星読み探偵アイリス~月香喫茶ルナリウム外伝~

海原

プロローグ 消失の夢

夜の帳が最も深く、静けさの中で木々が月香喫茶ルナリウムを包み込む時間。


アイリスはカウンターの奥で、肘をついたまま浅い微睡みの中にいた。

真夜中過ぎは客足が途絶えがちで、いつの間にか夢に引き込まれてしまったのだ。

温かいココアの残り香と、古書の革の匂いだけが漂う、いつもの安息の場。


だが、夢の中の静けさは、すぐに破られた。


彼女は自分が無限に広がる夜空の中にいるのを感じていた。


最初に異変が起きたのは、遠い銀河の星だった。

その輝きが、まるで遠隔操作されたかのように、一斉に、それでいて緩やかに、一つ、また一つと明滅を止めていく。


やがて視線は上空へと引き上げられた。天を埋め尽くす星々もまた、地上に呼応するように輝きを失い始めていた。


最初は遠い銀河の星。次に明るい一等星。


カシオペヤのM字が崩れ、オリオンの三ツ星が消える。

ひしゃくの形を描く北斗七星の線が、まるで誰かに描かれたチョークの線が拭い取られるように、輪郭を失っていく。


「だめ……」


声を上げようにも、喉からは息しか出ない。

この光が消えるたび、アイリスの魂の一部が引き剥がされるような痛みが走った。

それは、単なる光の消失ではない。

文明が築き、神々が刻み、人々が愛した物語そのものの消滅だった。


星々の最後の叫び、すなわち喪失と悲しみや怒りといった、様々なネガティブな感情が津波のようにアイリスの胸へ流れ込み、彼女の意識を掻き乱した。


完全な闇。


宇宙の始まりにも終わりの後にもない、無機質で、感情を持たない虚無が全体を覆い尽くした。

そこに光はなく、音もなく、愛も希望もない。


彼女は、自分が孤独な虚無の海に独り浮いているのを感じた。


「ああ……」と、アイリスが声を漏らした瞬間、彼女の足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚に襲われた。


アイリスは激しい動悸と共に、ハッとカウンターで跳び起きた。

額には冷や汗が滲んでいる。


胸を押すと、心臓はまだ夢の恐怖を引きずり、激しく脈打っていた。

時計を見れば、まだ真夜中。

スピーカーから流れる穏やかな環境音楽アンビエントだけが、現実であることを教えてくれる。


しかし、胸騒ぎが止まらない。


コーヒーの香ばしさも、ランプの暖かさも、すべてが薄い膜の外にあるように感じられた。


アイリスは震える手でコートを掴むと、勢いよく扉を開け、ルナリウムの前の石畳に飛び出した。


夜の冷たい空気が肌を打つ。


街の灯りは、いつものように煌々と灯っている。問題はない。


(そうよね。ただの夢…)


アイリスは安堵しかけたが、すぐに息を飲んだ。


彼女の視線が、天を覆う夜空へと向けられた瞬間——


そこにあったのは、言葉を失うほどの、異様な空虚さだった。


街の明かりは輝いている。

だが、その光の向こう側、夜空には無数の星が瞬いているにもかかわらず、星座を形作る主だった星々だけが、忽然と姿を消していた。


まるで巨大な手によって、馴染みの顔を構成する目や鼻だけが消し去られたかのように、いつもの星空が不自然に欠けていた。


神話の時代から、人々の道標であり続けた天の地図が、一夜にして白紙に戻されたのだ。


アイリスは全身の震えを堪え、その異常事態にただ立ち尽くすしかなかった。

すべては、ここから始まった。

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