切って落とされた手はいずれ神へと至る

長月瓦礫

切って落とされた手はいずれ神へと至る


今思えば、嫉妬していたのかもしれない。

楽器を弾く彼の腕なのか、彼の奏でる音楽なのか。

何に対して嫉妬していたのか、もはや自分でも分からなかった。


ただ、俺を見てほしかった。

言ってしまえば、それだけだった。


とても簡単だった。

仕事帰り、一人になったところを狙った。

後ろから忍び寄り、手を切り落とせば、それで終わった。


右手だけを狙って、すとんと落とした。

彼は何が起きたのか分からないまま、そのまま倒れた。


その後、自分で通報して救急車を呼んだ。

たまたま近くを通りかかった友人として、事件を目にした通報者として、名前を呼んだ。一生分、名前を呼んだかもしれない。


ただ、もう二度と音楽が鳴り響かない。

俺が彼の世界を壊したからだ。




病院に入院してから、毎日のように会いに行った。

手首の怪我自体はすぐに治ったが、彼の精神はだいぶ弱っていた。


いろんな人が様子を見に来ていたが、毎日のように来ていたのは俺くらいなものだ。いつ失踪してもおかしくなかった。世間でもそんなふうに騒がれていた。


いきなりのことで、頭が追い付いていない。何もなくなってしまった。

世間は大々的に取り上げたかったようだけど、そのすべてを拒んだ。


『治療に専念するので、今はどうか放っておいてほしい』


そう言い残して、舞台を去った。

来年まで埋まっていたスケジュール帳をすべて白紙にした。

すべてを無にして、今日も病院の中庭から空を仰いでいる。


「調子はどうだ、霧崎」


色素の薄い目がこちらを見る。

右腕の先は包帯が何重にも巻かれている。

その代わり、左手は元気そうに動いている。


「どうかな、悪くないとは思うけど」


いつもより肌が青白く、目の下にクマができている。

言葉は軽いが、調子が悪いのは誰が見ても明らかだ。


「どうした?」


無言で包帯に巻かれた手をじっと見つめていた。


「……正直、何も思いつかないんだ。俺はどうしたらいいんだろう」


「音楽はもうやらないのか」


「こんな手で何ができるか、一緒に考えてくれないか?

まだ可能性があるなら、それを探りたいんだ」


そう簡単には諦めないか。

消えた手を向き合う時間が欲しいだけで、引退するとは一言も言っていない。


「そうだな、俺のほうでも何か探してみる。

もしかしたら、何かあるかもしれない。」


俺が探さなくとも、周りの人が手助けしてくれるに違いない。

帰り際に看護師さんと何やら話していたから、大丈夫だろう。

昔からそうだ、すぐに友達ができる奴だった。


さて、切り落とした彼の手は、瓶詰にして棚に置いてある。

あの日の夜に使った凶器と一緒に置いてある。

何をするでもない、自分の物にしただけだ。

本当にそうだろうか、分からない。


瓶に浮かぶ白い手は、傷一つない綺麗な手だ。液体の中で揺れている。

ピアノの鍵盤をたたくように、バイオリンの弦を弾くように、わずかに動いて見える。




「あまりこういうこと、聞きたくないんだけどさ」


今日は外に出ず、待合室で駄弁っていた。

学生の頃、教室で雑談していたのと同じように、霧崎と向かい合わせに座っていた。


秋の冷たい雨が花壇の花をわずかに揺らす。

一日中ずっと雨が降っていて、少し肌寒い。


「急になんだよ」


重々しい表情で、話を切り出した。

あまり調子は良くないらしい。


「倒れた俺を見つけて、通報してくれたんだろ?

あの時、何してたの? お前の家、こっちのほうじゃなかっただろ」


穏やかな笑顔でこちらを見る。

怒っているでも悲しんでいるでもない。


そりゃそうだ、あまりにも都合がよすぎる。

おかしいところは何もない。


「あの時は会議があって、たまたま近くを通りかかっただけさ。

別に何をしていたわけでもないけど」


「……それ、信じるからな」


とっさに出た嘘を信じたところで、すぐに覆される。

世間はすぐに犯人を見つけるだろうし、広く報道される。

切り落とされた手も回収される。


「隣の人がさ、通報を入れたお前が犯人なんじゃないかとか言ってくるからさ。

ちょっとだけ不安になってたんだ。それだけ聞きたかった」


気まずそうに眼をそらす。


真実を知ったとき、何を思うだろうか。

俺のことを恨みながら、新しい世界に飛び込んでいくのだろう。




今日は警察の人が来て、あの夜について散々聞かれたらしい。

通りすがりの人に背後から襲われたから、犯人の顔なんて分かるわけがない。

現在、詳しい情報を集めている最中らしい。


俺にたどり着くのも時間の問題か。


よほど疲れたのか、今はベッドでうつ伏せになっていた。

俺が来ても、ずっと口を堅く閉ざしていた。


「今日も来たのか、悪いな。

毎日、大変だろうに……」


「いや、そっちこそ大変だったんだろ? 警察の人が来たって聞いたけど」


部屋に嫌な緊張感が残っている。

だいぶ、長く話し込んでいたらしい。

泣きそうな顔でこちらを見る。


「……正直さ、犯人の心当たりなんて、数えきれないくらいいるんだ。

アンチなんて今に始まったことでもないしさ」


「そういうもんか?」


「どうせなら、そのまま殺せばよかったのにさ。

手を切り落とした理由が分からない」


俺に聞いているのか、まだ見ぬ犯人に問うているのか。

返してくれと願ったところで戻らない。


「それだけ憎かったんだろ、お前のことがさ」


よほどの悪意がないとできないことだ。それは誰よりも分かっている。

死んだような顔で涙を流しているんだから、ある意味、殺人は成功したようなものだ。




午前零時、どこからか鐘が鳴り響く。

ジグ、ジグ、ジグと、遠くから何かが近づいてくる。

椅子から立ち上がると、白い手が足首を掴んでいた。


バイオリンの音がだんだんと近づいてきている。

部屋中に音楽が聞こえてくる。


後ろを振り返ると、霧崎が立っていた。

切り落としたはずの手はバイオリン、反対側の手は弓を持っていた。


「霧崎、病院にいたんじゃなかったのか」


それだけじゃない。床や壁や天井から無数の腕が生えている。

ゆらゆらと楽器を弾いているかのように、それぞれ動いている。

喪服を着ていて、楽器を奏でる無数の腕を従えている。


「一体、何が起きている。何があった?」


「刑事さんから聞いたんだ。あの日の夜、監視カメラにお前が映ってたんだってさ」


「……そうだろうな、なにもおかしいことはない」


「俺の後ろから近づいてきているのが映像に残っていたんだって。

お前はたまたま通りかかっただけだって……そう言ったよな」


ああ、とうとう嘘がバレたのか。

こうなることは分かっていたから、別に驚きはしない。


これは悪夢だろうか。俺の部屋に喪服の霧崎がいて、そこら中に生えている腕に羽交い絞めにされ、身動きが取れなくなっていた。腕たちは彼を中心にして、何やら音楽をずっと奏でている。


「なあ、気でも狂ったか。なんだよ、これは」


「俺はずっと正気だよ。そんなくだらない嘘をつくんだったら、最初から全部、言ってくれればよかったんだ」


「子どもでも分かるような話を……本気で信じていたのか?」


バイオリンは彼の手から離れても、なお奏で続ける。

たまに何かがぶつかり合うような軽い音が聞こえる。


未だ音は増え続けている。

霧崎は俺の手を取り、引き寄せる。


「こうやって一緒に踊ればよかったのかな。

そうしたら、何か分かったのかな」


「だから、何をするつもりだ」


「一緒に地獄に行こう、大丈夫。楽しい旅行になるよ」


白い腕は俺たちを飲み込んで、闇に引きずり込んだ。

虚空に引きずり込まれる時、笑っているように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

切って落とされた手はいずれ神へと至る 長月瓦礫 @debrisbottle00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ