20Hzを、彼方まで
draw_bayday
プロローグ
音が、消える。
世界から、ひとつずつ。
歓声が遠のき、鼓動が静まり、
最後に残るのは、自分の中の“響き”だけ。
その静寂の中で、僕は一人、空を見ていた。
孤独は、音がないことじゃない。
誰にも“聴かれない”ことなんだ。
けれど——
この夜のあと、僕は「音のない世界で生きる人」と出会う。
その人は、僕よりずっと澄んだ音を聴いていた。
***
開演を告げるアナウンスが流れる前から、ライブ会場はすでに熱を帯びていた。
何時間も前から並んでいたファンたちが、ようやく手にしたグッズを掲げて笑い合う。
「来たよ!」
「今日が初参戦!」
そんな言葉が飛び交い、会場前の広場では【20Hz】のロゴ入り看板の前で、誰もが記念写真を撮っていた。
SNSでは
〈#20Hz_東京ドーム〉
〈#鯨の声が聴ける日〉
といったタグが次々とトレンド入りしていく。
高揚。期待。
それらが一つの波になって、まだ暗い客席の奥まで押し寄せていた。
やがて、照明が一度だけ落ちる。
歓声が、息を飲むように止まった。
そして次の瞬間——
ステージ中央に、一筋のスポットライトが落ちた。
そこに立っていたのは、ボーカル・佐藤
静寂が弾ける。
歓声が爆ぜる。
それは、祈りにも似た熱狂だった。
音楽は時にカルトのような狂気を孕む。
その狂気の渦の中心に、彼等はいた。
伊藤
鈴木
バックに控えたストリングスが重なり、
音が音を抱きしめるように、ひとつの旋律を形づくっていく。
【20Hz】——音の深層を意味するその名の通り、
目には見えない振動が、観客の心臓を確かに揺らしていた。
鯨はマイクを両手で握りしめ、まるで祈るように歌う。
その声は透き通るように伸び、どこまでも正確だった。
震えも、掠れもない。
完璧だった。
だが、その笑顔の奥では、何かが静かに壊れていく。
いつも隣には君がいて
僕らは孤独を知らない
その一節を歌った瞬間、鯨はほんのわずかに笑った。
自嘲にも似た微笑み。
(僕は、とんだ大嘘つきだ)
そう思った直後、視界が揺らいだ。
スポットライトの白が、爆ぜるように弾けた。
――頭が、痛い。
――立てない。
マイクが手から滑り落ち、床にぶつかる。
甲高いハウリングの音が、まるで悲鳴のように響いた。
観客のざわめきが遠のく。
音が、すうっと引いていく。
鯨はその中心で、世界が静かになっていくのを感じた。
音が、ない。
自分の声も、楽器の音も、歓声も。
すべてが、消えた。
(どうして……?)
息を吸おうとする。吸えない。
喉が塞がり、肺が空気を拒む。
呼吸ができない。
酸素のない海の底に沈んでいくような感覚だけがあった。
瞬きをする。
世界が、裏返る。
もう一度瞬く。
視界の端に、翔と秀馬の顔。
何か叫んでいる。でも、聞こえない。
また瞬く。
——闇が、すべてを呑み込んだ。
静寂。
光が落ちる音も、観客の悲鳴も、遠い。
その日、人気バンド【20Hz】はライブ中止を発表し、
同時に無期限の活動休止を告げた。
そして、鯨の声はその夜を境に、世界から消えた。
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