心を満たすほどあなたを知りたい
藤咲藍
第1話
水曜日 ― 17時20分。
キーボードの音だけがオフィスに響く。
資料作成、電話対応、データ入力。今日もまた、同じことの繰り返しだ。
営業部を裏方で支えるこの仕事も、もう七年になる。
ふと視線の先にいたのは、吉野課長の後ろ姿。
優しくて、穏やかで、たまに見せる笑顔がずるい人。
でも、私は何も伝えることが出来ていない。吉野課長は既婚者で、私はただの部下の一人。
もう二十九歳なのに、自分の気持ちを隠し続けている。
周りは恋人と未来の話をしてるのに私は独り。
気づけばもう、おばさんと呼ばれる歳になっていた。
プルルル、プルルル。
バッグの奥で着信音が鳴る。
このときの私はまだ何も知らなかった。
この電話がずっと想っていた”恋”に終止符を打ち、別の誰かへの”愛”の始まりになるなんて
「今週の進捗レポート、僕がやりましょうか?」
隣の席の田中が声をかけてくる。新人のわりに気が利くし、仕事も丁寧だ。
つい、首を横に振ってしまう。
「大丈夫。私がやっておくから」
「本当に大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。」
にっこり笑ったつもりだったけど、たぶんその笑顔は『断りの圧』にしか映らなかったんだと思う。田中は少し身を引いて、自分のモニターに視線を戻した。
(人に頼るのって、どこか苦手だ。誰かに任せてミスが出たら、それは私の責任になる。それなら最初から、私一人で全部やった方が楽だ。そう思っていた。)
いつの間にか、そういう働き方が染みついていた。
頼らない、甘えない、ミスしない。“完璧でいること”が私のモットーになっていたのかもしれない。
17時50分。
ほとんどの社員が定時を意識しはじめる時間。
私はレポートをまとめ終えると、椅子から立ち上がった。
「レポート、仕上げたから。ちょっとトイレに行ってくる。退勤は戻って打つから」
「えっ、もう終わったんですか?」
篠宮先輩の言葉にはどこか重みがある。
きっちりとした姿勢、早口すぎず遅すぎない話し方、無駄のない所作――
“怖い”というより、“完璧すぎる”のだ。
私は席を立ち、トイレへ向かって歩き出した。田中が背中をちらりと見て、ぽつりと呟いた。
「ああいうふうにはなれないな、俺……」
それが、トイレの個室で耳にすることになる“あの言葉たち”への、静かな前フリだった。
個室に入った瞬間、扉の向こうから複数の足音と話し声が重なった。
聞き覚えのある声。同じ課の後輩たちだ。
「てか篠宮先輩って、やっぱ無理……」
「うん、仕事できるのはわかるけどさ、一人で抱え込んでて、こっちが息詰まる」
「ていうか、吉野課長と話してるときだけ声のトーン違くない? 」
「ね、なんか急にやわらかくなるよね~。“私こんなにちゃんとやってます”感すごくて、見ててキツいわ」
「奥さんいる人にあんな感じで話すの、ちょっと……って思っちゃう。正直」
「篠宮先輩ってもうすぐ三十なんでしょ?おばさんじゃん。結婚どころか彼氏いないって、ちょっとヤバくない?」
洗面台の前で、口を押さえながらくすくすと笑い声がこぼれる。
悪気なんてないような、でも確実に私を傷つける笑い声だった。
えぐるような言葉が、次々と突き刺さる。
息が止まり、胸が痛くなるほどはっきり聞こえる。
私は声を殺して、小さく息を吸った。
全部、表では誰も言わないことだ。
でも、そう思ってたんだ。みんな。
“怖い人”。“圧がある人”。
“課長に気に入られてる人”。
“気取ってて、融通がきかない人”。
“何でも一人でやって、人を頼らない人”。
涙が滲むのを必死でこらえていたそのとき、スマホが震えた。
何事もなかったふりをして、フロアに戻った。
画面を確認し、退勤ボタンを押した後、パソコンを落としロッカーから荷物を取って、そのまま誰にも声を掛けずに会社を出た。
夏の夕方は、まだ明るい空の下。
けれど私の胸の中には、さっきの言葉が夕立のあとみたいに重く残っていた。 スマホを取り出す。通知が二件。さっきトイレで震えたあの着信だった。
画面には「陽菜」の名前。折り返そうとしたその瞬間、再び着信が鳴った。
「……もしもし」
「やっと出た! もう、何してたの?」
「……会社。今、出たとこ」
「もしかして泣いてるの?」
「泣いてない」
声が一拍遅れた。
陽菜はその遅れた一拍を聞き逃さない。
「今から、ちょっとだけ会おう。新宿駅南口のカフェ“Once More”で」
「え……」
「黙っててもいいよ。喋りたくなったら喋って。とりあえず、顔が見たい。」
一瞬、何かが喉の奥で詰まる。
「……分かった。行く」
「うん、待ってるね」
通話が切れたあと、手に持っていたスマホの画面が暗くなるのを、しばらくじっと見つめていた。
今すぐ帰ってシャワーを浴びて、寝ることで、全てを忘れることもできた。
でも、それじゃ何も変わらない。
深呼吸をひとつして、私は歩き出した。
熱を帯びたアスファルトの感触が足元から伝わり、じわじわと夏の1日が染み込んでくるようだった。
夕暮れの風がそっと頬を撫で、胸のつかえを少しだけ和らげてくれた。
心を満たすほどあなたを知りたい 藤咲藍 @Fujisakiai
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