本章 弾け、後悔のために
9 病室のアノニマスコール
家とは違う、少し硬いマットレスの感触。なくなったはずの足はしっかりと感覚があるが、動かせない。
目をゆっくりと開けると、2人のルークさんが片方の涙を慰めながら、互いの背中を擦り合っていた。
「私、知ってたのに飛ぶのが遅くてどうしても間に合わなくて」
「さっきからずっと言ってるじゃない1番目の私、こうなるのはわかってるでしょう?」
「でも…まだ慣れなくて」
「はいはい、まったく1番は人間みたいね」
天井を見ると、少し植物が見える。それならここは病院かもしれない。ゆうかさんの部屋からすき間を通って、生えてきたんだ。
一度目を閉じ、開けると風景が少し変わった。
椅子に座り、ほつれた服を暇そうに縫うエマと、いかにも煩わしそうにおみまいに来るアセビさん。
あんたのせいでこうなったよ、歩けるようになるまで手伝ってもらうんだから。
そう声をかけようと口を動かすが、呼吸以外できなかった。だんだん状況が分かってくる。私はかなりの重傷を負ったようだ。
「なんでIちゃんの病室は入っていいの?」
「…知らない。聞いてもわからないこと聞かないでよ、子供じゃないんだから」
「怒ってる?」
「怒ってない」
パチン
糸を断つ時のハサミの音が病室に響く。とても寂しい音だった。
「…やっぱ人間はゆうかんだと嫌われるのかな。みんないなくなるよ、人間の子達は」
「そもそもこんなところ来るところじゃないんだよ。住む場所が違う。」
「僕は楽しいけどなぁ」
はたから見れば噛み合ってる会話だが、私から見たら噛み合っていない。全部知ってるもんね、アセビさんは。
今のところ悪役にしか見えないが、まだ見きるのは早い。きっと理由があるのだろうと、ベッドから眺めながら目をつぶって念を送った。
「うあぁ…皆さんお揃いで」
聞き馴染みのあるその声に耳を澄ます。目を開けなくてもわかる、ナイ君だ。
「おぉ〜ナイ君!1日ぶりだねぇ」
「まぁ、無事がわかったので…」
「運が悪かったら起きないって、また先が長いよー」
「起きるまで待つだけですよ、暇だし」
「それはそうだけど」
なーんだ、ルーク以外にも泣いてる人いるかと思ったけど、みんな慣れてるのか泣いていない。ゆうかんではいつものことなのかもしれない、これは普通なのかもしれない。まだまだわからないものだ。
私はもう一度目をつぶり、次の目覚めに備える。次起きたらきっと朝だ。
少し経ち、眠るのに飽きた頃。
「はいー、起こしますよ〜。起きてるでしょー、早く起きてー」
知らない声と私を起き上がらせようとする硬い腕の感覚に目を覚ました。
「えーと…、8月16日午前2時19分、1週間ぶりの覚醒。こちら入院病棟104号室にてバイタルの正常をアリスが確認しましたー。回復次第病院食の再開と精神科より説明お願いします」
『はーい』
知らないところで事が進むことに安心感を覚えながら、しっかりと辺りを見渡してみる。
病室であることは合っていそう。はじめの日みたいに点滴が刺さっている腕を、窓が草でできていることを、アリス先生がデッサン人形みたいに木の人形であることを黙認した。
今更驚くもんか、たったそれだけのこと。妙にスッキリした思考に慣れつつ、やはりどこか居心地の悪い病室に嫌悪感を抱く。不思議な感覚だ。
「あの…ありがとうございます」
「いえ、仕事なんで。すぐに先生が来るから」
カツン
そう言うと、カルテを持って部屋の外にでる。視界の隅で自分の足に引っかかり、転ぶのが見えた。
ガタン、ゴロゴロ
ゴロゴロ?なにが転がったんだ?
それはどんどん近くなり、風景の隙間から髪の毛がちらっと。
…あー、首取れたんですね。
血の気が引き、低血圧になるのがわかる。点滴の雫が落ちる音が心音と重なり雑音が増えた。
まぁ、木でできてたもん。そりゃあ取れてもおかしくはないない。落ち着け私。
これほどのちょっとの視認で物事を理解できるようになったということは、たぶんここでの生活に慣れてきたのだろう。非常識は常識なのだ。
「だいじょぶですか…?」
「あ」
「うーん」
「ちょっと待っててもらえますか」
「なー…」
「ナースコールお願いします」
自分の不甲斐なさからなのか、上を向いていた頭が横向きへと転がった。
ナースコール、ナースコール…
「どこですか、ナースコール」
「ベッドの横にあります」
横って…
しばらく見つからず右往左往していると、床に落っこちたナースコールっぽいものが見つかった。
しかし、ベッドに寝たままではギリギリ届かない。これは足をついて降りる必要がありそう。
私は布団で隠された足を見つめる。足の感覚はある。たぶん何らかの方法で足は治っていると思うが、問題はリハビリなしで歩けるかどうか。
すぅぅ…
自分の息が少し上がり、呼吸音が目立つ。もしこの足の感覚が嘘で、無くなってたら私はどう思う?なんなら形が変わっている可能性もある。
怖い、布団をめくるのが怖い。なにか化け物にでもなっちまうんじゃないか?私は。
「ないですか?」
急かすようにナースコールについて聞かれる。
どうしよう、どうしよう。
どうやって取ればいいんだ。
…………
うーん
一か八か。
私は布団をかぶったまま、数回寝返りをし、床に落ちる。
ドンッ
と大きな音が鳴り、体が痛くなったが、ナースコールを押せばどうせ先生が来るんだ。大丈夫。なんなら点滴が取れかけている。でも初日に自分で取ったんだからこれっぽっち痛くもかゆくもない…と思いたい。
すぐにナースコールを探すが、なかなか見つからない。
どこに行った?
よく見ると、部屋の隅のさらに届かない方に飛んでいっていた。
もう一度寝返りを打とうとしても、布団がうまく傾斜になって動けない。完全な詰みだ。
「大丈夫です?」
「なぁ…スコール飛んでっちゃった」
「そうですか。まぁ、さっきの音で誰かは来ると思います」
さっきの音…。
そう言われた途端、脳が冷静になり、同時に『恥ずかしい』という感情がふつふつと湧き出てきた。
ここは病院だぞ、あんな大きな音出して、別に私が落っこちただけなのに、緊急事態みたいになったらどうしよう。
ていうか布団ぐるぐる巻きなのも恥ずかしい。なに?私は海苔巻き?絶対発見した人笑うじゃんか。
とは言っても、身動きが取れないので海苔巻きを回避することは無理だ。
「でかい音鳴ったけど大丈夫か?」
廊下の方から声が聞こえる…なんだっけ、売店のあの人。えっと
「チシャ?ちょっと動けない」
あぁそう、チシャ先生。
「ったく、昨日も転がってたじゃないか…あ?」
チシャ先生がちらっとこっちを見たのがわかる。恥ずかしいったらありゃしない。
視線がチクチクと背中に刺さってソワソワだ。早く、早くいなくなって欲しい。でも海苔巻きから助けて欲しい。なんて強欲なんだ、私は。
「お前それ、ロールケーキじゃない!なんでそうなったんだよ」
ケラケラと笑い声。ほら、やっぱ笑うじゃん。くそぅ。
「いやぁ、ナースコール押そうとして落ちたんですよねぇ」
やり場のない怒りを握りしめ、救助を待つ。助けてくれるかは分からないけど。
「…そういや賞味期限ギリのケーキあったな。あとでやるよ」
「ありがとうございまーす」
木と木が擦れる音が廊下に響く。たぶんアリス先生の首がくっついた?接続されたんだ。
ガッ
「え…だい、じょうぶです?」
思わぬ鈍器で叩くような音にびっくりし、反射的に大丈夫か聞く。光景が見えないせいか、不安がいつもより強い気がした。
「あぁ、私の身長じゃ届かないからね。ぶん投げるのよ首」
「へぁ…」
じゃあ、さっきの摩擦音は床との摩擦音かもしれない。見えないってこんなにわからないことが増えるんだな。
「瓶投げたり首なげたりねぇ、もう何年になるのやら!少なくとも千年はやってるねえ」
「1165年くらい前です。生まれたのは」
チシャ先生の声と木のカチカチとした音が、少し高い位置から聞こえる。よかった、今度こそ直ったんだ。
「じゃ、あんたも元気そうだし、仕ごど戻るわ」
「アリスはロールケーキ直します」
「また首外れんなよ」
アリス先生にぐるぐると海苔巻きを解体され、ベッドに戻される。いざ解体されるとなんだか寂しくて、ずっと昔のことのように思えた。
そして、ついに私はベッドに戻される時、自分の足と対面した。
「…白いだけ?」
目に映るのは、なくなった部分が真っ白になっただけの普通の足。
否、よく見たら所々皮が規則正しい模様で硬く乾燥している。
なんだこれ、保湿クリーム塗れば治るのだろうか。
「それでは、お大事に」
アリス先生が部屋からいなくなった。
一気に静かに冷たくなった病室に、私の息の音だけが響く。
こういう些細な経験が、私は一人だと自覚させて、今と未来しかないと問うてくる。なんとも孤独で、つらい時間なのだろう。
『独りなわけあるかぁ!気ぃ滅入ってんじゃねぇぞ!』
脳に波形のない記録が再生される。また?あの時と一緒だ。でも声が違うような気がする。なんならもっと別の個体のような…
ガラガラガラ
一人の空間を割り、誰かが入ってくる。
「失礼しまーす。精神科担当、ラディアータです。今回説明を任されました。よろしくお願いします」
「」
返事の代わりに軽く会釈。
怖い
怖い
私の目には、一つだけの目でこちらの様子をうかがう、少年の姿が映っていた。
できる限り目線が合わないように、下を向く。普通に目が一つしかないのが怖いのと、視線がズキズキ刺さって痛いから。目なんて合わせたらどうなるかわからない。
わからないって、こわい。
「ええと、まず最初に確認された症状が、前日に水誤飲したかな、肺にちょっと水入ってました。寝てる間に以前予約されていた整形の抜糸が終わってます。あと足についてなんだけど、人魚パワーで3日で治ってる」
「はぁ…」
「それで、こっから本題なんだけど」
少し雰囲気が変わる。なんだ、深刻なことなのか。
「人魚化が進んでます。足、海につけないでください。」
「人魚化…?」
「人魚化というのは、何かしらとのハーフの方によく見られる、片方の遺伝子情報の活性化です。今回の場合、海につけたことと欠損部位の修復のための人魚肉の不死の遺伝子の覚醒等が絡み合い、帰巣本能とやらが働いたんでしょうね」
「はぇ」
「あと、足が白くなった理由ですが、あなたは海の人魚の家系のため、メラニン色素が少ないからです。」
「海以外にもいるんですか、人魚」
「空にいますよ、上空何百メートルだったかな。覚えてないけど、空の人魚は太陽光に耐えるために肌が真っ黒なの」
「そうなんですか」
私はさらに下、真下を向き、さっきの説明を何度も反芻する。
肺
抜糸
海
遺伝子
本能
白
黒
人魚化
理解が追いつかない。いや、追いつきたくない。癌や精神病どころの話を容易に超える、人魚化という気味が悪い名前のない病気。
人魚になったら、海であった奴と同じように下半身が魚になるのか、それとも中途半端に両足が少しくっつき、歩くのが困難になるだけで終わるのかもしれない。
ただただ人魚になるより、後者の方がよっぽど怖い。
もしそうなったら松葉杖で?車椅子で?そもそもみんな飛べたりできるんだから、そんな概念すらないかもしれない。
どこまでが私の知ってる世界で、知らない世界なのか。まだ知り得ないことだ。
「ここまでで、他に質問はありますか?」
「特に…大丈夫です」
まだまだ聞きたいことだらけなのに、大丈夫と答えてしまう。あとで迷惑をかけるのを決定づけるように。
「じゃ、あと3日ほど様子見とリハビリで入院するので、その間は安静にお願いします。」
「はぁい」
ガラガラガラとドアが閉まる。また私は一人になった。
考えなければならないこと、考えてはいけないこと、たくさんあるけど、今は全てから逃げていたい。
天井のちょっと顔を出す植物を見つめた後、白く染まった足を触ってみる。
怖いものは怖いが、案外うまくいくかもしれない。それこそ私が『主人公』だったら。
ふと必然的に、ゆうかんに来る前の無の空間で聞いた声を思い出す。
「脇役、なんだっけ」
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