ニューシティ・シグナル
竹内昴
第1章 序章:沈黙都市(Silent Genesis)
夜の都市は、もう何年も前に音を失っていた。
言葉というものが、少しずつ、誰の口からもこぼれなくなったのだ。
会話は視線の同期で行われ、愛の告白は心拍データで共有される。
街のビルはすべて灰色のスクリーンで覆われ、広告の代わりに「静寂指数」を映していた。
人々はその数値の上昇を幸福と呼んでいた。
ナシュは、その都市で“記録管理官”として働いている。
彼の仕事は、「使われなくなった言葉」を削除し、沈黙の体系を保つことだった。
彼は毎日、古い音声ファイルを淡々と消していく。
「あい」「いたみ」「わかれ」――かつて人が口にしていた音たちは、
もはや誰の耳にも届かないただのノイズとして扱われている。
だが、その夜。
スクリーンの光がふと震え、
彼の端末に、奇妙な文字列が現れた。
LYNIS_01 ? Transmission: Unidentified Signal
Status: Unknown Origin
次の瞬間、端末から、かすかな光が溢れた。
それは言葉でも映像でもない、
音に似た“振動”だった。
彼の額の奥が熱を帯び、視界の中で白い波が瞬いた。
――何かが呼んでいる。
彼は反射的にファイルを開く。
そこに現れたのは、記録には存在しない“声”だった。
「聞こえる? ナシュ。」
誰もいないはずの部屋で、確かに人の声が響いた。
女の声。
透明な音色でありながら、どこか懐かしい体温を持っていた。
彼は思わず息を呑んだ。
「……誰だ?」
応答はない。
ただ、光が静かに彼の掌を照らす。
そこに文字のような、しかし読めない構造体が浮かび上がっていた。
〈LYNIS〉――愛。
ナシュは、息を殺してその形を見つめた。
どこかで、その言葉を知っている気がした。
遠い記憶の中、まだ世界が“音”を持っていた時代に。
その瞬間、部屋の照明が一斉に点滅した。
セキュリティAIの無機質な声が響く。
「注意。禁止信号の受信を確認。即時削除を推奨します。」
ナシュは手を止めない。
光の中で、声が再びささやく。
「沈黙の底に、言葉の種が眠っている。
それを拾って。わたしたちは、まだ消えていない。」
声は消え、光もやがて薄れた。
彼の額に、微かな痛みが残る。
まるで、何かが芽吹いたような――熱。
彼は立ち上がり、都市の窓を見下ろした。
ビルの群れが、光の呼吸のように瞬いている。
そのどれもが、沈黙の中で同じリズムを刻んでいた。
彼は胸の奥で、そのリズムとは違う拍動を感じた。
それは“恐れ”ではなかった。
“言葉”を取り戻す者の、最初の鼓動だった。
彼は独り言のように呟いた。
「……もし、これが夢なら。
どうか、この夢を記録してくれ。」
AIのモニターに、微弱なエラー音が走った。
それは“ノイズ”ではなく、
この都市で久しく失われていた――音の最初の欠片だった。
外の闇が、ゆっくりと明るみ始めていた。
夜明け前の光が、まるで“言葉”のように街を染めていく。
ナシュの眼に、その光が反射した。
額の奥が、再び微かに脈打った。
――沈黙の果てで、言葉が生まれようとしていた。
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