③物珍しき部の象形

「あっ、えっと、今朝ぶりだね、立騎君……」

「うん、今朝ぶりだね知端ちはたさん。そのエプロン、しばらく見ない内に少し色味が増えたかな? パーソナルカラーによく合ってる。れ鍋にぶたというのが世の常ではあるけれど、知端さんくらいに精巧な鍋だと、それだけ汗と涙で攪拌かくはんした絵の具を塗装した掩蓋えんがいが似合うものだね」

「お前……朝夕あさゆうに増して饒舌だな」

「そうなの? ならわたしよりも立派なひとたらしだね。立騎、部長がわたしでも分かるくらいに赤くなっちゃってるから、どうどう」


 堂々登板ともいかず、出鼻をくじかれたように頬を紅潮させて押し黙る少女。立騎と柚生の口吻こうふんから恐らくはこの人……チハタさんが小景部の部長であり、先輩なのだろう。

 2年か、はたまた3年か。顔立ちは、目に掛からないくらいの波打った髪と眼鏡で装飾されているからいまいち分からない。

 しかし、様々な色味の油絵具で汚れたように見える彩やかなエプロンから、彼女が描画の道程を歩んできた人だということは明白だ。本棚に見えていた外開きの扉の先にはアトリエのようなものがあって、部誌やバックナンバーなどはそちらに保管されているのかもしれない。


 いや、それよりも、芸術に精通する様子の人を直視したせいで胃が痛い。絵画、それも油絵具を用いて描いたものなんて、基本は1枚で色彩に富んでいるものだから。

 キリキリと捻転の近づく胃に投与するものは、モノクロームを描画する癖を持っている可能性に賭けた5ドル。手痛い出費だが、事欠いて零れる放縦ほうじゅうな思想を吐瀉としゃする前に嚥下えんげできるのは大きなアドバンテージだ。


 そこまでして身体を傷めるのも如何なものだが、静かに啖呵たんかを切ってしまった以上引くのも情けない。取り敢えず今日の一日を凌げば終わる。今日という凶日を、昨日や一昨日とは一線を画すくらいにカラフルな人たちに目を焼かれただけの過去にする。


 そのためなら多少傷めても、カラフル嫌いという思想を変に吹聴ふいちょうされることと比べれば、些かコラテラル・ダメージと言って差し支えないだろう。


「……立騎。紹介してくれると助かるんだが」

「ああ、失敬。彼女は佐米牙さめきば知端ちはたさんだ。苗字はあまり気に入らないみたいだから、知端ちはたさん、と名前で呼んであげるといいさ」

「よ、よろしくね。えぇと……?」

「遊佐千砂郎です、よろしく。今日はコイツの付き添いです」

さとい千砂郎のことだ。このエプロンから勘づいているとは思うけれど、知端さんの趣味は油彩画、水彩画の描画だよ。しかしどうにもこれが、趣味と一概には言えないほどにけ者なんだ。ひとたびコンクールにでも出馬すれば牛蒡抜ごぼうぬきは無論、上背のある自然薯じねんじょだって傷ひとつ付けずに抜いてみせるほどの技量を持っている……と、オレは思ってるんだけど、まあせいぜい友人Aの色眼鏡越しの風景だから、過剰に持ち上げてる節は見逃してくれると嬉しいな」


 この立騎のよく喋ること。誰とでも打ち解けてしまう上、好奇心に任せて色々な所に裸足で駆けていく向こう見ずであるから、その関係の1割ほどには〝軽薄〟〝尻軽〟といった烙印らくいんされているように感じているのだが、それは多分、立騎が己を割いていいと思った相手ではないからなのだろう。

 俺という唐変木が良いサンプルだ。何が楽しくて俺を嚮導するのかは知らないが、それでも気さくに対話を試みてくれているのは、コイツなりの執着と思慮がマーブル状に攪拌された〝思考〟というものなのだろうと納得した。

 そう腑に落ちるくらいには、今の立騎の舌は饒かになっている。想い人を想うみたいに。


「あ、あの……立騎くん、その辺で……」

「おっと、舌が乗りすぎたみたい。この辺りで閉場とさせていただくことにするね。知端さん、思慮が及ばなかったことを謝ろうと思う」

「まあ、人一人に対してそこまで饒舌なお前は初めて見たよ」

「あ、わたしも思ったよ。立騎って、スポットライトを正しくつかえたんだね」

「柚生は立騎と今日が初対面だよな……?」


 笑いをとるための舌戦ぜっせんなんて舞台に立ってもいないのに、立騎は常々、どうにも俺に己がボケを捌いてほしいと言わんばかりの振る舞いをしている。

 それに今しがたソコに柚生を並列してもいいと本人からの許可が下りたようなものなので、俺の肩の荷がひとつ増えたことを確信した。


 いや、しかし今日限りの仲なのだろう。だから、1回運搬すれば後は肩から降ろしていい。どうせ明日以降も立騎のボケは背負い続けるのだから、余計にひとつを担ぐ必要なんてないんだ、と言い聞かせる。言い聞かせた瞬間に、心の端はまたむず痒くなった。


「さて、じゃあ部長もこっちに来たし、体験入部を始めよっか。立騎とせんさろ君は……そうだなあ。まずは見ててもらおうかな」

「見る……ってのは、柚生のことを?」

「うん。輪郭だけ憶えてもらえば、あとは一人ひとりで組み立て方が違うから、さわり心地が分かったらそれでだいじょうぶだよ」


 輪郭。触り心地。いまいち全容が掴めない。小景の名を冠する部活である此処は、思えば俺の推知とは様相が大きく違っていた。せいぜい好んだ小景を写真に収めて保管して、それに関しての注釈で部誌を彩るだけの部活動だと思っていたが、知端さんが出てきた奥の部屋にもそれがある保証はない。

 第一、知端さんは絵を得意とする人なのだから、俺が広げていた写真一辺倒の推知は既に腐っている。


 しかしながら、当の柚生は何かを取り出すわけでもなく、ただ両手に沙汰のひとつも持たずにたたずんでいる。白杖は傍に置いてあるものの、一人ぶん俺たちから離れたっきり動かない。

 浮いては消えてしまいそうなアルビノの容姿もその不思議さを助長していて、いっそ不安にすらなってしまう。創られるのか壊されるのかが分からない。

 そうだ、俺はそういうものが嫌なんだ。

 特に理由はない、漠然とした曖昧のまま。


『──其処そこには、せせらぎがひとつ、在りました』

「……なるほどね」

「……理解が早くて羨ましいな」

「千砂郎も直ぐに分かるさ」


 白い花弁を咲かせる花とはなんだったか。咲いた後の花弁とは、いずれ何処で息を終えるのか。正当解は風次第だが、今眼前の若枝柚生が表しているのは、川のせせらぎに揺蕩たゆたう一枚の花弁のようだった。


『愛していたのです。愛されていたのです。目下の道を往く人々に、ただ綺麗と囃されて、嬉しかったのです。だからこそ。だからこそ、私はこの欣快きんかいを花脈に抱えて、愛された街並みを発つのです。いずれ何処に往こうとも、私は日々と共に。温くたおやかに流れ続ける、澄んだ河川の水面から……』


 息を呑む。その拍子に、いや、少し前から、何かがひとつ腑に落ちていた。それは小景部の活動内容であり、柚生のパフォーマンスに敷衍ふえんされたことに他ならなかった。


「どうかな。こんな感じだよ」

「うん、大体分かったよ。元より今オレは立っているから、これをスタンディングオベーションとして計上してもらってもいいかな?」

「もちろん。……あ、忘れてた。ご清聴いただき、誠にありがとうございました」

「さながら役者だな。俺もおおよそは理解したからお気遣いなく」


 湿気盛りも遠くないため、些か湿った拍手が響く。ほんの少しだけ汗ばんでいるようにも見える柚生の頬は、陶器のように白く透き通っていた。


 推し量るに明るいが、柚生はひとつの花弁だった。花の銘柄には暗いため推知もできないが、シチュエーションといえば、この高校から少し歩いたところにある、文化財に指定されている城址じょうしだろう。揺蕩う身の振りで、その城堀に張る水の流れるさまを表していたのだろう。

 そしてそこを揺蕩い、いずれ大海にくか、或いは土手に流れ着くか。その大尾たいびは思考の数だけ用意された余白にしたためよと言わんばかりだ。

 指先から体幹に至るまで、彼女の全てはそう言っていた。


「じゃあ、次は部長にお願いしよっかな」

「わ、分かった! ちょっと待っててね、今持ってくるから……」

「久しいなあ、知端さんの絵を見るのはいつぶりだろう。確か春期コンクールで見たのが最後だった筈だから……1ヶ月ぶりくらいかな?」

「……お前にとって、三十一日は久しいのか?」

「夜を数えられるだけ並べられれば、それは悠久と評するに足りていると思うんだよね。心悲しさとはおよそ可算名詞だよ」

「ロマンチストだな。概念上の夜は不可算名詞だろ」

「せんさろ君はリアリストだね」

「千砂郎はニヒリストだなあ」


 好き勝手言ってくれる。俺だって好きで浪漫から目を背けているわけじゃないんだが。しかし、馳せたい時もあるにしろ、色づくことから意図して逃げている節がある分強く否定はできなくて悔しい。

 ただ不満げな空気を捏ねるために表情ひとつで反論をすると、それが面白いとでも言わんばかりに妖しく笑う2人が憎らしい。それほどに面白いか、俺の粗相じみた思考の精一杯は。


 部室最奥の開扉できる本棚に消えていった知端さんが帰ってくる頃にも未だ2人の笑みは消えていなくて、いよいよに俺のへそは曲がってしまった。

 ニッパーでも出されたら矯正する気概ではあるが、それなら同じ斜に構えているお前も捻ってやるからな、えもいえぬしたり顔で微笑みを浮かべる立騎よ。


「み、みんな。目を瞑ってもらってもいいかな……」


 知端さんの合図で俺たちは瞑目めいもくする。

 黒一色に刺さる斜陽は明星みょうじょうを彷彿とさせて如何だが、生憎にも瞼は2層もない。1層増やせばもう少しカラフルから遠ざかれるのかもしれないが、そこまでして分厚くなった瞼を愛せる気もしないので却下だ。

 メイクアップの心得もないのに、これ以上眼差しを細めて堪るか。


 俺たちの目の前では忙しなくイーゼルとカンバスの立てられる音がしていて、目を開けば視界に映る色味が飛躍して増えるのは必至だ。意識下の俺としてはもうどうにでも、と投げっていて仕方ない。

 やあ、今日こんにちはカラフル。いよいよに目を合わせるのだから、先んじて忠告しておくぞ。俺はお前を決して好きにはならない。

 それに俺を俺たらしめるアイデンティティを覚えているわけじゃない。ただ、訳も分からないから本当に目を合わせたくないだ。いいな。


「立騎、せんさろ君、問題です。わたしは今、両手で何の影絵をしているでしょう?」

「オレは弥勒菩薩みろくぼさつと見たね。千砂郎は?」

「……それは、さぞアルカイックな笑みを浮かべているんだろうな。俺ははとだと思うが」

「ざんねん。帝釈天たいしゃくてんだよ」

「あははは! 柚生の作問力には瞠目とうもくだね。目を瞑っているから、少し胡散が臭うだろうけど」

「分かるか。それだとほとんど無限択じゃないか?」


 瞼を下ろしての影絵遊びなんてしたことがない。濃い影が下りているような視界で、ただ一つの影を探すなんて不粋だろうに。砂漠に藻塩ひと粒を落として探して、甲斐があるか?


 ながら、瞼を上げていても視界が明瞭ではないであろう柚生に影絵は難しいのかもしれない。手の形を憶えられれば満足に遊べるだろうが、手印しゅいんのような影に依存しないものを選択肢に入れているのにも整合性がつく。


 その辺りの思考を巡らせていると、知端さんは柔和かつ気弱な一喝を俺たちに浴びせた。


「じゃあみんな、目を開けてもらってもいいかな……?」


 瞼を上げる。

 ……いちばんに入ってきたのは何だろうか。教科書知識だが、俗に囃される印象派というものに類されるのだろうと思われる油絵具の使い方だ。

 左の耳朶みみたぶを自ら削いだフィンセント何某のような味わいが舌に載っては喉へと流れていく。味わいは深く味蕾に根付いて離れない。


 自前の永久歯に衣を着せずに評すると、俺はこれもまた見蕩みとれてしまっていた。


「わあ、あざやかだね。オレンジと青、夕焼けかな」

「……上手いな」

「うん、うん。綺麗だ。やはり知端さんの絵画にはどうしようもなく惹かれるね。厚く塗られた1色1色に基づいたファッションで往来をスキップしたい気分だよ。今日が学ランで黒一色なのが惜しいくらい。そうだ、規則では学ランを着ていれば歯牙にはかけられないんだよね? 知端さん、この絵画を模したように、オレの学ランに筆で色を置いてくれないかな?」

「え、えっと……」

「先輩を困らせるんじゃない。いよいよ視野狭窄しやきょうさくも病的だな」

「この病が膏肓こうこうに入ってこそオレさ。口が動くんだから、しゃべくれるうちはしゃべくりたいんだ」

「ふふ。にぎやかはすきだよ、わたし」

「私も、そんなに嫌じゃないよ……」

「コイツを気軽にまかり通すなよ。喋らせているうちにどんどん熟れていつ弾けるか分からんぞ」

「オレはずっと熟れているさ。事切れるまではずっと、ずっとね」


 妙な説得力を醸す立騎の態度は堂々としていて、平行線を覚える普段使いの会話へと引き戻された感じがする。どこに足を運んでもこの調子なら、俺みたいに怪訝だと思う奴も少なからずいるだろうに、よく広い交友関係を築けるものだ。


 ……いや、その実俺も心底嫌いでも呆れてもいないし、交友関係に計上するのもやぶさかではない。故に、そういう間柄の人で満ちているのだろうか、コイツの交友関係は。

 好感が過半数を占めているから、切り上げて〝好き〟としてまとめているような人に満ちているのであれば、立騎コイツは随分と幸せ者だなと思う。

 まあそれが腑に落ちないこともない。変に饒舌なところを除けば特別不足もない人間だしな。


「タイトルは『路地裏に差す猫又』です……!」

「あ、ほんとだ。猫の尻尾が2本に見えるね。1本はこの子のものだとして、もう1本は何の影なんだろうね?」


 柚生はカンバスを触らないようにできるだけ近づいて、彼女なりに絵を評するために覗き込んでいる。

 知端さんの提示した絵の全貌といえば表題の通り、路地裏に差す夕焼けが1匹の黒猫へと影を作って、その尻尾が自前のものと合わせて半ば重なった2本に見えるというもの。

 油絵具で彩られた重々しくも軽快な色使いには感服のひと言でまとめてしまうが、その出来はどうにも素人のものとは思えなかった。


「室外機とかの管じゃないか?」

「ううん、この画角で配管の影がこの方向にできることはないと思うな」

「これだけ管の多い路地裏だけど、確かに管の向こう側から日が差すことはありえないね。コンクリートの壁を透く陽光なんて聞いたことがないもの」

「何かの紐とかかな?」

「紐か。例え路地裏だとして、誰かが徒に垂らすものでもないと思うが……」


 堂々巡りのような、正しく道程を歩めているような小さい推理が進められる。しかしながら、立騎は少し訝しげな表情を浮かべていた。


「……と、この推理は多分的違いなんだよね、知端さん?」

「……うん。あ、えぇと、間違いとかじゃないんだけどね……?」

「わあ、立騎はかしこいね、分かってたんだ。最後までのってくれると思ってたんだけどなあ」

「……どういうことだ?」


 察しは特別悪いほうだとは思っていなかったが、俺はどうやら今この場では後方にいるらしい。紐のひとつでも誰かの足首に掛けられればいいが、生憎俺は誰かの足を引っ張ってまで最前に躍り出たいわけではない。殊勝も勇気もなければ努めもない。色づくことから逃げているのだ、それは仕方がないもので。


 しかしながら意地はある。というかそういった意地の墜死ついししたものが俺という存在であるのだから、会話に置いていかれるのは些か不愉快だ。誰の足首に縄を掛けようか。まあその日出会ったばかりの人にそうする気は更々さらさらないため、選択肢は立騎一択なのだが。


「……わけを訊いてもいいか?」

さかしい千砂郎だ、この部活の名前を少し噛めば分かるはずだよ」


 ニヤと妖しげに笑う立騎。こういう、悪巧みと懇意にしている、それはそれとして中立中庸の天使みたいな笑みをさせるとコイツの右に出るものは居ない。

 いや、右に出そうな奴は今日この場で出会ってしまったのだが、どうにも今そちらは意地の悪そうな笑みを浮かべてはいないものだから除外するものとする。

 弄ばずに、純粋に俺の回答を待ち望む人間を囃す程に俺は性根が腐っていないんだ。


 それにしても、部活の名前ときたか。小景部という名前であるからして、各々の印象深い小景を何かしらで表現する活動内容であることは柚生と知端さんの発表から受け取れたものの、恐らく3人が俺に問うているのはその本質。


 とすれば、返すべき論はおよそコレか。


「……ああ、えぇと。〝何故そう見えたか〟の分析よりも〝そう見えたから表現した〟という、個人の感性を重んじるような活動内容だから、か? あくまで感じた本人のパフォーマンスが正解。優先すべきは分析よりも感嘆で、他者はその解釈に水を差す権利を持ち合わせていないと」

「うん、せいかい。せんさろ君もかしこいね」


 正鵠せいこくを射れたようで何より。安堵みたいなものがはらの底に落ちたような気はした。変な気苦労は覚える前に対処するのが最善とは思いつつも難しい。


「せんさろ君。小景部ここで扱う表現っていうのはね、切り取った時点で止まっちゃうものばかりなんだ。そこにどれだけの歴史があったとしても、どうしてもひとコマずつしか表現できないの。過去があった、未来がある。分からないものは分からないままで隠して、噛んで味わうのがだいじなの」

「……分からないままでいいとは、随分と驕っているような気もするが?」

「ううん、驕ってないよ。だからこそなの。わたしたち小景部は、過去も未来もぼかされたその刹那を愛するんだ。映像があふれる世の中で、たったの刹那を愛するの」

「……まあ、それは殊勝なことで」

「だからわたしは、あの花弁がどこにいくかはそんなに気にならないんだ。知るよしもない、っていう足りなさを味わってるの。過去も未来も推しはかるだけ。それを決めつけて発表するなんて、それこそ驕ってると思わないかな」


 言われてみれば、過去も未来も想像次第だ。その絵や演技が表現者の見聞きした当時を表しているのは確かで、背景の想像は俺たち、そして本人という観測者の勝手に過ぎないのかもしれない。

 ことこの小景部においては、切り取られた刹那をとりどりに彩ったそれに探究を覚えること自体が失礼に値するのだろう。

 蛇に足が付いていたり、竜に睛が欠けていたり。このごうではそれをおしなべて芸術表現と呼ぶのであれば、尊んで従うべきなんだ。


「……悪かった。分析よりも感嘆を先行させるべきだったな。じゃあ、ここの色味だけど。俺は油絵どころか芸術分野にもとことん明るくないが、正直綺麗だと思った。正しく合っているかは分からないが、ゴッホみたいな味がある。柄にもないが見蕩れた。見蕩れたのは柚生にもそうなんだが、別の方角から彩色に射抜かれた気分だ」

「あ、ありがとう……」

「ありがとう。素直になってくれてうれしいな」

「お、どこまでも斜めで唐変木でアンチアーティストの千砂郎が珍しく表現者を褒めている。こりゃ明日にかけての大雨が必至だね。ともすればシーズンオフながら、ひょうあられだって降るかもしれないから、明日は登校を控えようかな?」

「口をつぐめよ僻心ひがごころ。早々皆勤賞が崩れるぞ」


 それっぽい御託ごたくを並べられた気もしないが、満足げな顔をする知端さんと柚生のお陰で的外れでもないことが分かった。

 意地の悪そうな笑みを浮かべる立騎のすね木槌きづちで叩きたくなるものの、そうできるだけの隙を見せることのないコイツは本当に抜け目のない奴だ。


「じゃあ、これでチュートリアルはおしまい。だいたいの顔立ちは掴めたとは思うから、体験入部の本番はここからだね」

「柚生ちゃん、ちょっと説明が足りないんじゃないかな……」

「オレは大丈夫、心を配る必要はないよ。しかしそれはこの遊佐千砂郎も同じこと。表火おもてび小学校毒皿どくさら同盟の双璧をなすオレたちだから、おもんぱかる間でもないさ。ね、千砂郎?」

「お前は自分にも俺にも天狗になりすぎる節があるな。棚にぶつけてへし折る前に、少しその鼻を縮めてほしいんだが」

「千砂郎、鼻が高いのは現代美的感覚のマストさ。ウソもつかず、メスも入れずに高くできるのなら、それは上々というものじゃないかい?」


 ごとも程々にしろよ、と鼻を掴んでへし折るジェスチャーをした後、俺たちはどちらが先手をとるかの判断を委ねられていることを自覚する。

 しかし、そういうことにノータイムで反応を示すことのできる奴であることは重々理解に足りていたため、俺は元より譲る気であった、そもそも俺に所有権もない席を明け渡す。


「……でも、ごめんね。一応は部長だから、体裁のためにも説明させて……?」

「ああ、ごめんね知端さん。また出過ぎた真似を」

「ううん、いいの。私の勝手だから……」


 知端さんは表題『路地裏に差す猫又』を愛しい我が子のように撫でながら、改まって新参者への手引きを用意してくれる。


「立騎君と千砂郎君に今日してほしいのは、今まででいちばん心に残った景色……ここでは〝小景〟って言葉でまとめるね。その小景を、何かで表現すること。私みたいに絵でもいいし、柚生ちゃんみたいに演技でもいい。何かで、2人の印象に残った小景を、私たちに伝えてほしいの……」

「……説明ありがとうございます。けど、そうか。表現か。改まって言われると難しいな」

「知端さん、分かりやすい説明をどうも有難う。オレはもう装填できていつでも撃ち放てるけれど、千砂郎はどうだい?」

「……暴発すらも起こせない、とでも言っておこうか」


 芸術分野からは目を焼かれるのが嫌でずっと目を背けていたから、俺の視界はモノトーンだった。

 しかし、モノトーンでもカラフルに見える奴や、描画されたカラフルに感動を覚えてしまった自分がいるから、どうにもそれから遁走し続ける日々を是としない誰かが見つめる目線に涼味りょうみが背を伝う。

 やはりそれはカッターシャツに吸われるものの、とめどなく流せばいずれは飽和してしまう。それがどうにもおののすくんでしまって、俺は背で片方の肘を掴むようにして泰然たいぜん自若じじゃくに目を合わせようと必死だ。


 俺には何がある? 何もないだろうに、元より空っぽであった箱を手で探ってみる。それらしい細片さいへん金継かなつぎする業前わざまえなんてこの手に宿ってはいないし、変に喋れば事を欠く。

 失敗を恐れているのか。それとも、彩やかな色味に満ちた人の面前に提示した、白黒なだけのモノトーンにもてなせるだけの重みがないからか。しかしながらそんな空っぽが吐いた創作なんて、瓦石がせきのように大ぶりなほうきで掃かれておしまいだ。


 それだけのために躍起やっきになれるほど、俺は振り切れていない。

 そう思うようにしたほうが楽だろうに。


「せんさろ君、そんなに難しくならないでだいじょうぶ。シンキングタイムはたくさんあるからね。校門が閉め切られるまでは、わたしたちの、せんさろ君の自由だよ」

「……自由、ねぇ……」


 俺は、身の自由のために周囲を不自由と斜めに見ていた人間だ。性格が祟ってか、友人と呼べる人間も菊田立騎という物好きがただ1人だけ。

 俺なりの生きづらさに焦点を合わせてくれ、なんて、まるでカラフルな売れっ子純文作家みたいだから宣わない。

 友人関係も何もかもがモノトーンで、だから褪せる色味もないのに、ただしっかりと褪せている。


「じゃあ、千砂郎はたっぷり時間を使って考えておきなよ。それまでの場は確りとオレが繋いでおくから」

「……心強いな。流石は俺を好く数奇者すうきものだ」

「些か光栄だね。そんなに素直な千砂郎と目を合わせない人がいるらしいことに、オレはつくづく釈然としないものだよ」

「いや、こっちが直ぐに逸らすだけだ。転嫁するのはいただけないな」

「せんさろ君。せんさろ君は見てくれてるし、わたしもちゃんとせんさろ君のこと、ちゃんと見てるよ」

「そうだね、目が合う人は確かに1人増えたんだった。失念していたよ。柚生、失敬したね」


 数奇者とはよく言えたものだ。俺を人の生活に留めてくれている一縷いちるがこの菊田立騎という人間なのだから、救世主メサイアとでも呼称すべきだろうに。

 恩知らずと言われるまでがワンセットであるのなら、それに準じて俺は決してメサイアなんて口にはしないが。


 しかしながらその数奇者は増えてしまった。ありがた迷惑なうまい気苦労が重なるように背に乗ってきた以上、俺にはどう振る舞うべきなのかを今一度考える必要性がある気がしてきていた。


「……まあ、色々思考して錯誤さくごしてみる。立騎、それまで場を繋いでくれると助かる」

「応とも。……いやはや、千砂郎が何かに焦点を合わせているのは、オレも久しく見ていないかもね」

「……まるで斜視しゃしが常だったような言い草だが。俺はそれだけ不気味だったか?」

「まさか。あの千砂郎が何かと目が合うようになったことがひとえに嬉しくて仕方がないだけさ。きっとその何某なにがしも、千砂郎と目が合って嬉しいと思うよ」


 何をするかも決めていないのに、勝手な推知はやめてくれ。


 その返答を皮切りに述べられる立騎の発表を背に、俺は今までは使いもしなかった脳の区画の撥条ぜんまいを引っ掻き回すこととなった。

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