四、澪
顔には日焼け止めの茶色い塗り物に、頬に縦横に入った朱色の巫女の証。けれど其の目に光は失せていて、此の航海で
「…名は、何と云うの」
近寄って来る気配は、感じていただろう。少女は小さく
「
目を合わせてから大層驚くので、此の少女も何らかの予兆を得ていたのだと知れた。
「亜耶、よ。神人では無く、
「其れでも貴女は、私めを救って下さると婆様の予言で聞きました…!」
婆様、と云うのは西の民の巫女だろうか。自然に澪の口から溢れ出でた呼称は、畏れに満ちていた。
「
澪は、涙目で何度も頷く。きっと、船出の時には半信半疑だったに違いない。
「澪、貴女は何を見るの?」
「
「今は、見えないのね?」
堰が切れたのか、遂には号泣し乍ら澪はうん、うん、と頷く。背中を撫でて遣り乍ら、亜耶は安心する様小さく話し掛けた。
「明日の船出では、船は海原で大時化に遭うわ。歌の流れる海峡も越えられない」
きっと、澪は船の中で懸命に祈って居たのだろう。海の怪が、極上の歌で男達を誘う間も。
「亜耶さま、私は、帰るのが…怖いっ」
「帰らなくて良いの。私は貴女を迎えに来たのだから」
涙でぐしゃぐしゃに為った朱を拭い乍ら、澪が首を傾げる。突然こんな事を言い出す東の巫女に、驚かない筈も無い、と亜耶は笑う。
「貴女が乗ってきたのは、どの船?」
言葉も無くし、驚きの剰り涙さえも忘れて澪は一隻の、一際大きな船を指さした。
「そう、少し待っていてね」
言うと、亜耶は澪の乗ってきたと言う船にずかずかと乗り込んだ。
澪が乗ってきたと言う船は、頗る立派な物だった。三本の帆柱を
「おい、積み荷なら全部下ろしたぞ!此処で何をしている!」
「貴方が、此の船の主?」
海の男に怒鳴られても動じない、厳しく美しい娘に男は眉を顰める。
「そうだが、何の用だ…?」
鼻白んだ船の主の前で、亜耶は掌をそっと差し出し、其処に異世の榊の枝を呼んだ。
「な…っ、お前、何者だ!?」
「杜の巫女。聞いて居るでしょう、商いの相手は?」
「か…
「巫女だと言っているでしょう。其れより、あなた方が明後日の夜に贄にする船巫女を呉れたら、旅の安全を証して上げる」
明後日に贄にする。心当たりが無かったのか、主は言葉を失った。
「澪の霊力は潰えたわ。明日船出すれば、この船は海の藻屑ね」
船出を二日遅らせなさい、と亜耶は静かに畳み掛けた。
「出来ないのなら、此の榊を
亜耶の掌の上で、榊の枝が形を変えていく。墓に供える木に為る前に、主は待て、と言った。直ぐさま枝は、榊に戻る。話は決まった。そう、互いの目が言っていた。
船を下りた亜耶に、澪が駆け寄って来た。もう大丈夫、と笑う亜耶に、澪はまた涙を流す。
「でも、あの船の主は気性が荒くて…っ」
「祠には綿津見神さまへの榊を浮かべて来たわ。船出も二日遅らすって」
凄い、と澪の目が輝く。婆の予言通りに為らなかったらと、不安で仕方無かったろうに。
「では、杜へ帰る前に、
「はい…!」
姉とは、こんな気持ちに為る物だろうか。澪の無邪気さに、亜耶は少し罪悪感を覚えた。
戻ってみると、
「亜耶、早かったわね」
真耶佳は、黄金細工の小さな円盤から瑠璃の
「似合うわよ。他には?」
「後はね、此れと此れ。輿入れ用と祭祀用、普段使いが有れば良いでしょ?余り、普段は着けたく無いけど」
亜耶を着飾らないと言った真耶佳だが、彼女も普段、装飾品は少ない。耳飾りと、
「あら、その子?」
亜耶の後ろに控えて居た
「その子には此の辺りがどうかしら?」
可愛いもの、似合うわよね、と差し出したのは六本組の簪だ。柘榴石が幾つか連なって揺れる形に成っていて、非常に愛らしい。
「そうね。澪、どう?」
「わ、
「輿入れの列に加わって貰うのだもの、着飾らなくちゃ。好きな色は有る?」
「その、
まあ、嬉しい、と真耶佳が笑う。
「ではこれも、ね。其れから、黄金だけの細工の簪は有る?」
慌てて細工師が荷物の中を漁るのを横目に、真耶佳はやっと澪に親しく話し掛けた。
「澪と言うのね、幾つ?」
「数えで十四です…」
「まあ、亜耶の一つ下ね。
澪の慌てた物腰は、どうも保護欲をそそる。其れは真耶佳も同じだったらしく。
「亜耶、この子、泣いていたのでしょう?顔ぐらい拭いてあげなさいよ」
そう言って、麻の手拭いを寄越す。亜耶も、配慮に欠けて居たと、澪の顔を丁寧に拭った。
「よ、汚れて仕舞います、そんな上等な…」
「洗えば落ちるのだから大丈夫。御免なさい、こんな姿で連れ回して」
気の強い亜耶と、人懐こい真耶佳。そんな二人に圧されたのか、澪が初めてふわ、と笑った。
細工師は結局、黄金だけで出来た簪を全部差し出すと言い出した。着けるのが亜耶だと聞いて、自分の細工の腕では足りないと思ったのだと。
「亜耶さま、黄金なんて川を
澪が簪を検分し乍ら、あっさりと言う。西の方ではそんな物なのかと亜耶と真耶佳は顔を見合わせたが、その通りだと細工師も言った。
「其れに、黄金だけの簪の細工なら額飾りの端切れを溶かせば足ります」
真耶佳さまの払う額飾りの対価で充分足りますよ、と澪が簪の一本を手に取りながら結論付けた。矢張り西の族の娘、商いには強いらしい。しっかりとした口調で細工師の取り分を計る姿は、頼もしかった。
慣れて仕舞えば、慌てて己を卑下するばかりの少女でも無さそうだ。もう一人妹姫が出来た様だわ、と囁いた真耶佳に、亜耶も頷いた。
結局、輿入れに伴わない亜耶の装飾品まで増えて仕舞った。けれど、真耶佳が居無くなれば亜耶も蝶髷を結えと言われるだろうし、丁度良いのかも知れない。
「初めまして、巫女姫様方」
顔に貼り付けた様な笑みを浮かべる若い男は、従えた陸の
男は
「真耶佳さま、この度は輿入れお目出度う御座います。お美しい其のお姿、大王も必ずや虜に成る事でしょう」
分かり切った事を世辞で言う男だ。深くは関わらない方が良い。
「ご用件は?本日は私が巫王の名代。伺いますわ」
真耶佳を庇い、前に出た亜耶が冷たい声音で言う。こう云う輩には、下手に出ないのが得策だ。
「巫女姫様はお気が回る。実は…」
「
亜耶は最後まで言わせない。
「そんな事をすれば、
小娘に無知と言われて気に障ったか、長の口元がひく、と引き攣った。後ろに控える血気盛んな男衆も、ざわついて居る。
「大王の命と称して、父君と同じ
「なっ…!」
握った拳をわなわなと震わせ、長の怒りは頂点へと達した様だ。
「神饌を下げろ!この小娘に渡す物など何一つ無い!!」
腕を振り上げて叫んだ後、長は亜耶の胸倉を掴もうとする。そして、其れは当然、勾玉に弾かれた。
雷鳴の様な音と共に、長は男衆を下敷きに横たわる。
「下さらないのなら、下さらないで構わないのよ」
亜耶が目を閉じて、神饌の入った櫃の中を
杜の族の従者達が筏を掲げると、其処には鮑が八つ落ちてくる。岩に張り付いていたのを、海底から剥がしたのだ。其れから、生きたままの赤鯛が八尾。跳ね回るのを筏の上で拳を一つ握り締めるだけで、息の根を止めた。
「此の程度の神饌で大きな口を叩いたのかしら。上等な方から獲らせて頂いたから、其方はもう要らないわ。
杜の霊威を目にした男衆から、異論は上がらない。寧ろ、長を窘める声が出始めた。
「み、巫女姫様…っ」
「花を持たせて差し上げようと思ったのだけれど、心遣いは不要だったみたいね。さようなら、未だ青き陸の長どの」
赦しを乞う声には応えない。ただ、卑賤を見る目で見下ろして、脇を通り過ぎる。巫王が今日を亜耶に任せたのは、此の為も有る。小娘に鼻っ柱を折られる其の経験が、陸の長に必要だと
総ては
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