後章 赤い十字と白の塔 2


「そこ、気をつけてね。しばらく段差が続くから」

 手で除ける必要のある枝の数が、少なくなってきた。保存車が一台通れるぐらいの空間ができている。明らかな人の営みの現れだった。

 地面には女性の言った通り、木の板が何枚も等間隔に並べられていて、それらが地面に貼り付けられた二本の鉄のレールに挟まれている。

「巨大な車が何台も連結した乗り物が、走っていたそうよ」

 車は一台で動くものだ。そして私は、車輪を持った機械といえば、車しか思いつかなかった。

「これはどこまで続いてるんだ?」

「さあ。知らないわ。少なくとも〈ホーム〉を貫いて、反対側の森まで突き抜けているから、長いと思う」

「そのホームって何なんだ」

「私たちが今、向かってる場所のことよ」

 女性は、懐中電灯で足元を照らしてはいるものの、ほとんどまっすぐ前を見て、ためらわずに進んでいる。

 途中、太く育った木の根が鉄の棒を押し上げているところがあり、女性は私に、念入りに注意をした。足が絡まると転倒し、あごを打って歯を折る危険もあるのだという。女性の後ろを等間隔でついてくる化け物は大丈夫なのかと訊くと、化け物、という言葉を聞いて少し顔をしかめたあと、大丈夫よ慣れているから、と言った。

 女性の後ろ姿は逞しかった。短く切りそろえられた髪を左右に揺らしながら、背筋を上下に躍動させる。背筋が全身にかかる衝撃を和らげるために、曲がったり、伸びたりを繰り返すのだ。平地にほとんど段差のない都市では、見られない後ろ姿だ。

「あの、あんたは……」

「あなたと同じよ。都市から、こっちに来た人間」

 来た、というのは、能動的で前向きな言い方にも聞こえて、私は少しとまどった。

「母に症状が現れて一緒に来たから、もう十数年前のことよ」

 十数年、という数字は、少なくとも持続的な生活を送れる場所があるのだということを暗示させ、私にかすかな期待を抱かせた。そのかたわらで、十数年経っても都市に戻ることができなかったという事実が、私の足に重くまとわりついて歩調を崩した。

 振り返らないと決めていた私の誓いはついに砕け、引き寄せられるように背後を見ると、そこには一滴の光さえ浮かばず、支配的な夜が広がるだけだった。

 空を見た。割れた月の周りに、いくつもの光の粒がまとわりついて見えた。それが無数の羽虫のように見え、私は、ふいに、吐き気に襲われる。

 立ち止まり、舌を突き出し、喉の門を開いて待った。けれどせり上がってくる熱さの波は、喉の境界を越えることはなかった。

「大丈夫?」

 女性は私の方に近寄ってきて、背中をさすろうと手を伸ばした。

 私はその手を振り払い叫んだ。

「俺は何ともないんだ!」

 女性は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を堅くさせて、空中に弾かれた手を降ろして、私の方へ差し出した。

「ジーナよ。よろしく」

 私はその手を取って、彼女と同じことをして返した。

「ケン・サトウだ。中央都市、美波区の都市追悼官だ」

 自分の名前を発音してみて実感するジーナというのは、やはり聞いたことのない音調の名前だ。

「そう」ジーナはそっけなく言った。「あと少しの辛抱よ」

 彼女の言葉は正しかった。まもなく闇の中にきらめく光が目に入る。そこから五分もしないうちに、ホームの外周に入ったらしい。整備された道に出た。

 道はレールに沿って伸びていて、土は踏み固められ、両端は頭一つ分くらい土が盛られて、段差が作られていた。その段差が、道を道らしく見せているのかもしれない、と気づくが早いか、私はその段差の外側に広がる、広大で整然とした土の庭に意識を奪われる。

 なぜそのように景色がはっきりと見えているのかさえ忘れかけていた。

 日の出が近づき、空が青らみ始めていたのだ。

 もっと明るくなれば、自力で土の庭の正体を考察できたかもしれないが、私は己の無知に対する不安もあって、感情のままに口を開いていた。

「なんだ、これは」

 私がため息をつくと、ジーナは呆気からんとして答えた。

「畑というものよ。野菜や果物を育てるの」

「土から直接、野菜が生えてくるのか?」

「そうよ。でも育たないこともあるし、何より雨がふらなけらば、それでおしまい」

 信じられなかった。なぜそんな効率が悪いことをするのか、私には理解ができなかった。しかし考えてもみれば、水耕栽培ビルのような、人が生きるためのインフラが存在しないから、ゴミ捨て場なのである。

 ゴミ捨て場は、生の反対側。

 ここは死の支配する領域なのだ。

 〈畑〉に囲まれた道をしばらく行くと、背の高い門があった。何本もの丸太とロープで組まれた木製の門である。そして門の左右から、視界が続く限り木柵が伸びている。

「この場所は、やっぱり危険があるのか」

 化け物から身を守っているのか、とそう続けようとしたが、ジーナの後ろをぴったりと付いてくる化け物が目に入り、私は言うのをやめた。

「今あなたが考えてることは、多分違うと思う」

 ジーナは門の前に立つと、ただいま、と声を張り上げる。すると、歯車が回る音がして、門が左右に開く。その狭い入り口から、いくつもの小屋と、公園のような場所、そしてそのずっと奥に、赤い十字が刻まれた、白い塔のような建物が見えた。

「ここがホームよ」

 ジーナは門をくぐった。それだけならよかった。その後ろを化け物が付いていく。私は足を止める。全身がくたくたで、足の裏の感覚はとうに失われているというのに、私にはどうしても、入ることがためらわれた。

「化け物と共存しているのか」

 ジーナは地面を削るように足を止めた。

「化け物じゃなくて、ローイングよ」

「俺には、わからない。ローイングも、なぜここに来たのかも」

「そう」ジーナは懐中電灯を消すと、今度は急ぎ足で歩き出した。「じゃあ、そこにいるといいわ。私は村長に報告をしなきゃいけないから」

 小屋の一つに入っていったジーナに、もう追いつけないと悟ったのか、化け物は急がなかった。門を支える木に手をついて、立ち尽くす私の前に、化け物はやってきた。木を食うつもりかと思った。しかし、化け物は私を見つめて言った。

「ゆっくりでいいのよ」口を左右に引っ張り上げ、もう一度言った。「ゆっくりでいいのよ」優しく、暖かい声だった。

「黙れ!」声は雷鳴のごとく轟いた。

 化け物は全身を萎縮させる。しかし静けさは、化け物の味方をするように、私が吐いた音全てを飲み込んだ。

 私はその場にうずくまった。緩慢に遠ざかる足音が、かすかに耳元に残っている。

 しばらくすると、両足が痺れてくる。

 しかし私は立ち上がらなかった。

 やがて閉じた瞼を、朝日が貫通し始めると、今度は近づいてくる足音を感じた。歩幅の異なる二つの足音だ。

「そうか、彼が……」

 滑らかで低い声だった。

 ジーナが私に出会った経緯を話している。品定めされているみたいだった。しばらくして低い声が近づいてくる。

「啓示は今日も正しかったようですね。サチエにはもうお礼を言ってきました。ジーナも行ってくれてありがとう」

 彼はまだ何もわかっていません、と高い位置からジーナの声が降った。

「最初は誰でもそうですよ」

 私が目を細く開けると、ひときわ顔面が崩れ落ちた化け物が、立膝をついていた。柄がユーの字型に曲がった木製の杖を立てて、真ん中ぐらいの位置で持っている。

 この化け物も、全身が溶けた蝋のようなもので覆われているが、他のとは少し違った。透明な眉と灰色の髪は整えられていて、皮膚もなんというか、どこか上品な溶け方をしているのだ。

 総じて、醜くはなかった。

 これは化け物なのだろうか。

 恐れに、当惑が勝つ。

 化け物は、黒いつやのある生地のジャケットをまとい、水色のタイをしめている。身なりは誰が見ようと紳士的だった。

 私は初めて、化け物における性別というものを意識した。

「少しずつ、知っていくんです。そして、忘れていくんです」

 次に聞く声は、男性のものに聞こえていた。服装を意識したせいかもしれない。そして私の前に、グズグズの皮膚がくっついた小さな手が差し出される。

「ローイング・ホームへようこそ」

 指を支える五本の骨がいびつに浮き上がる手の甲を、紫色の血管が枝のように走っている。黒い斑点が無数に浮かぶ皮膚に触れてみると、人の肌と同じで、暖かかった。


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