まる。
出勤前の客が続けて入ってくる。
新聞、缶コーヒー、肉まん、タバコ。
タバコの銘柄だけは、何度聞いても難しい。
「青のやつ」と言われても、どの青かわからない。
間違えると、胸の奥がぎゅっと縮む。
それでも、「すみません」と笑えば、
たいていの人は「ええよ」と返してくれる。
人の優しさは、どこか不揃いで、それが救いになる。
「おはようさん」「ありがとう」「行ってらっしゃい」
同僚のパートの女性が、明るく声をかける。
アイシャもまねをして、口角を上げた。
笑うと頬が少し痛い。
でも、笑うと相手の目が柔らかくなる。
彼女はそれを、神さまの代わりに信じていた。
昼前、バックヤードに戻る。
棚の端に置いた小さな祈祷マットを広げ、
短い祈りを捧げる。
「Allahu Akbar(神は偉大なり)」
店長は宗教に理解がないが、
「静かにしてるならいいよ」と笑って言った。
だから、マットの位置を少しずらし、
狭い隙間に膝を折って祈る。
——神さまは、狭いところにも、きっといる。
昼休みの食事は、おにぎりとサラダ。
原材料を何度も確認してから、静かに食べる。
窓の外の柳が、強い風に揺れていた。
小さくつぶやく。
「Mulai dingin ya…(寒くなってきたね)」
母国語の響きが、自分を裏切らないことに少し安心する。
午後、買い物に来た小学生くらいの男の子が、
十円玉を何度も数え直していた。
欲しそうに見つめているのは、小さなグミの袋。
数円足りない。
アイシャはしゃがんで、目線を合わせた。
「どれが、いちばん、すき?」
男の子が指を差した。
「じゃあ、またね。つぎ、いっしょに、かおう」
それだけ言って、笑う。
笑顔は小さな祈りに似ている。
誰かを救うほど強くはないけれど、
世界の冷たさを一瞬だけ止めることができる。
夕方。仕事が終わって外に出ると、
空は群青とオレンジのあいだ。
サンシャインワーフの灯りが遠くに見える。
潮の匂い。
ベンチに腰をかけ、スマホを開くと、
母からメッセージが届いていた。
〈Aisyah, sudah makan?(アイシャ、ごはん食べた?)〉
〈Jaga kesehatan ya.(体に気をつけてね)〉
指が止まる。
返事の言葉を選ぶのに時間がかかった。
〈Sudah, Bu. Aku baik-baik saja.(食べたよ。わたし、大丈夫)〉
送信の音が鳴る。
文字が画面の向こうへ消えていく。
嘘ではない。でも、全部でもない。
保久良ハイツに戻ると、
階段の踊り場に洗濯物が揺れていた。
201号の前に、小さな鉢植え。
ミントの葉を指でなでると、
ほのかに甘い香りが立つ。
その香りの向こうで、
またクレーンのうなる音が聞こえた。
湯を張り、ノートを開く。
今日、覚えた言葉を一つ書く。
〈おつり、いりますか〉
カタカナの曲がった文字を見つめ、
アイシャは少しだけ笑った。
夜、布団に入る。
下の階からテレビの笑い声がかすかに聞こえる。
どこの国でも笑いの高さは似ているのだろうか、
そう思いながら目を閉じた。
まぶたの裏に、朝の階段での挨拶が浮かぶ。
「オハヨウゴザイマス」
その言葉は、神さまへの祈りよりも確かな温度を持っていた。
——明日も、同じように言おう。
たとえ何も変わらなくても。
アイシャは小さく息を吐き、
冷たい部屋の中で、
ひとつだけ願いをつぶやいた。
「Tolong… jangan hilang…(お願い、消えないで)」
その祈りは、灯りの消えた海の向こうへ、
静かに、ゆっくりと溶けていった。
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