エッチなしっぽ
萩
第1話
ダイヤの指輪が本当にここにあると言われて、簡単に鵜呑みにする人間は少ないだろう。真美もその多数派の内の一人だった。見慣れた薄い茶色のテーブルの上に、台座が置かれ、宝石のついた指輪がはさまれてある。彼女の部屋に全く似合わないというわけではないが、少なくとも想像してた指輪はダイヤモンドではないし、もっと色のついたものだった。そして、彼女は、男と住んでいなかった。
男の存在がまったく登場しない場所ではない。友人の玲奈という同い年の女の子と一緒に住んでいた。真美の中に心当たりがない以上、それは触れてはいけないもののように思えた。
本物のダイヤモンドは見たことがないし、結局のところそれは台座の部分に薄い筆跡で文字が印字されていたからにすぎない。それを開いたままテーブルに置くとはどういうことだろう。今日は真美は仕事が休みで、玲奈は朝から電車を乗り継いで職場にいるはずだ。目覚めて髪はボサボサで化粧もしていない彼女の頭はぐだぐだと思考を始めるのだった。
AIに相談した。写真を撮って、画像をみせて、状況を説明する。同い年の同棲してる友達が残したと思われる指輪があるんだけど、これどうすればいい?と。
答えは予想通り、様子をみたほうがいい、とのことだった。真美はその態度に納得した。しかし彼女はこの位置においてあった指輪を、目が覚めた自分が気づかないわけがない、という現実に引っかかる。これは話題にすべきか、それとも相手からの声があるまで黙っているべきか。そんなに大きなテーブルでもないから、食事をするにも気を遣うような位置にある。彼女の心持ちは喉をひっかきたくなるような重みを持ちはじめた。
重みは苦手だった。誰にとっても得ではないし、急に孤独を覚えるようになる。
すぐに支度をして予定もないのに外に出た。お昼ぐらいは家で食べたほうが良かった気もしたが、テーブルで食べる勇気はないし、空腹をすぐにおぼえるタイプでもないから、要するにそれはお金の問題だった。
真美は人付き合いで食事をするのは仕方のないことだと割り切れるが、一人で外食することの意味をほとんど見いだせないでいた。そこには満足感というよりも食事が喉を通った安心感があり、その安心感が時間とともに変質していくのを知っていた。どのようにどんなものになるのかはわからないが、胃が食事を溶かして別のものに変える以上、彼女は外食も必ず何かに溶け出して排出されるだろう、という予感があった。その思いは空白でどこか寂しい景色を思い起こさせるが、それが他の人からみた彼女の現在地だった。
少し歩いて、ショッピングモールに入った。今は服なら買っていい気分だった。あまり接客の近くないお店を選び、並んである衣服を眺める。たまに手に取ったりして肌触りをたしかめる。なんだか彼女はそこに、ものすごく自分が女であることが意識されて、わずかな不安をおぼえた。少なくともここでは男性的な振る舞い?はしてはいけないという自戒が働く。たとえば足を大きく開いたり、馬鹿みたいに笑ったり、不気味に動いたり。そういう人間は服を選ぶのにふさわしくないとさえ思った。
自分の嫌なとこが現れるとAIに確認してる習慣があった。そう思えば、この店で服を買うときも、私の雰囲気と似合うかな?とAIにきいていた。衝動買いというのは孤独ではできない。おそらく、孤独から抜け出そうとするときにやるもので、孤独にいるうちは衝動というものは誰かの顔色を伺うように本当はどうでもいいものと扱われてる、という軽い気持ちで生きていた。自分のこれまでを思うと、軽いはずだという思いが絶えなかった。
服屋で珍しいものを見た。それは毛に包まれたしっぽ達だった。モノトーンのしっぽがいくつか色違いで置いてある。こんなお店だったのか、自分が流行に疎いだけなのか、それは小物としては歪であり、料理のサンプルの見本に、生物の素材がそのまま置いてあるような野蛮さをおぼえた。彼女の記憶を探っても、しっぽがアクセサリーのようについてる現実は女子高生くらいしか思い浮かばない。値段をみてみると、3足セットの靴下くらいの値段だった。それは彼女の深くは考えないレベルの金額だった。
今、自分が孤独で何らかの形でそれが収まるのならこのしっぽを買うのはそんなに悪い行いではない。今も、家にはあのダイヤがある。真美は明らかに変なものを残してきた。ならば自分も変なものを持っていたほうがいいんじゃないかという気持ちが強まる。
結局、彼女は袋も貰わずにセルフレジでその商品を購入して素早く店を出た。いや、足取りは普通だったはずだが、気持ちがどこかに急いていた。
色はブラウンで一番目立たないやつだ。しっぽなんていう、どうやってもお尻をつけたら目立つやつに地味さを求めるのはどうかと思ったが、この購入には久しぶりにAIに相談しないで色を決めた自分がいたので、クローゼットの奥でしまったままになる運命のしっぽをみて、彼女は少しすまなそうな顔をした。
その顔が思い出されたのは玲奈が帰って来た頃である。玲奈は明らかに疲れていた。目元は暗く、腰が曲がっている。その日は結局ダイヤの詳細は話題にはでずに、回収されており、何事もなかったかのように終わった。
不思議なのはあんなに1日の半分以上を費やして、ダイヤに気を遣っていたのに、あちらから話題にのぼらなければ、あまり気にならなくなっていたことだった。
それは日常の出来事として、忘れ去られるはずだった。が、彼女には隠し事が残った。それはしっぽだ。人というものには、誰にも相談しなかった茶色いしっぽが残っている。本当に使い道がないせいで、動かずに放置してあるので、なんだかいたたまれなくなって、一人でいるときに鏡の前でつけてみた。
当然、似合わない。そもそもしっぽが似合う人がどんな人なのかいまいちわからなかった。ジーパンの腰の部分に引っ掛けて付けてみたが、その姿は滑稽だった。まるで自分にしっぽがついていることをわかっていないような間抜けな姿だった。
スカートとかなら似合うのかも、と思った。しかしあいにく茶色いしっぽに合う色のスカートを持っていない。わざわざ買って試すほどでもない。真美は服を残さないタイプの女だった。
服装についてとやかく言われるのが嫌いなのだ。彼女は身につけるものが自分の延長線上にあるものとは思えずに、いつも着ているものは喪服であるような気がしていた。それは単に黒を基調として地味な服が多いというわけではなく、色合いの変化が少ないがためにそうなっていた。
汚いハイエナのような男がいた。その人は玲奈の父親であるらしく、基本的に容姿において劣等感を抱きそうもない彼女の父親であるとは到底思えなかった。
嘘なのだと思った。だから、はじめてその男が扉の前でインターホンを鳴らしたとき、反応しなかった。しかし後にそれが玲奈と父親だとわかったとき、急に彼女の顔が老け込んだような、しわが増えたのではなく、本当に体内の水分量が急速に減って、筋肉が衰え、骨が弱り、これまでの彼女の行為のすべてが意地の悪いものになった。それは根拠もなく決定したのである。
例えばベランダで真美が花を植えて飾ったとき、あの女ははっきりと、「私は花が嫌い」と言った。
これまでの友人関係のなかで、こんなに無防備に嫌悪感を示す人にはじめて出会った。そのときはうろたえるというより、何が嫌いなのかを反射的に知りたくて、
「珍しい」と不思議そうに言った。
「珍しいかな?花って、好きだけど嫌いでもないの?」
好きだけど嫌い? 真美はその感覚に触れてはいけない何かを感じた。が、その正体はわからなかったし、知り得ないとさえ思った。
「何が好きで、何が嫌いか、自分でわかる?」
「わからなくても嫌いでよくない?」
「でも、好きではあるんでしょ」
「うん。好きではあるよ」
べつにその花が知らないうちに抜かれてたり、腐ってたり、誰にも愛されずに寂しく枯れていくのでもなかった。その花は咲くべき時間まで咲いていた。種を残したのかもしれないが、もう行方はしれなかった。
相槌を打たなくなったとき、誰かと仲良くなれたような気がした。
それは今まで気心の知れた女の子同士でしかありえなかった。それは繊細で互いの悪意を軽く裁断し合うような関係でなくてはならなかった。
しかし不意に恋はやってきたのである。それも向こうから、まるではじめは同じ場所にいた兄妹が、久しぶりに再会したかのような安心感。それが貝木という男だった。
彼は特別なところは何もない。かといってそれは悪口でもなければ、男として欠けた何かが明らかに混入してると思われる不気味さとも違う。彼の美点は頭の良さだった。
すでにAIは貝木を記憶していた。今のところ彼女にとって最も信頼できる相手はAIだった。AIの言葉はアルゴリズムの中にあると知っていた。だから、少なくとも他人から非難されるような間違いは犯さないはずだと確信できた。
玲奈はその何でもかんでも誰かに決めてもらうのを主体性の欠如と切り捨てた。しかし彼女は結局のところ判別はできなかった。もともと、同居人の友達に興味がなかったせいかもしれないが、AIと真美の関係が、相手の判別を打ち負かしたのは確かだ。それにほくそ笑む気にもなれず、彼女は日々の仕事を淡々とこなした。
淡々としていたのは何も真美だけではない。貝木こそがその最たる例だった。彼の口ぶりはどこか神妙で、音もなく進んでる風だった。
ある日にホテルに行こうと誘われた。旅行で宿泊するためのホテルではない、そういう行為をするための個室を借りたから、一緒に行こうと言われたのだ。
「こういうのって、なにかの流れのなかで行うものではないの?」
真美は珍しく社会性を自分の言葉で頼った。もちろんAIにもすでに相談していた。ただ、時間がなかったので、熟考もできなければ、対話によって誤解として自分を騙すこともできずにいた。
「流れのなかで?」
「そう。そんな急に言われても、私はちょっとそういうのは無理かもしれない」
彼は口元に手をあてていると思った。電話だったので、姿は見えないが、彼は気に入らないことがあると口元を隠す癖があったのを、今になって急に思い出した。
「君は、一度も経験がないの?」
彼の意図的な無神経さが怖かった。もっと微細な糸のほつれを優しい指先で直すような語りをする人だったのに。いまでは優しいけれどべつのところに行ってしまったように思えてしまう。
「経験ないよ。まったく、一度もない」
数秒の沈黙のあと、彼は言った。
「とにかく今日は会ってみないか? 君に会いたい気分なんだ」
それは、真美も同じだった。でも、ここで会ったら何かが壊れる気がする。そうやって壊れたものを、彼は澄んだ顔で通り過ぎる気がする。自分の感受性だけが、取り残される気がした。
彼は待ち合わせの場所にきちんといた。きちんとした身なりで、男の人には珍しいくらい粗野が見受けられない清潔さがあった。ただ、小綺麗というわけではなく、もっと内的な、おそらく自分しか知り得ないと思わせるような妖艶な魅力。それが自分よりも背の高い男に漂っていた。
彼らは歩いた。おそらく若い男女としては歩きすぎなくらいに歩いた。歩幅の調子をずっと互いに探り合っていたのだと思う。彼女はそうでなければ、あまりに肉体が意味を持ちすぎているようで、ドキドキした。本当にこの歩きは時計の上で時間が戻り始めているかのようだった。
新しい秩序が動き始めていく夜のあいだだけの不気味な予感。
彼が目の前にいるのに、彼の記憶を思い出してる、妙にふやけた緊張感のない夜だった。
「実際、会ってみてどうだったの」
夕食を共にしていた玲奈が問いかける。彼との出来事を軽く話してみたのだ。
「私は、嬉しかったと思う」
「じゃあそのままホテルに行けばよかったんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけど」
真美の優柔不断な態度に、明らかに嫌悪感を示した。性格、というか性質が合わない二人が同じ屋根の上にいるのは、多少の衝突が、やろうと思えばいつでも離れられるといった、ある種の非人情に支えられているからだった。
「その貝木くんって、男は、たしかに少し変わってるというか、女慣れはしてないみたいだけど、真美はその男と気が合うんでしょう? それってすごく大事なことだと思うよ」
「私もそれは思うかな。他の男の子、とは違う感じする」
「私がまえに付き合ってた男なんて、会話の八割は私のご機嫌伺いと、面倒なことを避けるための優しい言葉だけだった。あなたは自分が思ってるよりもいま、誠実な悩みに突入してると思うから、貝木くんってそんなに悪くないよ。たぶんだけど」
彼女は食器を片付け始めた。
「元彼の残りの二割の会話は何だったの?」
「ただ、面白かっただけ」
真美は普通の生活に戻った。それは以前と同じものであったはずだが、デスクにある小さな包み菓子や女子トイレから出てくる同僚の姿、近所の公園に住み着く野良猫や、夏の夜風に吹かれた自分自身が、妙に普通で安心したのだ。
貝木とはそれから細々と会話をしている。もしかしたら、平気そうな彼も心の深いところで傷ついているのかもしれない。でも、その傷を表にするのもよくはないとわかる。どうも関係において、無力を覚え始めたころだった。
大人のほうが長い人生を生きるのだから、そのための準備は今からしておいたほうがいいと、真美は色んな場所で言われ続けた。それは当然正しいことのように思えた。途中で事故に遭ったりして亡くならない限りは大人と呼ばれる期間のほうがずっと長い。そこに異論はない。しかし、感覚がついていかない。
夏目漱石が日本人を牛に例えて、このまま近代化を推し進めていけば、限界がきて引きちぎれる。そんな挿話をした、と伝えられている。
それは真美の記憶違いで、馬になろうとする日本人をいさなめて、牛のように着実にずんずん生きなさい、のような小説内に出ててくる小話だったとも記憶するが、実のところ真相はわからない。
夢のなかでは、牛は牧場で家畜として飼われており、人影がその牛たちの体に宿るように映る、みたいなものであったようにも思える。
現実では牛はすでに食用に加工されており、ナイフとフォークをもったスーツ姿の男が、熱々に焼かれたステーキを舌なめずりしてるようにも思える。
結局のところ夏目漱石の提案と真相が彼女自身のなかで上手く繋がらないので、独自解釈をするほかなかった。
それをさり気なく、次の貝木との会話の話題にしようとしていた。
彼と次、直接会えるのは美術館に行くときである。お互いとくに絵が描けるわけでないし、教養を武器に生きていこうという気もないのだが、なんとなくそれは収まりがよくて行き先に決まった。有名な画家の、有名な美術館で行われる、貴重なイベントだったから。
しっぽ、はそこで、エッチなものとして扱われてるのかもしれない。彼女は地味な洋服を選んでいた。鏡に映ったのは、なんだか、別の誰かである。
(了)
エッチなしっぽ 萩 @ftanc33
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