ドーナツを割る
@rrrain_tsuyu
ドーナツを割る
「やっぱり!そうだと思った」
リビングでテレビを見ていた圭一が、突然わっと声を上げた。ぐつぐつと湯気を立てるカレーから目を離して台所から振り向くけれど、この角度からだとソファで寛いでいる圭一の姿しか見えない。
「どうしたの」
「クイズだよ。東大生と芸能人が競うやつ。東大生より早く分かった」
「へえ、すごいじゃん」
私はそれを聞いて、お世辞ではなく本当に嬉しくなった。明日会う予定の父が、同じようなことを言っていたのを思い出したからかもしれない。私は再びカレーに視線を戻して、「頑張れば東大に入れたんじゃないの」と付け足した。父がそうであるように、少しの学歴コンプレックスを抱えている彼は、そう言うとますます上機嫌になる。案の定、「やっぱり?」なんて子どもみたいな顔で笑いながら、もうすっかりテレビから興味を失ったように立ち上がり、ダイニングの方へと近づいてくる。
「ドーナツ、食べていい?」
そう言って圭一が指さしているのは、きっと私が買ってきた有名チェーン店のものだ。もうカレー出来るのに、と少し拗ねたように言うと、一個だけ、と返された。仕方ないなあ、と振り向くと、圭一はもう既にドーナツを手に取ったところだった。数種類買ってきた中でもいちばん人気で、いちばんオーソドックスなやつ。
圭一と付き合い始めたと同時に同棲状態になってから、もう一年が経つ。都内郊外の1DKの圭一名義の部屋には、鍋のぐつぐつ煮える音と、テレビのバラエティ番組の音声が遠くで混じり合っている。片付いているとも散らかっているとも言えない、ちぐはぐな生活感のあるこの部屋は、いつ帰ってきても同じように居心地が良い。
「ドーナツの穴ってさ、長所だと思う?短所だと思う?」
私はドーナツを半分に割る圭一の手元を見つめながら、なんでもないふうにそんなことを聞いてみた。その閉じられた空間が、突然世界と繋がる。その瞬間を見た時、私はいつだって少しの不安を覚える。
「なにそれ。優子ってたまにワケわかんないこと言うよな」
ワケ分かんないこと。本当はそんなことばかりを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「まあ、強いて言うなら短所じゃない?だって食べられるとこ減るし。最近流行ってる穴空いてないドーナツ、美味いし」
ほら、あの中にクリーム入ってるやつ、と言いながら、圭一は何かを思い出したように一瞬間を置いた。そしてなんでもなかったように「ほら、テレビでやってたやつ」と笑った。
不器用だなあ、と思う。その間を問い詰めない私のことを、圭一は鈍感で助かるとでも思っているのだろう。
「そっか。私も短所だと思うよ」
「だよな?やっぱ、食べられるとこは多い方がいいし」
圭一はこういう時、私の言葉の意味を深く考えたりしない。その腑抜けた返事を聞いて私は、それでいい、と思う。分からないでいて欲しい、とも思う。そういう圭一が好きだ。あまりに普通で、ありふれていて、どこにでもいそうな男だから。
二つ下なのも良かった。欠けている部分を愛しやすいからだ。それはきっと、私の父が母と結婚したのと同じ理由だ。
「うまっ!これ、ほんといつ食べても美味いよな」
圭一は唇の端にカスを付けたまま、大袈裟に二カッと笑ってみせた。
母は片付けが出来ない人だった。部屋はいつだって足の踏み場もないほどに散らかっていて、その中でも特に台所がダメだった。汚いのに毎日意地でも料理はするから、使い古しのタッパーの蓋がバラバラに転がって、油の染みた布巾が取っ手に掛かっていた。
「なんでこんなに汚いんだよ」
父は低い声でそう言った。呆れたように、独り言のように。見かねた父が台所を掃除しようとすると、母は何かを隠すかのように大声で怒鳴って、そのあと子どものように泣いた。
そして暫くわんわん泣いたあとは、泣きながらも、散らばったタッパーを必死に洗っていた。泣き止んだふりをして、でもまた泣き出す。声を殺して泣いているのに、鼻をすする音はしっかり聞こえた。
でも、家庭訪問だとか電気の点検だとか、そういう「人が来る日」だけは、異様なほど掃除をした。朝から泣きながら片付けて、怒鳴りながら床を拭いた。
電話がかかってきた時もそうだ。どんなに取り乱していても、電話が鳴るとピタリと泣き止み、高くて抑揚のない、普通の声で「はい」と言うのだ。
私はあの声が、泣き声よりも、怒鳴り声よりも嫌いだった。電話を終えたあとの母の目は、赤く泣き腫らしたまま、どこか勝ち誇ったようにも見えた。
「お母さん、ドーナツ作って」
幼稚園の頃、私はテレビで見たドーナツに憧れて、そう頼んだことがある。
母は少しばかり台所を片付けて、小麦粉と砂糖と卵を混ぜて、一つずつ丁寧に揚げてくれた。そういう要望には案外素直に応えてくれる母だったのだ。きっと私があまり我儘を言う子ではなかったから、そういう時くらいは正しい母でありたいと張り切ったのだろう。
だが、母はそのドーナツに、当然のように穴を開けなかった。ぷっくり丸いだけのそれは、幼い私にとっては大きな裏切りだった。
きっとあの時、私は子どもらしく泣くべきだったのだ。「こんなのドーナツじゃない」と泣き叫んで、作り直して欲しいとせがむべきだったのだ。
だが私はそれを、美味しい美味しいと言って食べた。まん丸で、あたかも正しい形かのように成形されたそれを、私は疑えなかったのだ。母はそれを作り終えたあと、疲れ果てたようにソファで頭を抱えていた。あの背中を思い出す度に、今でも胸が苦しくなる。
私は母とは違う。ちゃんとドーナツに、綺麗な穴を開けられる。
他の誰かと同じような位置が、同じだけ欠けている、できるだけ綺麗な正円の穴を。
そしてドーナツを割るとき、きっと私は無意識に願っている。
私の穴も、こうして世界と繋がりますように、と。
東京から新幹線で三時間の実家は、もうすっかり他人の家みたいな匂いがした。玄関を開けた瞬間、埃っぽい空気にむせた。
「優子、暑い中来てくれてありがとう」
約三ヶ月ぶりに会った父が、仰々しくそう言った。仏間を片付けていた所らしく、畳の上には座布団が散らばっていた。私が「手伝うよ」と言うと、「いいよ」と小さく首を振る。その声が、昔よりも小さくなっているような気がした。
仏壇で笑っているのは、結婚したばかりの頃の若い母。派手な化粧をして、勝ち気そうな顔をしている。母がかつて何時間もかけて作り上げていた、あのよそ行きの顔だ。
母は、私が大学を卒業する歳に呆気なくこの世を去った。台所で首を吊ったのだ。最初に見つけたのは父だった。
母の法事は毎回、父と二人きりだった。父は毎回律儀に坊主を呼び、長い経を唱えさせた。
それを聞きながら手を合わせているうちに、否が応でも母のことを思い出す。台所での終わらない嗚咽。そして、電話が鳴った瞬間に作られる、あの無機質な声。そして、あの穴のないまん丸のドーナツ。
母はあの汚い台所に閉じ込められて、世界と繋がれなかったのだろう。それはドーナツに穴を開けなかったからかもしれないし、あるいはちゃんと穴があったのに、それを割れなかったからかもしれない。
坊主が帰ると、途端に家が静まり返った。この家に父と二人きりだなんて、未だに不思議な感じだ。母の死後、法事の時はもちろん、そうでない時も父が気がかりで、頻繁に通ってきたつもりだ。
「もう三年か」
夕方の薄暗い仏間に座り込んだまま、父がぽつりと言った。私は小さく頷いた。
「早いもんだ」
「うん」
「……ほんと、どうしようもないよな」
「なにが?」
「……全部」
父はそう言って、少しだけ俯いたまま、爪をいじっていた。あの時と同じだと思った。台所からな追い出された日と同じ、何もできない父の姿。
父は結局、母を愛していたのだ。だから何度怒鳴られても、何を変える気もないのに台所に立ち入ったし、あの日母を一番に見つけてしまったのだ。
私のことも、きっと考えていなかったわけじゃないけれど、一番じゃなかった。だから穴の中に閉じ込めたまま、連れ出してくれなかったのだろう。
「……俺が悪かったんだろうな」
「……お母さんは、そういう人だったんだよ」
「でも、俺も結構限界だった」
ぽつりぽつりと吐き出すように話し続ける父に、適当な相槌を打つ。父は母が生きている頃から、よく愚痴を言う人だった。変だと思われるかもしれないが、私はそれを聞くのが好きだった。母がいないところで語ってくれる本音が好きだった。それは母という存在があまりに異質すぎたが故のことなのだろうが、父が母にも見せない顔を知っているという事実が、何故か嫌に心地よかったのだ。
「仕事はどうだ」
一通り独り言のような弱音を吐いたあとで、父は突然私に話を降った。申し訳程度のありふれた話題だったのが、かえって心地よかった。
「まあ、それなり」
「食ってるか」
「食べてるよ」
「……また、いつでも来い」
「うん」
それ以上、何も言わなかった。私たちは、同じ模様の座布団に座って、同じ仏壇を見ていた。写真の母と見つめ合いながら、私たち三人は、きっと死んでもこの穴からは逃げられないのだろうと思った。
帰り際、玄関で父が紙袋を渡してきた。ビニール越しに見えたのは、最寄りのスーパーに売っている大入りのドーナツ。小さな穴が空いていて、甘ったるいやつだ。私は思わず笑ってしまった。
「こればっかり」
「好きだろ」
「……うん」
私がドーナツを抱えたまま靴を履くと、父が「気をつけてな」と小さく言った。
私は「ありがとう」とだけ言って、父に背を向けた。
圭一が浮気を白状したのは、その次の日のことだった。
私が実家に帰っているたったその数日の間に、きっと彼の中で一線を超えてしまったのだろう。
出張から帰った夜、風呂上がりの私に、圭一は黙って携帯の画面を突き出した。画面には短いチャットの履歴があった。軽い約束のような、取り返しのつかない言葉。相手は前々から当たりを付けていた女だったから、なんの驚きもなかった。圭一の高校の後輩で、そこそこの大学に通いながら、別に貧乏でもないのに小遣い稼ぎに水商売をしている、生き方のうまい女。私と出会う前、高校時代からその女のことが好きだったことも知っている。圭一のスマホのカメラロールを二人で見ていた時、文化祭で二人並んでいる写真を見たことがあったからだ。圭一は私がそれを見逃さなかったことも、こんなにしつこくいつまでも覚えていることも、あの一瞬で顔を完璧に覚えてSNSを夜通し漁っていたことも、想像もしていないのだろう。きっと昔から圭一の片想いで、今も女の方は当たり前に圭一のことなんて本気じゃなくて、浮気と言えるかも怪しいような、そんな関係だ。
「ごめん」
そのときの圭一の目は、ひどく人間らしかった。私が問い詰めるのを待っているような、謝る準備をしているような目。
私は泣き出すべきだったのだろう。母があのドーナツを作った日のように。それでもやはりあの日と同じように、目は乾ききったままで、喉がひりつく気配さえなかった。
ずっと知ってたよ、と言ったらどんな顔をするのだろう。あなたに穴の空いてないドーナツのことを教えた人でしょう、と、そんなことまで言ってしまえば。
「わたしと別れたい?」
そう尋ねると、圭一は焦ったようにぶんぶんと首を振った。
圭一だって、きっとちゃんと分かっている。クイズに正解できても東大に行けなかったように、こんな浮気の真似事をしたところで、あの女と結ばれることはないということも。
「もうしない?」
そう言うと、今度は縦に力強く首を振った。それを見ながら、ああ、やっぱりこの人は、私とは違うんだなと思う。悪びれもなく穴を見せびらかして、世界と繋げて、それでも許されると思っている。
きっと私は、こうはなれない。死んでもあの台所から出られなかった母のように、私も私なりのどこかから、きっと出られずに終わるのだろう。
そう思った瞬間、目の前で不安そうな目をしている圭一が、途端に眩しく、愛おしく思えた。もしかして、母も同じだったのだろうか。いや、そうじゃない。母は私たち家族にだけは、あのどうしようもない穴を見せびらかしていた。それならば私の穴は、一体どこと繋がるのだろう。
「じゃあ、結婚しようか」
その瞬間、私の声が自分のものじゃないみたいに響いた。それはまるで、母のあの電話の声のような。
圭一の目が真ん丸になる。それを見ながら私は、あの母の作ったドーナツのことをぼんやりと思い出していた。
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