『想い出屋 ― 恋を手放す場所 ―』
鈑金屋
──朝焼けの色は知っている
朝焼けに染まる駅のホームを見ていたら、不意に思い出した。
彼女の横顔だった。
きっちり結い上げた髪と、きつめの眼差しと、そのくせ時々ふっと笑う唇の形と。
そのまま吸い寄せられるように、路地を歩いていた。
気づけばそこに、小さな店があった。
風鈴がひとつ、涼やかな音を立てて揺れている。
「……いらっしゃいませ」
出迎えたのは、和服姿の少女だった。
年齢不詳のその少女は、わたしのようなスーツ姿の社会人にもまったく動じないまなざしで、奥の席を指し示した。
「淡い恋心、ですね」
まるで、もうわかっているように。
*
入社してすぐの頃のこと。
わたしは仕事も要領も悪くて、よく怒鳴られていた。
そしていつも、怒るのはあの人――総務部の“お局”と呼ばれている女性だった。
高圧的で冷たい。
なのに、やけに視線を感じる人だった。
それが変わったのは、あるとき同じ部署の先輩がこっそり言ってくれた一言。
「高坂さん、あんたの研修資料作るのに残業してたらしいよ。
あの人なりに気にしてんのよ。言い方が昭和なだけ」
――それを聞いて、わたしはひと晩中眠れなかった。
あの人の厳しさが、わたしの成長を願ってのものだと知って、
わたしの心は、もう自分のものじゃなくなってしまった。
次第に、彼女の声に震えて、笑顔に安堵して、姿に目が離せなくなった。
「……気づいたんです。
会議室のガラスに、映ってたんですよね。
あの人が電話してる時の顔。
……柔らかくて、あったかくて。
わたしには、見せたことない顔でした」
同じ会社の女性。
たぶん、付き合ってるんだと思う。
昼休みにだけ一緒に消える人。
あの笑顔は、わたしの知らない世界に向けられている。
最初から、入る余地なんて、なかった。
でも、それでも――
あの人を、好きだった。
あの人の、背中の美しさを知っている。
あの人の声に、何度も救われてきた。
だから、ちゃんと、終わりにしようと思った。
*
和装の少女は、黙って湯を注ぎ、お茶を温め直していた。
香ばしい香りが、すっと胸をゆるめる。
「冷めた想いは、苦いだけ。でも、最後にひと口、あたため直して味わうと、案外やさしくなっているものです」
そう言って、湯呑みを差し出した。
わたしは、それを受け取って、一口含んだ。
あたたかかった。
でも、それだけじゃない。
わたしの中で、確かに何かがほどけた気がした。
さよならを、許せた気がした。
「……ふふ。少しだけ、すっきりしました」
「よかった。では、お代をお渡ししますね」
「え……?」
「“小さな幸せ”です。
あなたの明日の朝が、少しだけ優しいものになるかもしれません。
もしかすると、新しい恋の気配に気づくかもしれません。
そういった、形のない“贈り物”です」
「……ふふ。変わったお店ですね」
「よく言われます」
*
帰り道、空が少しだけ白んでいた。
駅へ向かう道すがら、すれ違った女の子が、ふとわたしに微笑みかけた。
見知らぬ子だったけれど、その笑顔に胸が少しだけ、温かくなった。
ああ、これが――
“お代”ってやつ、なのかもしれない。
*
想い出屋の棚には、ひとつの瓶が増えていた。
淡い紫にきらめく、小さな瓶。
それは、誰にも知られることのなかった、大人の恋の欠片。
和装の少女は、それを大切そうに指先でなぞった。
「……恋を終わらせる人は、皆、綺麗ね」
瓶の光が、そっとゆらめいた。
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