九重甘茶は忘れられない
本当に大事なものは目に見えないらしいですけど……それはきっと、直視するにはあまりにも、眩し過ぎるからじゃないでしょうか。
眩くて、輝かしくて、眼も脳も焼くくらいに光輝で――――だから。
星の如き輝きの周囲になにがあるかなんて、もっと、見えないと思うのです。
「は、ぁ…………」
部室棟1階の、隅っこに設けられた、演劇部の部室。
一般教室よりはやや狭い稽古場の、すぐ横。背景素材や小道具なんかが乱雑に放られ、心ばかりのテーブルと椅子とが打ち捨てられたように置いてある、打ち合わせ用のスペース。
狭苦しいはずのこの場所ですら、今の甘茶には酷く、酷く広く、感じられるのです。
お行儀悪く、テーブルの上で寝転がっています。……スカートへの配慮がまるでないのですが、どうせ、誰もいないこの部屋で、下着がどうこう考えても仕方ないのですから…………だから。
物理的にも心情的にも、重くて仕方ないこの胸を。
不器用に蠕動させて、下手くそな溜息を吐き出すくらいは……許して、ほしいのです。
「…………はぁ……ぁ」
じっと、手を見ます。折り曲げた膝がもう少しで見えそうです。……小さい、小さい、まるで小学生みたいな矮躯。とても高校二年生とは思えないのです。
きっと幸薄いのだろう手相までくっきり見えるくらい、部屋は明るいのです。背後の窓から、段々橙色になりつつある陽光が差し込んでくるから――――でも。
去年の今頃は……ううん、秋が終わりを見せてくる頃までは。
この場所はもっと、なにもしなくても、明るかったのです。
……逆に言えば。
あったのは、明るさ、賑やかさ……それだけ、でしたけど。
――『九重甘茶。君を、次期部長に指名したい。現部長、百瀬黄羅星からの提案だ』
……あの頃、この部室はいつもいつでも、人で溢れていました。放課後でも、昼休みでも、夏休みでだって、いつもいつも――――その中心に、いつもあの人がいました。名前の通り、一番星みたいに光り輝き、みんなを惹きつけて止まなかったあの人が。
百瀬黄羅星、先輩、が。
……だから最初、甘茶はその言葉を、冗談だと疑ったのです。
黄羅星先輩というエースがいながら……甘茶たち継承高校演劇部は、大会を地区予選で終えてしまいました。それも1回戦惨敗。……先輩も同級生も、それについてなんら気にすることはなく、残された夏休みを部室でへらへらと楽しんでいました。
その、賑々しい声の所為でしょうか。
黄羅星先輩の、微笑みながらも真剣な表情に、声音に、甘茶は、なんと答えたのか……憶えて、いないのです。
なのに、黄羅星先輩の言葉だけは、鮮明に、鮮烈に。
脳に焼きついて、何度繰り返しても明瞭に再生されるのです。
――『何故か、か。……甘茶、私は君が、この部で一番、演劇に真剣だと思っている』
――『演技というものに、君が最も真摯に向き合っている。他に、理由が必要かい?』
すとん、と言葉が脳に入ってくるのが分かりました。あぁ、この人は現状を正しく、寸分の狂いなく理解しているのだと、……少し、切なくもなったのです。
確かに当時、演劇部は今と比べるべくもなく、人数は多かったです。
けれどその大半は、黄羅星先輩の容姿や話題性、カリスマ性に釣られてやってきた、謂わばミーハーたちでした。最初っから自分たちでやる演劇になんて興味なくって、だから配役や、脚本を決める会議でさえ、すぐに雑談へ話が逸れて……黄羅星先輩は優しかったし、甘茶は1年生だったので、なにも言えなかったですけど。
『演劇部』としては、破綻、していたのでしょう。
薄々分かっていて、でも立場的に言いづらかった事実――――それを共有できていただけで、甘茶は、胸がときめいたのを憶えています。
――『「演劇部」の長に相応しいのは、誰よりも君だと、私は思う。……なにより』
――『私からバトンを受け取る走者は、君であってほしいんだ、甘茶。……嫌かい?』
甘茶は、そこまで演技ができる訳じゃないのです。
ただ、チビで童顔で幼くて子供っぽくて……そんな自分から、1歩でも2歩でもはみ出せる。違う自分になれる、役を演じているその瞬間が、大好きなのです。甘茶なのに、甘茶でいなくてよくなるその時間が、大切な宝物なのです。
そんな不純を抱えて演劇に臨んでいる甘茶を、あの黄羅星先輩が。
認めてくれたように思えて、甘茶は、涙腺が滲んだ覚えがあるのです。
嫌な訳がなかったのです。憧れの先輩から後を託されるなんて、光栄でしかなかったのです。
――『来年こそは、地区予選を突破して、全国大会に進んでみせるのです!』
…………あぁ、今思えば酷い、大言壮語。完全に調子に乗って、意気揚々で、甘茶は黄羅星先輩の手を取っていました。あの人に……笑顔を、作らせてしまっていたのでしょう。
考えるまでもなく、自明だったのに。
浮かれた甘茶は、あの瞬間、部に蔓延るミーハーたちと同じになっていたのです。
「……どう、していたら……よかった、のでしょう、か…………?」
数十分振りに声が出て……そのがさつき具合に、我ながら閉口するのです。
――――黄羅星先輩たち3年生の引退と共に、部室には、誰も来なくなりました。
寒風で冷やされた部室は、風通しが良過ぎてまるで冷蔵庫でした。背中の陽光が暖かくなってきたのだって、ここ1、2週間のことなのです。
甘茶の認識が間違っていたのです。甘かったのです。
破綻どころじゃありませんでした。『演劇部』なんて、そもそも黄羅星先輩なしでは成立すらしていませんでした。
鬱陶しいとすら思っていた談笑の声すらなくなって……独りきりのこの部室で、いつしか甘茶は、電気を点けることすら億劫になってしまって…………今みたいに、今よりも怠惰に、ただ部員たちの気紛れの帰還を、待つだけになって。
……結局、半年近く待ってきてくれたのは、ひとり、だけ。
――『故あって、居場所を探していてね。スペースが空いているなら好都合だ』
――『……私に演技などできない。故に、舞台になど立たない。見れば分かるだろうに』
――『それでいいのなら、籍は置いてあげるし、席にも着いてやろう。九重甘茶』
残された甘茶と、追い出されたあの娘……立場は真逆なのですが、どちらも逸れ者って点では同じでした。
あの娘は『自分はそんな
――もし、誰も帰ってこなくても、来年こそは。
――演劇を真剣にやりたい人が、来るかもしれないのです。
――この人だって……紫苑ちゃんだって、脚本家になってくれるかもしれないのです。
――だから、もう少し。もう少しだけ。
――待ってみても、いいのかなって、思うのです――――
――――――――甘かった、のです。全部、全部。
「っ……ぅ、ぇ……っ」
横を向いているのに込み上げてくる、酸っぱいなにかを喉元で押さえ、口を塞いで呑み込むのです。
……進級した途端でした。甘茶と紫苑ちゃんを除いた全員が、退部届を生徒会に提出したのは。
部として存続するための最低人数は、5人……甘茶と紫苑ちゃんでは、過半数にすら満たないのです。生徒会は、4月末までに部員を5人以上の部員を確保できなければ、廃部だと通告してきたのです。…………甘茶はその日、下校のチャイムが鳴るまでずっと、トイレで胃液しか出なくなるまで吐いていたのを、憶えているのです。
今も、思い出すだけで吐きそうになるのです。
廃部。廃部。……部が、なくなる。演劇部がなくなる。
黄羅星先輩から受け継いだ、演劇部が。
あの人が輝いていた場所が、思い出のよすがが。……消えて、なくなる。
…………痛い、痛いのです。苦しいのです。気持ち悪いのです。
この状況が、じゃ、ないのです。
この状況になるまで、なにも手を打たなかった自分の愚鈍さが、なにより、なによりも、腹立たしくて。
黒い棘のような罪悪感が、何度も何度も心臓を刺して……痛くて、痛くて。
――『期待しないでもらいたいのは前提として……その蒼褪めた顔はどうにかしておけ』
――『仮に私が演劇部志望の新入生なら、死体役しかできない部長など願い下げだ』
……容赦なくそう言って、出ていった紫苑ちゃんも、もう……帰って、来ないかも。
だってほら、棚に置いてある時計たちがみんな、下校時間に程近い時刻を指していて。
「……ごめんなさい、なのです……黄羅星先輩……」
届かない謝罪。甘茶にしか聞こえない懺悔。……それは、堪え性のない自慰。
感覚すら希薄な冷たい指先……じっとそれを見て、甘茶はまた、涙を留め置けない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ダメな部長、で……ごめんなさい、なのです……!」
ぼとぼと、テーブルに塩水が落ちていくのです。それを余さず見ていても、自己満足の誹りが消えなくて、怖くて、怖くて、息が荒くなってしまうのです。
なんて言うでしょうか。演劇部が、なくなってしまったら。
黄羅星先輩が、せっかく甘茶に、継がせてくれたこの場所が。
甘茶がなにもしなかった所為で、なくなってしまったら。
あぁ、きっと、きっと黄羅星先輩は、責めたりなんかしないのでしょう。甘茶のことを労って、甘茶は悪くないなんて、甘い言葉を囁いてくれるかもしれないのです。
そう、やって。
一番悲しんでいるあの人に、気を遣わせてしまう甘茶の情けなさが、一番、怖いのです。
図々しくて浅ましい、他人の厚意に容易く甘える賤しさが。
嫌で、嫌で――――でももう、取り返す方法さえ分からなくて。
取り戻しのつかない半年弱を、甘茶は、悔いることしかできなくて。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……っ! 甘茶は……甘茶は、ダメな、部長なのです…………ううん、部長、失格なのです……ごめん、なさい……黄羅星先輩――」
「また電気を消しているのか、甘茶! 眼に悪いからやめろと――――ぅ、げっ……」
「――――――――へっ……?」
建付けの悪いドアは、開かれればすぐに気付くのです。ガチャガチャというドアノブの悲鳴と、イライラした怒声とが聞こえたのは、ほとんど同時でした。
反射的に、習慣的に、身体を起こすのです。テーブルはいつも、声の主、紫苑ちゃんがパソコンを置く場所なので。
けど、弾かれたように遷移した視界の、その中央には。
紫苑ちゃん、と、もうひとり――――どこか、見覚えのあるような、子が。
「へ……ぇ、し、紫苑、ちゃん…………その、子……」
「っ…………!」
「はぁ……また、か。なんて顔をしているんだよ、甘茶――」
……もう、耳に
「へっ……?」
紫苑ちゃんが引き連れてきた、やけに背が高い黒髪ポニーテールの、眼鏡の女の子は。
するり、と紫苑ちゃんの横をすり抜けて――――眼を何故だか見開いて。
甘茶の方へ、ずんずんと、けれど音はなく。
近づいてきて、そし、て――――
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