音圧に殺されたい
@omurice_a
音圧に殺されたい
第1話死にたがりの少女
音圧に殺されたいと願ったのは、高校一年生の、夏の終りのことだった。
ガヤガヤとうるさい教室。先程の授業の時まではみんな大人しく席に座っていい子ちゃんを演じていたのに、休み時間になった途端これだ。秩序なんてものはない。
机に腰をかける女子生徒、下品な笑い声を上げる男子生徒、廊下に群がる男女まぜこぜのグループ。
東京で生まれ育ったはずなのに、こういう騒がしさに混じる術を結局覚えられなかった。
机に突っ伏して寝たふりをしながら、腕の中で彼らに軽蔑の眼差しを向ける。こんなふうにこそこそと自身を主張するしかない私こそ、本当に軽蔑されるべき人間だということには目を瞑って。
「三限始めるぞー、ほら早く席に着けー」
ガラガラ、という教室のドアが開く音と同時に、数学担当の先生の声が教室に響く。先ほどまでの騒がしさは、ほんの数秒だけ継続した後、徐々に静まり出し、代わりに皆が椅子を引いて座る音が響き渡る。先程の無秩序な人々の声ではない、秩序的な音に安心し、顔を上げた。
「それじゃあ課題を集めていくぞー、後ろのやつからプリント回せー」
名簿を見ながら、抑揚のない声で話す先生の言葉に従い、皆先日配られた課題用のプリントを渡していった。
課題をひとしきり回収し終わった後に、先生が名前を呼んでいく。
「愛内隆史、相川優、青井和真……」
名前を呼ばれた人が順番に挨拶をしていく。みんな、顔を見ればクラスにいる人だと認識こそできるが、名前までは出てこない。覚える気もない。覚えたところで、みんなは私のことなんて気にもしないだろうから。
「
「あ、はい」
淡白な声で呼ばれる名前に、淡白に反応する。いつも通りの、このたった数秒のつまらないやり取りは、五分後にはみんなの記憶から消えていくことだろう。
いつも通りのカリキュラム、いつも通りのクラスメイト、いつも通り、ひとりぼっちの私。なんの変わりもない、つまらない、ただの日常。つい三ヶ月前までは、カリキュラムも、クラスも、担任も初めましてですごく緊張してた。なのに、いつの間にかそれはもう、いつも通りという日常の一コマになってしまった。
まるで同じ一日の繰り返しのように、何度も、何度も訪れる毎日に、変化を望んだ。しかし、変化が訪れてもきっと私は順応できなくて、その変化に嫌悪感を抱くだろう。たとえ順応できたとしても、その変化すらまたいつも通りの一部になるとしたら、そんな変化を望むだけ不毛だ。やっぱりこのままでいいと思った。
そのいつも通りが十数回繰り返された頃、クラスはすっかり夏休み前の浮かれムードになっていた。昼食を食べ終わって暇になった私は、いつも通り寝たふりをして周囲を遮断する。中学時代にも思っていたことだが、この時期はいつにも増してみんな騒がしい。夏休みの計画を立てて盛り上がったり、宿題の面倒臭さを嘆いていたり。そんな正負全ての感情が入り混じった空間は、私にとって情報量が異常に多く、吐き気すら覚えてしまう。
気を紛らわせるために、イヤホンを耳に装着し、スマホにコードを挿してお気に入りの音楽を流す。こうして音楽を聴いている時だけは、周りの喧騒が遠くに追いやられて、自分の好きな世界だけに没頭できる。この時だけは、心がとても軽くなるんだ。
何曲かお気に入りの曲を聴き終わった頃には、五限の予鈴が鳴りだし、徐々にクラスメイトの声が小さくなっていく。一応イヤホンは外しておいて、五限の国語の教科書と、先日渡された課題を机の上に置いておき、また寝たふりをして時間を潰す。
それから五分後、今日の五限を担当する国語の先生が教室に入ってきて、また何の変哲もない一時間を過ごす。間延びした先生の口調に瞼が重くなりそうだったが、必死に我慢をして耐え抜いた。成績に影響をしていなければいいけれど。
六限はロングホームルームで、クラスメイトたちは休み時間からずっとソワソワしていた。それもそうだ。この授業が終われば、待ちに待った夏休みなのだから。海に、花火大会に、家族旅行……各々が楽しい夏休みの想像をする中、私はただ毎日を寝て過ごすだけの夏休みを想像していた。何の夢もないが、予定を立てて合う関係性の人がいないのだから、仕方がない。我ながら退屈過ぎる日々に呆れて、あくびが溢れた。
「それじゃあロングホームルーム始めるから、席につきなさい」
淡々と言い放ちながらドアを開けて入ってくる担任に顔を向ける。夏休み前で浮かれている生徒たちの気を引き締めるためか、いつもより少し表情が堅い。
「えー、まず夏休みのしおりを配るから、みんなそれを見てきちんと話を聞くように」
そう言いながら先生は各列に人数分のしおりを配っていく。小学生の時からほとんど変わらない、数枚のコピー用紙で構成された、小さな冊子だ。
内容もほとんど変わらない。交通事故には気をつけること、規則正しい生活を送ること、犯罪は犯さないこと。何の捻りもない、いつも通りの内容だ。いい加減聞き飽きたその内容に、またあくびが溢れそうになるが、なるべく噛み殺す。あくびぐらい、大丈夫だとは思うけれど、無駄に先生の目につくような行動を取る理由もない。私は、なるべく静かに生活を送れればそれでいいのだから。
「それじゃ、これでロングホームルームを終わりにします。みなさん、夏休みを満喫してください。」
夏休み前最後の号令が終わるなり、みんないつもの数倍の速さで荷物を背負い教室を飛び出していく。私も早く家に帰って寝たいので、少し急ぎめに荷物をまとめて帰路についた。
帰り道を歩く途中も、イヤホンで音楽を聴く。明るく励ましてくれるような、優しいポップスは、ひとりぼっちの私の心に沁みる。音楽だけは、私のことを受け入れてくれる。学校では一人ぼっちでも、大好きな音楽さえあれば、私は十分だ。
しばらく夢中になって音楽を聴いていると、目の前から自転車が走ってきた。慌てて脇に避けたら、すぐ真横の茂みに頭がぶつかった。幸い特に怪我もなく、虫もついていなかったので、髪についた葉っぱを軽く払って、再び歩き出した。
「わ!?」
何も気にせず少し歩くと、何かに引っ張られたように足を無理やり止められ、耳につけていたイヤホンが抜けた。振り返ると、イヤホンのコードが茂みの枝に引っかかっていた。どうやらスマホに近い方が引っかかっていて、視界には入っていなかったらしい。複雑に絡まってもいなかったので、サッと回収をした。
気を取り直して耳にイヤホンを入れ直し、音楽を聴こうとした。
「あれ、なんか変だな……」
音楽にひどいノイズが混じったように感じた。音楽を流しているアプリを再起動してみても変わらない。
「さっきのでイヤホンが壊れたのかな……」
小学三年生の時、好きなCDを聴くために誕生日プレゼントで親に買ってもらって、かれこれ六年以上使っている代物だ。ただでさえ寿命を大きくすぎて、茂みに引っかかって線にダメージが行けば、壊れてもおかしくない。
「えぇ……どうしよう、イヤホンこれしか持ってないのに」
イヤホンに限らず私物の保管には一層気を使っていた。あまり親にお金をかけさせたくなかったから。自分にお金をかけてもらうほどの価値はないと思っているから。イヤホンも、これまで一切ノイズがなかったわけではなくとも、音楽を聴くのに大きな支障はなかったので、なるべく状態を保てるよう大事に保管していた。
「でもこのノイズじゃ、流石に使い続けられないな……」
まぁ長く持った方だろう。そう自分を納得させて、切り替えることにした。
「ただいまぁ」
家のドアを開け、靴を脱ぎながら、気の抜けた声色で帰宅した旨を伝える。
「おかえり」
優しい母の声がキッチンの方から聞こえる。今日の夕飯はなんだろうか、なんて、図々しくも子供らしいことを考えながら、母がいるであろうキッチンに歩を進める。
「お母さん、あのね……帰り道で茂みに突っ込んじゃって、その、イヤホン壊れちゃって……」
少しのためらいを言葉と声に混ぜながら、イヤホンが壊れたことを母に伝えつつ、くだんのイヤホンを母に見せてみた。使い古したせいか色は褪せて、線は傷だらけだった。母は、ただ静かに私の話を聞いていた。
「そっか、もうあれあげてから六年は経っているわよね、それじゃあまた新しいの買ってあげるね」
ほっと胸を撫で下ろした。別にうちの母は特別厳しい人じゃない。でも、なんとなく、もらったものを壊したと言うのは、少し後ろめたい気持ちがあった。
「ほら、お夕飯もうすぐできるから、手洗ってテーブル拭いて」
「あ、うん。今日の夕飯は何?」
「今日はカレーよ。福神漬け冷蔵庫にあるから、テーブル拭いたらそれも出して」
「わかった」
母に言われた通り、手を洗い、テーブルの上を片付けて、布巾で軽く拭く。ある程度拭けたら布巾は洗濯カゴに入れて、冷蔵庫から福神漬けを取り出し、テーブルの真ん中に置いておく。
「はい、ありがとう。お父さん帰り遅くなるみたいだから、先に食べちゃおう」
「うん」
浅く広い皿にカレーとご飯を盛り付けて、ダイニングテーブルの上に置く。母もそれに続いて私の向かいに自分のカレーを持ってきた。
「いただきます」
一口カレーを運ぶと、ピリッとスパイスが舌を刺激する。
カチャカチャと食器同士が衝突する音に、コップの中の水が喉を通る音。そして、テレビの中で話すタレントさんの笑い声。全部が暖かくて、でもどこか、遠くに感じる。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様」
いつも通りの食後のやりとりを母と済ませ、食器を持ってシンクに運ぶ。水に浸けて、皿にこびりついたカレーが浮くまでしばらく待つ。
「そういえば、今日から夏休みだっけ?」
「うん、そうだよ」
「冷蔵庫にお肉とか野菜もあるから、ご飯は自分でなんとかしてね」
「わかった」
「欲しい食材とか足りない調味料とかあったら言ってね、買い足しておくから」
「うん、ありがとう」
親だから普通のことなのかもしれないけれど、世話焼きな母だとつくづく感じる。不満があるわけではない。むしろ感謝すらしているけれど、自分がその厚意を受け取ってもいい器だとは思えない。母からの優しい言葉には、短い言葉で返事をした。
それから約一ヶ月が経過した。カレンダーは八月二十四日を示していて、ツクツクボウシが夏の終わりを告げている。まだ少し暑いとはいえ、数週間前の猛暑よりはすっかりマシになった気温。それでも贅沢に扇風機の風を浴びながら、アイスを頬張る。夏休み中にやるようにと出された課題はすでに全部終わっているし、これからやることといったら夏休みがあけるまで時間を浪費することぐらいだ。まぁ、一日横になるのもいい加減飽きたし、読書ぐらいはしよう。そう思い、いつだか本屋で買うだけ買って読み逃した小説を手に取った。
BGM程度にお気に入りの音楽をスピーカーで流す。こうやって誰にも邪魔されない環境で本の世界に浸れる時間はとても貴重だ。夏休みが明けたらまたしばらくあの喧騒に悩まされるのだから、今ぐらいはストレスフリーに過ごしたい。
結局その日は朝から小説に読み耽って、ご飯の時以外はずっと部屋にこもりっきりでページをめくっていた。
「ただいまー」
母の声が玄関から聞こえる。キリのいいところまで読み進めて、階段を駆け下り、母を迎えた。
「おかえり、ご飯できてるよ。私はもう食べたから、お風呂入ってくる」
「はーい、いってらっしゃい」
母のその声を背中で聞きながら、風呂場に向かう。すでに脱衣所に用意した衣服とタオルを確認し、侵入されないようにドアの鍵をかける。
「……ふう」
大して何かをしたわけでもない、すごく頑張ったわけでもない。ただ、やはり生きると言うのは疲れるもので、体と髪を洗って湯船に浸かるなりため息が溢れた。
無意味に天井を見つめる。虫も、シミも、何もない、白基調のタイルが目の前に広がっている。そこに向かって立ち昇る湯気が、私の魂のかけらだったらと、何度望んだことだろう。
「死にたいな……」
軽やかに昇っていく湯気や私の吐く息とは対照的に、ドロドロとした、水底まで沈んでしまいそうなほど重たい願いが、口からこぼれた。
一時間ほど経った頃だろうか。だんだん暑い空気がこもってきた。換気扇は動かしているけれど、それだけでは賄いきれないぐらい息苦しい空気に包まれる。頭がぼーっとして、何も考えられない。どう考えてものぼせているこの状況で、私はただ、安心していた。
私は、自殺志願者だ。ずっと死にたかった。クラスの人とも打ち解けられなくて、親には迷惑ばかりかけていて、長所なんてまるでない、そんなゴミみたいな人間だ。それでいて、実際に死ぬ勇気もない、救いようのないクズだ。
鼻血が出そうになったところで、湯船から上がり、体を拭いて、髪を乾かした。
私は、自殺志願者だ。ずっと死にたかった。でも、死ぬのが怖かった。だから、こうやって風呂場でのぼせたり、一日中横になって脳や体が腐る感覚を味わって、死んだ気になっていた。それだけでも、十分心が軽くなったから。
パジャマに着替えて、寝室へと向かう。椅子に座ってしばらく本を読んでから、布団を被り、眠りにつく。一日を終えたという安心感と、疲労感と、何もしなかったと言う虚無感に包まれながら、意識を闇の中に落としていった。
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