鬣犬(たてがみいぬ)〜人の怨みが生み出した獣。闇夜に吠え、村を襲う鬼神の牙〜
兒嶌柳大郎
第1話 山の異変
応仁・文明の乱が京の都を焼き尽くし、その火の粉がようやく消えようとしていた頃。
若狭国(わかさのくに)の山深くに、世の騒乱とは無縁であるかのように静まり返った村があった。
三方を険しい山に囲まれ、残る一方も急流に阻まれたその村は、さながら陸の孤島であった。
村人たちは山の実りを、川の恵みを受け、決して豊かではないが、穏やかな日々を営んでいた。
その静寂が、血の匂いと共に破られたのは、木々の葉が赤く染まり始めた秋口のことだった。
「ひいぃっ!」
甲高い悲鳴が、村と山とを隔てる細い獣道に響き渡った。
山菜を採りに行ったはずの娘が、顔面を蒼白にして転がるように駆け下りてきたのだ。
言葉にならない叫びを繰り返す娘の指差す方へ、村の男たちが半信半疑で分け入っていく。そして、彼らは地獄を見た。
そこに転がっていたのは、数刻前まで村の子供であったものだ。
いや、「ものであった」としか言いようがない。
衣服の破片が、それが誰であったかを辛うじて示していたが、肉体は無惨に引き裂かれ、食い散らかされ、もはや人の形を留めていなかった。
まるで熊か猪の仕業かとも思われたが、周囲の木々の幹には、べっとりと血糊と共に、馬の鬣(たてがみ)のように黒く硬い毛が無数に付着していた。
この山に、そのような獣がいるなど、誰も聞いたことがない。
惨劇は一度では終わらなかった。
三日後には薪を拾いに行った女房が、その翌日には山裾の畑を見回っていた老爺が、同じように無残な肉塊となって発見された。
村は恐怖の底に突き落とされた。
日中でも誰も家の外に出ようとせず、夜になれば戸板に閂(かんぬき)をかけ、息を潜めて朝を待った。
山の神の祟りか、それとも物の怪の仕業か。
得体の知れない恐怖が、じわじわと村人たちの心を蝕んでいく。
「このままでは、皆殺しにされる!」
村長の苦渋に満ちた声が、集会所に集まった男たちの間に重く響いた。
恐怖に顔をこわばらせながらも、彼らの目には覚悟の色が浮かんでいた。
このまま座して死を待つわけにはいかない。
男たちは錆びついた刀を抜き、先祖伝来の槍を手に、震える己を鼓舞しながら山へと入っていった。
だが、彼らの覚悟は、いとも容易く砕かれることになる。
山深く、獣道を慎重に進んでいた三人の男が、ふと足を止めた。空気が変わった。
獣の臭いと、死の気配が濃密に立ち込めている。
息を殺して周囲を見渡した男の一人が、遥か先の尾根を指差し、声にならない呻きを上げた。
そこに「それ」はいた。
月光が射し込む開けた場所に、黒い影が一つ。
犬の形をしている。
だが、その大きさが尋常ではなかった。
屈強な牡牛ほどもある巨体。
そして何よりも異様なのは、首から背にかけて獅子のように生え揃った、黒光りする鬣であった。
獣は何もせず、ただこちらをじっと睨みつけている。
物理的な距離は百間(約180メートル)以上あるはずなのに、その琥珀色に光る双眸は、すぐ目の前にあるかのように三人の心を射抜いた。
それは、野生動物が獲物を見る目ではなかった。
そこにあるのは、知性と、人間に対する明確な殺意。
そして、底知れぬ憎悪であった。
三人は金縛りにあったように動けなかった。
やがて、獣がゆっくりと口を開き、地を揺るがすような低いうなり声を上げた瞬間、彼らの緊張の糸は断ち切れた。
武器を放り出し、もつれる足で我先に逃げ出した。
背後で何かが追いかけてくる気配はなかったが、あの静かな眼光は、脳裏に焼き付いて離れなかった。
命からがら村に帰り着いた彼らの報告は、村人たちから最後の希望さえも奪い去った。
あれは人の手で狩れる獣ではない。
神か、悪魔か、あるいはそれ以上の何かだ。
正体不明の「鬣犬(たてがみいぬ)」の恐怖に支配され、村は完全に閉ざされた。
ただ、破滅の時を待つだけの、絶望の一週間が始まろうとしていた。
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