後章 赤い十字と白の塔 10
塔の入り口は、四角い枠だった。枠の内側には細い溝が走っていて、もともと何かがはめ込まれていたことを思わせる。
中は広々としていて、瓦礫を踏む足音と声が深く反響した。床はガラス片や錆びた鉄のフレームの残骸などで埋め尽くされている。しかし建物に守られていたせいか、風化を免れたものも多くあった。
雑然と散らかった長椅子の前に、カウンターのような場所が見えた。1、2、3、という番号を振られている。おそらくは、この施設の接客スペースだった。
太く丸い柱があって、その背に添えるよう鉄の箱が置かれている。透明な板の奥は黒ずんでしまって何も見えないが、ボタンと値段、そして円という文字が見えた。円、という文字を見て、私は胸のすく思いだった。ここは文化財だ。学校で習う歴史の中に登場する太古の貨幣単位を目の当たりにする機会など、またとない。
けれど私をもっと驚かせたのは、その鉄の箱が、自販機であると理解できることだった。つまりは自販機だけはここ千年姿の変化がない、ということらしい。
奇妙な親近感が湧く。
ひときわ大きな壁に巨大な石板が埋め込まれていた。表面は削られて読みにくくはなっているが、刻まれた溝が辛うじて文字であることは認識できた。
「これらのたくさんの名前は、この建物の管理者の名前か、あるいはパトロンの名前だろうな」
「だとしたら、この施設はとても多くの人間が関与する場所だったはずだよ。なんのための施設かが問題だね」
壁の裏には、鉄の枠がはまり込んだ斜面があり、そこに溝がたくさんある階段のようなものが連なっていた。斜面は葛折りのようになって、はるか上空へと続いている。
「この形状は動階段に似ているね」
ディックが言った。動階段は、複合量販店に多い移動手段で、昇降機と違って斜めに滑るように動くのが特徴だ。
「ショッピングモールだったってことか?」
私はそう言ってすぐ違和感を覚えた。ここが複合量販店だろうか? 表面的な特徴はすべて削ぎ落とされてしまって残っていないが、かすかに残る朴訥とした雰囲気は、複合量販店のそれとは言い難い。
それに、私は見ている。あの悪臭漂う地下通路で。
『……医院……の先……00メートル……』
「そうだ、医院だ。俺はここへ来る時、表識を見たんだ」
「僕は古い医療施設か、医療関係の会社の建物だと思っていたけれど、その話を聞く限り前者のようだね」
そう言ってディックは、慎重に鉄枠の斜面に足をかけた。
次の瞬間、足は一段目を踏み抜けて地面に埋まり、その衝撃が伝播して斜面を亀裂が走り登っていく。私はディックの両脇下から腕を回し、彼を目一杯後ろに引っ張った。
「崩れるぞ!」
ディックが足を引き抜くが早いか、坂は一気に崩れ落ちた。大きな音と立ち上った白い埃が私たちを飲み込む。
げほ、げほ、と咳き上げながら、なんとか後ずさると、衝撃の連鎖は二階層にまで達し、今度は私たちの真上に位置する建築材にまでヒビが入る。
「走れ!」
私が叫んだ。どんくさく倒れかけるディックの腕を引っ張り、その場から速やかに退く。タッチの差で、背後に瓦礫の雨が降り注いだ。
息を切らすディックは、恐怖よりも好奇心が勝る目をして、階段の素材はなんだったんだろうね、と言った。
「そんなことどうでもいいだろう。自分の命だぞ。もっと慎重に動くんだ」
そう怒鳴ると、ディックはごめん、と俯いて呟いた。
ディックはすでにこの建物が招いた死を目撃している。見上げただけでも息を呑む高さだ。飛び降りた男は確実に死んでいる。
それが自殺であれ何であれ、この場所では、時間以外によって殺されるということが可能なのだ。
「とにかく立つんだ。もっと安全な上昇手段を見つけないと」
私の右腕を伝うように、ディックは立ち上がった。
「ケン、あれをみて」
ディックが指差す方には、閉ざされた扉が四つ並立していて、上と下を向いた透明な三角が壁の中に埋め込まれている。
近づいてみると、それぞれの扉は中央に線が入っていて、その線を境に左右に開く仕組みになっているらしい。
「なんだと思う?」
「なんだって、昇降機に似ているな」
「開けてみようよ」
「よせ!」
私は秒速で同じ轍を踏もうとするディックの腕を掴む。
「もし兵器庫だったらどうするんだ」
するとディックはおかしそうに笑って、昇降機と言ったのは君だろう? と言った。
そうだけど、もし違ったら?
この男の好奇心はやはり危険だ。都市から追い出されたのも理解できてしまう。
「それに、どうせ使い物にならない」
「そうだね」
ディックは笑って手を戻す。意外なほどあっさりとした諦めに、少し肩透かしを食らった気分だ。
「ケンは優しい人だね」
思わず飛び出た言葉に、うろたえる。
「なにを言ってる」
「僕の心配をしてくれる。都市でもホームでも、そんな人はいなかったよ」
「そんなはずはない。君はホームでは慕われている」
「そう見えるかい?」
ディックは、暗く静かに言った。
「ホームは、結局一人なんだ。どこまでいっても一人。介互という制度をとってみても、そうだろう? ルールとして定めないと助け合うことさえできない。みんな心のどこかで、ここは自分がいるべき場所じゃないと思っているんだ」
夜中の集いの時も、デュエットを二人で歌っているなんて見たことがない。時間を誰かと分かち合うのではなく内側に閉じていた。
農作業をしていた時もそうだ。各々のノルマを終えた途端、会話もなく配給に向かう。
「そんなことないのにね。君たちは祝福されてる」
またそれか、と私は距離を取るように、
「だってそう思わないかい。都市の暮らしは豊かだったけど、それは見せかけだ。全てがあるようで、何もなかった。季節も、景色も、匂いも、全部つくりもので、どこにも向かっていない。人生さえ」
いつか助手が言っていたことに似ている。助手は今何をしているだろう。まだ追悼官を目指しているだろうか。
「ローイングにかかるってことは……」
ディックは口ごもった。そのためらいを突破するために、およそ数秒を要した。
「時間が体に刻まれるようになる、ってことだ」
両手両腕を広げ、空気をかき集めて胸に詰め込むようにし、ディックは頬の緩みを隠すようにやや俯く。
「死が目に見えるってことはつまり、生が目に見えるってことじゃないのかな」
時計粒体によって定められたゆっくりとした八十年間。目的を持たなければ自分が生物であることさえ忘れる。だが目的ばかりが先行し、生が浮かび上がってこなかった。
そうかもな、と言いかけて、やめた。今はまだその時期ではないと思った。それよりも先に、やらねばならないことがある。
建物の奥へと進むと、涼しさと暗さが増した。蝋のランタンに火をつけ、照らしながら進むと、突き当りに斜め向きになったギザギザの記号と、01という印字を発見する。
「階段だ」
ギザギザの記号も、今とほとんど変わらない。予想通り、そのすぐ横に抜け穴があって、通ると頭上へ永遠に続くように見えるギザギザの足場があった。
鉄の骨組みはとうに錆びてしまっているが、肉厚の建築材を光沢のある塗料で覆った足場は、みるからに頑健そうなつくりをしている。試しに片足を乗せてみるがビクともしない。両足を乗せてもそれは変わらない。しまいには、跳ねてみる。
「大丈夫そうだ」
「イシバシを叩いて渡る、っていうやつだね」
「イシバシは叩くよりカリフレートを塗った方が安全だろ」
ディックがなにそれ、と言って笑う。
この時はまだジョークを飛ばし合う余裕があった。
私たちは登った。錆びてガタガタになった手すりには触れぬよう心がけ、代わりに健在な壁のほうに手をつき、足先で地面を一度つついてから体重をかけていく。折り返しの踊り場まで登るのにさえ、相当な時間を食った。
二階層を探検する。基本構造は01と同じようだ。しまっている扉があれば開けたが、金具が錆びて歪んでしまって開かないところも多かった。蹴破るわけにもいかないので、放置するしかない。そういう扉を目の当たりにするたびに、ディックは心底悲しそうな顔で、開けてあげられなくてごめんね、と言った
02、03と数字が増えていくに従って、壁に走るヒビの数は増えていった。
「上に行くほど破損が大きくなるのは、地震の揺れが地面から遠ざかるほど強く伝わるからだろうね」
「まるで紙の城だ」
この先、もっと破損は進んでいるのだろう、と考えると、一歩一歩が自らを死に近づけていくような心持ちである。
もしかしたら、そんな気の迷いが伝染してしまったのかもしれない。四階層へと登る階段の最中、ふいに立ち止まったディックは、振り返ってこう言った。
「このまま登って本当に大丈夫かな」
何を言っている、あと少しだろ、と励ます言葉は、自分に与える分量の方が大きい。
「だって、自殺したんだ」
迷いに満ちた震える声。
「僕はホームへ来て十年近く、ずっとこの塔を眺めてきた。赤い十字の白い塔は、僕の希望だった」
入居者の手の届く範囲で、太古の情報が残されているのはこの塔だけだった。時計粒体が何なのか。ローイングが何なのか。生まれ落ちてしまった疑問は、答えを欲しがって泣き喚いている。
塔へ行けば手に入るかもしれない。
でも、永遠にその希望が失われるかもしれない。
ディックは今にも泣きそうな顔をして、無意識的に、私の手を強く握っている。手すりはもうとっくに剥がれ落ちていて、この階層からは支えになるものが何もなかった。
「僕は待っていた。同時に、来ないでほしいとも思っていた。塔に行きたがる人が現れないことが、いつしか僕を安心させていた」
ディックは私の手を強く引っ張って、
「でも……君がきた。君が……」
私にとっての破滅が、この男にとっての救済だったとは。皮肉なこともあるものだ。
しかし私は今、誰かの時間に関与した感覚を得た。
ガラスの二重扉が開かれ、真空の心に恐るべき風圧で外気が入り込む。それは苦痛を備えた快感だった。
人の人生が入り込む。
違う。
人の人生に私が、入り込んでいるんだ。
「行くしかないだろう」
階段を数段上がり、ディックより高い目線に立つと、腕を握り返して強く引いた。細くみずみずしい腕と、私の汗で湿った手のひらとで、紛れもなく、固有だった時間がやりとりされ交わる。
ディックは一度うなずいて、次の段に足をかける。
04、05、06と、防火扉が道を閉ざしていた。六階層の踊り場で、何かが足に引っかかる。ランタンで照らすと、ボトル状の容器がたくさん見つかる。そのボトルに紛れて、一本の太く長いものがごろりと転がっている。
ディックが拾い上げて言った。骨だ。
人工の骨だった。素材はわからないが、数百年の時間に耐えうる素材なのだろう。
骨は二本あり、太いものと細いものが縦に繋がっていた。連結部には丸く削られた凸の部分と、受け皿になる凹の部分があり、噛み合わさっている。
骨の周りには痕があって、砂のようになった石灰質が骨の周りにたかっていた。
「足の骨を、人工のものに置き換えたんだ。これは紛れもなく『医療』の痕跡だよ」
石灰質の粉を見、これがかつて人だったとわかると、私は静かに両手を合わせた。
膨大な時間が通り過ぎた傷痕が、私たちの前に立ちふさがる。
七、八階層は防火扉が閉じていなかった。ものの残骸で溢れかえっていて、倉庫のような場所だった。何に使うのかわからないチューブ、メモリのついた透明な入れ物、小さな刀、液体の入ったパック……。かなり保存率は高いようだったが、金属はさび、メモリは剥げ落ち、液体は変色しているので、どれも使い物にはならないだろう。それでも私たちは物色した。上に登るまでに済ませておかねばならない試練だった。
多くの時間を費やしたが、結局、得るものはなかった。
そしてついに九階層に至る。
09という文字が刻まれた防火扉は、半開きになっていた。ドアストッパーの役割を果たしていたのは、無数の紙の束だった。
「何かの書類みたいだ」
ランタンの光を浴びて、うっすらと白く輝く。文字がびっしりと詰まった書類が、扉と床の隙間に挟まって動きを封じていた。
「たくさん部屋がある」
ランタンを向けると、通路があって、たくさんの部屋がぶどうの房のように連なってた。
「どの部屋だろう」
「北西向きの部屋と言ったな」
「じゃあ、今僕らがいるより左手向きに進んだところだ」
私はディックからカンテラを奪い、足音を立ててうすら闇に踏み入っていく。
恐れは、封じられた。
入り組んだ通路は、十字路とL字路を交えて、九階層の末端まで広がっているようだった。私たちはまず左折し、行き止まりとわかると戻って前進してからまた左折した。
私は通路に備わった扉の一つを開け放った。
埃っぽい空気と、強烈な酸の匂いがどっと飛び込んでくる。
大きな机があり、電子器具の残骸がいくつかと、本棚があった。ただ、肝心の本は見あたらない。
ゴミ捨て場とは、よく言ったものだ。この光景は確かにゴミ以外の何者でもない。必要とされず捨てられた過去だけがここにある。
「本は誰かが捨てたんだろうか」
「持っていったのかもしれない」
闇の通称団がこの場所を見つけていたら、紙媒体の本などという骨董品を見逃すはずがない。
しかし不思議と懸念はなかった。
私は、部屋を出て扉を閉めると、まっすぐ伸びる通路の先に見える扉を凝視した。引き寄せられるように見たその扉は、他の扉と違って微かな輪郭を闇に描いている。
「ディック、火を消すぞ」
「どうしてだい?」
「いいから」
私は無垢に踊る炎に腹一杯の空気を吹きかけ、揺らぎ消した。
扉の輪郭はいっそう強まる。
私の足は動き出した。真実に迫る時、体はいつも自動的だ。ディックが驚いたように私を見ている。おそらく私の歩調に疑問を呈している。しかし私は止まることがなかった。直ちにドアノブに手は掛けられた。
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