帰宅願望
猫に手を引かれて、俺は帰途についている。
「今日も寒いですねぇ。こたつに入りたいです。あ、わたしをこたつの中で蹴った回数覚えてますか?」
「ううん……」
「二十四回ですよ! 蹴りすぎです。あと一回で足の指をかみちぎってました」
「ごめんね……」
なにが起こっているのか分からない。ただ握られている——実際は俺が掴んでいる——猫の手が奇妙にあたたかくて、その温もりだけが鮮明で、あとのことは全部些末なような気がした。
二足歩行の黒猫はしなやかな胴体にありあまる尻尾を揺らして、どこかご機嫌に夜道を進んでいた。俺はさながら夢遊病者で、その後ろをふらふらついていく。
「……クロ」
黒猫は、呼びかけに少し振り返ってくれた。
「クロは死んだんだろ。……なんで今、歩いてるの」
目下で尻尾が右と左に揺れた。
「それはね。……クロちゃん、わたしの尻尾を見てください」
クロは俺のことクロちゃんって呼んでたのか。自分も母さんからクロちゃんって呼ばれてたのに。
重力に反してピンと立った尻尾を見た。ふるり、揺れた毛先がふたつ。……ふたつ?
「猫又になろうと思うのです。長生きもしましたし、子どもも孫もいます。きっと認めてもらえると思うのです!」
バラバラの方向に揺れる尻尾は、注視してみれば根っこから五センチくらいのところがまだ繋がっている。完全に二分されているわけではなくて、でも普通の猫ではなくなっていて、俺は呆気に取られてしまった。
「お前、妖怪になるのか」
「なれたら、ですよぉ。きちんと認めてもらえないと、猫又にはなれないんです」
なにに認められる必要があるの?
死んだはずなのに立って歩いて喋ってる時点で妖怪じゃね?
とか、色々返しようはあったと思うんだけど。
「そっか……」
目の前を歩く黒い毛玉を暗闇の中で見失わないように必死で、俺は口をつぐんでいた。
クロは俺の手を引きながら、真っ直ぐに家を目指して歩いた。
生前からおしゃべりな気があったけど、この間もずっと思い出話をしていて、「あの家にはわたしの孫がいますね、きっと夢の中でしょう」とか「この花の蜜吸ってみたかったんです! 吸ってみてもいですか?」とか「小さい頃、ここで迷子になったような……」とか、とにかく口が止まらなかった。ちょっとうるさいくらい。
でも、クロがお腹のたるみから思い出を一つ取り出すたび、そこが鮮やかに色づいて見えた。
暗い夜の町だ、本当に妖怪が現れたっておかしくない。そんな想像をして幼いクロを抱きしめて寝た夜もあった。今やそのクロの方が妖怪を目指しているようだけど、そこは置いといて。
俺は無意識に屈んで、クロを抱き上げていた。
「寒かったですか? いいですよ、抱っこは好きです」
「……うん、知ってるよ」
腕の中で昼寝から目覚めるとのどを鳴らしてた。
些細な日常の、小さな幸せの一幕が脳裏にきらめいて消えていく。流れ星が落ちる。この日常はもうないんだと無理やり自分を納得させたばかりなのに。二十一時も過ぎた夜、クロが死んで十二時間経った現在。魔法使いの魔法はとけず、今も俺の中で星を振っていた。
家についた。おやじは通りの呑み屋にいるのを見たし、母さんは町内会の仕事中。明かりは消えている。
鍵を差し込んで引き戸を開いてやれば、クロは身をよじって腕の中から抜け出た。猫は胴長で捕まえにくい上、液体だから簡単に拘束をかいくぐる。
「ハンカチを取ってきます! ……あ」
とたた。やっぱり二足歩行で居間に飛び込んだクロが、ドアからひょっこり顔を覗かせる。
家のにおいを嗅いで、夢か幻覚を見ているんだと改めて冷静になり始めていた俺は、ふと懐かしい感覚に襲われてそっちを見た。
クロは四足を地面につけて、金色の目で俺をじっと見ていた。
「おかえりなさい。クロちゃん」
笑う猫。玄関に何年も飾られている招き猫の置物よりもずっと可愛い顔が笑って、居間へ引っ込んでいった。
クロと十年連れ添ったのは家族だけじゃない。
クロは赤ちゃんの頃から、赤色のハンカチが大好きだった。唐草模様があしらわれているそれは、なんとなくカボチャの蔓のようだと思っている。
「へへ。どうですか?」
ハンカチを敷いて丸くなっているクロはさしずめ、真っ黒なカボチャの実だった。
実は開いて蔓をまとっている。
「マントみたいだな」
「これならどこへでも飛んでいけそうですね!」
「ははっ、猫は飛ばないだろ。どこに飛んで行くつもりなんだ?」
後ろ脚で立っていても床につきそうなハンカチの端を持ち上げて、身体に巻きつけるようにして結んであげる。マントはエプロンになった。
「どこへでも行きますよ。妖怪は根を張らないのです。好きなところへ行って、そこでこのハンカチを敷いて寝るんです。あ、わたしでもほどけるように結んでくださいね」
「どこへでも、って、あっ」
結び目から手を離すと、クロは満足そうに鼻息を吹いて俺の腕の中から逃げていった。
「クロっ。どこ行くんだっ」
二足歩行で引き戸を開け、外から月光が差し込む。暗い玄関で、夜色の身体にカボチャの蔓を巻いた猫が笑っている。
「ありがとうございました、クロちゃん。では、いってきます。さようなら!」
そう言って四足歩行に戻ると、するりと戸の隙間に身を躍らせてしまった。
長生きしたおばあちゃん猫。死んでしまった愛しい毛玉。もう二度と帰らない命。
この家を出て、お気に入りを着て、外で生きていくつもりなのだ。これまでと違う新しいものになって。俺ら家族は、クロが妖怪だってそうじゃなくたって構いやしないのに。ただ、まだ一緒にいてほしいだけなのに。
胸が切なくて、暗くて音のない玄関が、なぜか怖くて。俺は愛猫を追いかけていた。夜の闇に潜む者を恐れていた、たったひとつの柔らかい命にすがった、小さかったあの日のように。
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