第4章 美少女と練習

紫苑の創作邂逅

 ――――小説家になりたい、そう思ったのがいつだったかなんて、とうに忘れた。



 気付けばいくつもの文章を書いていて、何百人ものキャラクターを描写していて……それが、当たり前の日常だった。かつて私を魅了した物語を、私も同じように書いている。たとえ幾度否定されようと、私の軸は、芯は、一ミリもブレやしなかった。どこにもない私だけの物語を、想像し創造することこそが尊くて――――だから、白状してしまえば。




 編集者、という寄生虫が、私は、吐き気を催すほどに嫌いだった。




 だってそうだろう。――――滝沢馬琴の台頭以降、文学の本質は隅に追いやられ、金の成る樹として多くの虫が集るようになった。言えば、喚けば、愚痴れば、零せば、自分の思う通りに現実が変わると信じて止まない愚物に媚びて、目先の利益に作家の矜持を焚べる恥知らず共。出版社とか、編集者とか、そんな金儲けのための機構は、才ある者の努力を陵辱するしか能のない汚泥でできている。そう、信じて止まなかった。




 作家の本質は、だ。




 文字という、万人に分かる平易な形に押し込めなければ通じないほど、奇々怪々な作家のエゴイズム……盲目で、蒙昧で、怠慢な読者へと叩きつける。分からせる。貴様らの犯してきた傑物の、出来の違いを。桁の違いを。格の違いを。



 それが、作家の矜持だ。譲れはしない柱だ。揺らぐことのない芯であり真髄だ。魂だ。




 ――――――――そう、思っていた、のに。







「魔女の娘の、この台詞……ここから、ここまで、カット、しましょう。ナレーションで、十分、察せられます……代わりに、こっちの地の文……こう、変えて、入れ込みましょう」






 ……櫛野灰里から条件をもぎ取り、甘茶が奮起してから、一夜明けて。




 家で印刷してきた原稿に、次々と赤ペンが入っていく。余白の多いA4用紙から台詞が次々削除されたかと思えば、ほんの少し変えたものが横に書き添えられ、地の文にはいくつもの括弧が書かれては交錯する矢印で移動を示唆される。



 手を動かしているのは、向かいに座る甘茶だ。だが。



 コピー用紙を睨むかのような目力で見つめながら、甘茶に指示を飛ばしているのは……にのまえ、久呂恵だった。




「……ちょっと、ここの台詞は長過ぎるのです。ひとりがずっと喋りっ放しだと――」



「世界観、を、魔女の娘……謂わば、被害者側、から、説明する、シーンです。だから……自覚のない加害者、女勇者は、聴いていて、嫌な気分な、はず、です。……ここと、ここの間、一瞬、舌打ち、入れられます、か?」



「っ……舌打ちのタイミングは、実際に練習の中で探っていけば、或いは――――紫苑ちゃん、かなり大きな変更なのですけど、大丈夫、ですか?」



「……………………」



「っ……紫苑、さん……?」




 ――――繰り返す。何度でも。私は、編集者という寄生虫が嫌いだ。




 ましてや、知識も知見も智慧もないのに、編集者気取りで好き勝手に作品を非難する、怠惰な愚物共など言語道断だ――――あの、文芸部の虫共のような。




 私の作品は、私という自我エゴを、十六夜紫苑という人間を表すものだ。




 それを改変されるなど、人間性を壊されるに等しい。脳味噌をぐちゃぐちゃに攪拌され、魂魄に溝色の絵の具を注がれるに等しい屈辱だ。その強要にうんざりして、私は、奴らからの追放宣言を受け容れた。




 ……翻って、こいつはどうだ?




 一久呂恵は今、私の作品に赤線を引きまくり、好き勝手に改変しようと迫っている。キャラクターの台詞を、地の文でのリズムを、世界観を、変えようとしている。……そこだけ抜き出せば、あの汚泥共と同じだ。――――なのに。




 何故、私はその恥辱を、陵辱を、無抵抗に受け容れている?




 そうしてもいいと、この、不安げに見下ろしてくる気弱な後輩に、言ってやろうという気になっている?




「っ……あ、あの、し、紫苑、さん……っ? お、怒って、ます……?」



「…………そう、だな。否定はしない」



「ぴぅっ……あ、あのでも、じょ、上演時間とか考えると……その、ま、まだ、台詞とか、少し……て、展開も、少し、端折るかも……っ、ご、ごめんなさ――」



「――――はっ。殊勝だな、自分から触れやすい高さへ降りてくるとは」




 言い訳はしておく。私は、こういう類の仕種に慣れていない。



 だから、腰を折って下げられた久呂恵の頭へと乗せた手が、冷たかろうが硬かろうが、力加減が間違っていようが、文句は生憎、受け付けられない。




 ……他人の髪の毛の感触に、こそばゆさに、私は、慣れていないのだから。




「っ……、紫苑、さん……?」



「……いちいち、私の顔色を窺うな。時間が勿体ないだろうが」




 静かな部室ではやけに大きく聞こえる時計の音は、言い訳にぴったりだった。



 新入生歓迎会の本番は、来週の水曜日。地元の公民館を兼ねている集会所は、甘茶が生徒会に頭を下げても、使えるのは当日までに3回だけで、その貴重な1回目が明日の金曜日だ。つまり今日中に、台本は最低限、形にしなくてはならない。



 一久呂恵の演出家、そして編集としての才覚があれば。



 十分間に合うだろう――――作者からの、余計な横槍がなければ。




「貴様の案なら、よほどの無理筋でない限りは呑んでやる。どうしても気に喰わない箇所があった時だけ、分かるほど不機嫌に咳払いでもしてみせるさ。……基本、貴様に任せるとするよ。



「っ……!」




 あぁ、顔を上げられてしまっては、手が届かない。……なにを驚いているんだか。最初から言っているだろうが。元々私は門外漢だ。紙の上でキャラクターが躍る図ならいくらでも浮かぶが、舞台の上で、生身の人間が演じる図なんて、涸れ井戸の如く湧いてこない。



 なにより……久呂恵なら、いい。私のことを、任せられる。



 この娘がしていることは、楽しむことにすら怠惰になった消費者共への媚びとは違う。作品作品のまま、如何に観客へと正確に、一切の誤謬なく伝えるか――――惰眠に溺れる愚物の心をも、震わせるようにと改変……いや、改善、しているのだ。




 分かるさ。心血を注いだ自分の作品だ。少しでも歪められていれば即座に気付く。




 逐一確認を、許可を取るのもそう。久呂恵の改変にはまず、作者へのリスペクトという前提が組み込まれている。



 それが、この1時間足らずで痛いほど、理解できたから。




 任せる。託す。久呂恵という編集を、私は……信頼、する。




「……ありがとう、ございます、紫苑さん。――――甘茶ちゃん、次の場面、ですけど……ここ、後の台詞と、内容、被っています。一旦、保留して……口に出した時、の、リズム次第に、しましょう……え、と、次――」



「い、急ぐのはいいですけど、焦らなくていい、ですよ。……一旦、休憩にするのです。久呂恵ちゃん、ポットにお水注いできてもらっていいですか?」



「ぇっ、ぁ……、……そう、ですね。分かり、ました。えとっ、ちょっと、待ってて、ください……っぁぅっ――」




 ……散乱した小道具に蹴躓いて、転びそうになるのを冷や冷やした調子で見守る。体勢を崩すだけで済んだ久呂恵は、入り口近くの電気ポットを持ち上げて、相変わらず足音もなしに部室から出ていった。



 床を散らかすばかりのあの双子には、後で苦言を呈しておくとして。




「……なんの心算だ、甘茶。わざわざ久呂恵を追い出して……」



「――――なにか、いいことでもあったですか? 紫苑ちゃん」




 ……椅子の座面に膝立ちになって、上半身をこちらへ倒してきて。



 甘茶は、にたぁ、と砂糖菓子のようにべたついた笑みで、わざとらしく訊ねてきた。




「随分、嬉しそうなのです。こんなに嬉しそうなの、2月に新人賞の最終選考一歩手前まで残っていた時以来なのです」



「……よく憶えている。……仮に嬉々とすべきことがあったとして、それで、何故貴様まで喜色満面でにやけている。一刻の猶予もない事実には、微塵たりとも変わりはないぞ?」



「紫苑ちゃんは、甘茶が一番苦しかった時、傍にいてくれた人ですから」



「っ、…………」



「紫苑ちゃんが嬉しいと、甘茶も嬉しいのです。パブロフの犬みたいなものなのです。……ありがとうなのは勿論、なのですけど……よかった、ですね。紫苑ちゃんが連れてきたのが、久呂恵ちゃんで」



「……差し詰め、縁奇縁、といったところか……はっ。安い同情も、たまには役に立つものだな」




 ――――私は、この栗色巨乳のドチビほど、羞恥心が死んではいない。



 だから、言ってなんかやらない。口になんかしない。……どうせ、伝わってしまうのだと、信じているから。




 久呂恵なら、観客へ媚びるための改悪はしない。姑息で不本意で無秩序な、作者への陵辱には手を出さない。それを押し留めるだけの崇敬が、あの娘にはある。



 真摯に作品と向き合って、根本に横たわるテーマに聊かの瑕疵すら与えない……そう、信頼できる人間になら。



 作品自分調教さ変えられても、構わない――――寧ろどこか、心地いいとさえ思う。



 ……舞台に立たない私にできることなんて、高が知れている。この居場所を守るためにやれることなんて、所詮が原作の提供程度だ。だが。



 あの編集者が、演出家が、脚本家が作る台本は。



 必ず、いいものになる――――それを元にしたのなら、劇だってきっといい出来になる。



 私は門外漢で、演劇なんて興味もなくて、良し悪しすら分からないけど。




 不思議なことに、それだけはどうしようもなく確信できて、くつくつ、笑うのを抑えられなかった。

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