前章 良いじかんがありますように 7
最後の追悼が終わった。記憶の街を抜ける頃、私はハンドルを握りながら、今日の仕事ぶりを振り返っていた。
自分は境界線としてうまく機能しただろうか。
彼ら彼女らにとって、安らかな死であれただろうか。
記憶の街を抜けると、ふと自分の体に自分が宿るようで恐ろしくなる。機能としての私が消滅し、私としての私が戻ってくるのだ。
疲れもまたその時、体の中にじんわりと滲むように現れる。目の奥が突き刺すように痛んだ。
玲美区のセンターへ着く頃には、日は完全に落ちていた。
私は遺体を格納した縦長のコンテナを三本引き下ろして、運搬機械の上に滑らせた。機械は、間接が二つあり先端に車輪のついた六本の足を使って隊列を組むと、行き先を確認するように先頭のカメラをキョロキョロとさせた。
そのときコンテナの隊列を挟んだ向こう側にじっと佇む人影が私の視界に入り込んだ。黒い外套に身を包んだ人影は、センター入り口の少し高い位置から、私の方へ視線を落としている。
やがて人間が走るぐらいの速度で走り出す。六本の足を使って搬送口の階段を登り、かと思えば扉の段差にも気をつけて、晴れて平地に足をつけると、速やかに搬送路の闇に消えていった。
男は搬送路の奥へ意識を吸われでもしたかのように、呆然と立ち尽くしている。
近づいていくと、それが今朝方から昼ごろまで顔を合わせていた青年、リクであることがわかった。
私が一礼すると、彼も一礼する。
彼が意図してそこに居たのか、それともただの偶然なのか、私にはわからなかった。死後、肉体がどのセンターに収容されるかは、車両の位置関係や保存庫の収容率などから、ほぼランダムだった
私は追悼に関する調査書を申請するために、ひとまずセンターの門を叩かねばならなかった。私が五段しかない階段を登り切って、リクのとなりに並ぶと、彼はもう一度深々とお辞儀をし、門をくぐった私の背後を数歩開けて、センターの中へと入った。
私が窓口で担当者と話をつけている間、彼は長椅子の一つの、ひどく右端に寄ったところに座って、組んだ両手の上に頭を乗せて待っていた。
保存庫からの入電に受け答えたセンターの事務は、三つの書類に遺体の受領印を捺し、厚正省宛の書類の作成に取り掛かった。
私はセンターの隔離棟へと通ずる薄暗い通路の先にひかる、避難出口を示す青い蛍光灯にどうしてか目を奪われた。
隔離棟は重篤な症状を回復するために、センターに一定期間居住することを求められた人間が収容される場所だ。症状のほとんどは事故による創傷で、一部に生得的な症状の悪化か、突発性のヤマイなどがあった。
世界のじかんから切り離された場所だ。
そういう意味では、記憶の街と似ている。
私は隔離棟に入ったことがなかった。母は乳房の悪性腫瘍で3回回復したが、二度目の回復の際に一度だけ隔離棟に入った。
事務が書類を印刷して持ってくると、私はそれをケースにしまい、リクのところまで歩いていった。
「お待たせしました」
私がそう言って隣に座ると、彼は眩く光る自販機の方を眺めながら言った。
「ここで出会ったんです。ちょうどケンさんの座る場所に座っていました」
二人が座る位置からは、もう業務時間を終えて消灯しているが、回復課と生活課の受付が見えた。
「明日からは、もうこういうことはやめようと思って、最後に、思い出の場所を訪れていたんです。そうしたら、あなたが来て」
私は納得したようにうなずいた。
「どうしても気になっているんです。彼女が最後に何を言おうとしたのかが」
リクは顔を伏せていたが、時折ちらりとこちらを見て目を細めた。
「何か知っているんじゃないですか?」
私は出来うる限り表情を変えずに、どうしてそう思うんですか、とたずねた。
「大切なことは、僕には話さないと思うので」
私はハッとした。エツコとばかり話していたが、リクもそれほど鈍感というふうには見えない。エツコが、自分自身の死を使って彼に何かを伝えようとしたのなら、彼にはその一部でも伝わっているはずだ。
すると、この男の追及するような視線は、私に対する詮索の意図が含まれているということになる。
私は、すぐさま死者への忠誠と、生者への誠意を天秤にかけた。
追悼官に守秘義務はあったが、それは予定者が存命でのうちに限られる。私はリクに隠し立てする必要が一切なかった。エツコはそれをわかっていて、私に話したのだ。
卑怯なやり方だ、と思った。話すも話さないも、私に託したのである。しかもエツコは、私の口から語らせることで、客観性を持たせようとさえしたのだ。
「彼女は、あなたのことを大切に想っていました」
「そんなことはわかってます。僕もばかじゃない。自分には不釣合いなくらいに、愛されていました」
「だったら、それ以上はもう」
リクは生唾を飲み込んで、静かに音を立てずに泣いた。堪えきれずに嗚咽を漏らすときもあったが、概ね彼は感情の流出を、かなり抑えていた。
「家が焼けてしまった時、僕は放火の瞬間を見ていたんです」
リクは押し殺した声で言った。
家主はとても疲弊していて、背中はひどく曲がっており、皮膚はただれていた。彼は、その家主にセンターへ行くことを勧めたが、その声は届かなかった。
あれは”ゼット”かもしれない……と、リクは尻すぼみにつけ加える。
「止めようと思えば、止めることができたんです。でも、家主は、そうするしかないと言っていました。回復も受けられない。罪も犯していないのに、どうしてこんな目に遭うのかわからない、と。僕は彼の切実な言葉を真に受けてしまった」
確かに、重罪を犯した人間は回復する権利を制限される場合がある。それ以外なら、回復はあらゆるヤマイを治す。そして治る権利と義務を、セイジンした市民たちは皆担っている。
建前上は、そうだ。
「彼女にはきっと死の計画があったんです。完璧な家での、完璧な最期を邪魔してしまったのは僕だ」
「おもうに、彼女は――」
リクの成長を邪魔しないために、エツコは自分の口から教えるわけにはいかなかった。死に際のお節介。しかしそれがエツコ自身の望みだった。
最後の瞬間まで誰かのためでありたかった。凹凸の関係にぴたりと当たる人間に運良く出会えた。だからエツコは恵まれている。
では、その企てにリクは単に利用されたのか?
違う。リクも得ている。騙されたと感じるのは、そう感じていたいという意思の現れだ。かつて、じかん以外の何かを信仰していた人類が、その何かに向かって祈りと罵倒の両方を浴びせたように、リクは確かに自分にぴたりとはまる相手を見つけた。
だから、リクも恵まれている。
「彼女は笑おうとしたのです。そのためにあなたに語りかけるという行為が、必要だった」
「どうして」
「彼女の最期が笑顔であることが、あなたに良いじかんをもたらすものと信じていたからでしょう」
どこまでも勝手な話だ。
けれど勝手である他に、じかんを共有することなんて不可能なのだ。きっと。
そうですか、と言ったリクの表情が晴れることはない。何も納得できていないように見える。彼の表面的な納得は、私とこれ以上話しても無駄だという悟りだった。
私は二人のような関係に畏怖がある。畏怖があるから見下している。私の温和な表情を構成するのは、劣等感に似た暗色の感情だ。境界線となることでのみ、つまり、エツコとリクを中継する存在でいることでのみ、その劣等感から逃れられた。
リクが去ってからも、長椅子に座り続けていた。すでに人の気配は皆無で、清掃用の機械が回転する大きなブラシを使って、床を磨く準備に取り掛かっていた。
車中に残した三つの人生時計はどれも止まっていて、今しがた受理された書類には、人生の完結を証明する印が捺されている。
私は上着のポケットから紫色の袋を出し、中からまた別の人生時計を取り出した。龍頭を押し込むと、ケン・サトウという文字が見える。職業柄、市役所の倉庫から持ち出すことは容易だった。次の仕事が入った時に返せばいいと、いつも考えていた。
立ち上がって機械の方へと歩いていく。赤外線の目がこちらを認識して遠ざかろうとするが、少し早足になれば簡単に追いつくことができた。
手動操作用の取っ手を掴んで、ディスポーザーの蓋を開ける。中では縦横に走る二本の軸が、無数の刃を伴って乱回転している。
私はしばらく中を覗き込んだあと、その上に人生時計を入れた袋を吊り下げてみる。
孤独なのはこの時計のせいか?
よっぽど指を離してみようかと思ったけれど、粉々になったネジや歯車などの金属片が顔面に散弾のように飛んでくるのを想像して、怖くなった。取っ手を離すと機械は素早く離れていき、また何事もなかったかのように仕事を続けた。
私は携帯端末を取り出す。
水槽の遠隔カメラを起動して、水中にたゆたうウーパールーパーの姿を、画面に表示させる。素焼きの壺を割って作った隠れ家から、小さな黒目をひょっこりと覗かせている。
「すぐ帰るからな」
そうは言ったものの、私はしばらく立ったまま画面を眺めていた。
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