第3話 読み書き算盤で韓信を驚かすアンヌ 1


 翌朝、アンヌはまだ日が昇る前に韓信よりも先に起きて、村の長の台所を借りて朝餉の支度をした。素材は村の長の奥様が準備していた。アンヌは「粥膳」はどうだろう?と思った。


 村の長の奥様に「粥膳」は韓信様の朝餉にいかがでしょうか?と聞くと、消化にもいいし良いんじゃないか、と彼女は答えた。韓信には長崎弁みたいな中国語が自然にでてしまったが、家族以外の人間には普通語のイントネーションで喋れるほどになっていた。


 蒸し豚、岷江の小魚、桃があるから、小米粥、蒸豬肉配蔬(蒸し豚と野菜)、岷江魚煮(川魚の煮込み)、桃漬(桃の漬物)をお作り、と奥様が言った。


 火をおこしてテキパキと作っていく。粥を煮ながら最後に散らす葱をトントンと切る。竹の蒸籠に豚肉と野菜を重ねて、ニンニクと醤で下味をつける。骨抜きをした川魚を酒と塩で下処理して、梅を加えて土鍋で弱火で煮る。若い桃を薄切りにして、塩で軽く漬けてしばらく置く。奥様はロンの手際のよさに感心した。21世紀のお料理教室で学んだ技が役に立った。


「それにしてもロン、昨晩は激しかったようだね。離れのお前さんの嬌声が母屋にまで聞こえたよ」と奥様がロンの顔を見、野卑な表情を浮かべてズケズケと聞いた。こんな露骨な下卑た質問でも、古代中国に生まれたなら気にしないのだろう。だが、ロンの中のアンヌは真っ赤になった。

「お、奥様、あ、あの、六回ほど愛でていただきました……」


(これを読んでいる未来の人たち、ここは紀元前206年の古代中国なんですよぉ~。忘れちゃダメですよぉ~。漫画のキングダムの時代は紀元前245年から221年頃のお話で、今はそれから二、三十年しか経ってません!羌瘣きょうかい河了貂かりょうてんもこんな時代に住んでたんです。女は輪っかみたいに縫った麻の胸当て≒ブラはしてますが、下帯≒パンツははいてません!スッポンポンなんですよぉ~!トイレは豚小屋の上にあるし!


 古代の中国では夜はやることもないから、夫婦はアレをするばっかりだし、話題も少ないから女同士の会話はアレの話ばかりなのだ……あれ?21世紀の女子高生と変わらないか……で、村の長の家は、秦朝の頃に劉邦が一時任じられていた亭長(江戸時代の日本の宿場にあった陣屋のような宿泊設備)の役をこの村では受け持っていた。それで、母屋の他に来客用の木の床敷きの離れがあるが、普通の家は、土間が一室と竈のある台所しかない。夜は家族は土間に藁を敷いて雑魚寝する。だから、夜夫婦がアレをする時、横で寝ている子供たちは、おっ母が『あんたぁ~、そこいいわぁ~』なんて叫ぶのには慣れているのです)


「六回も!おぼこにしちゃあ上出来だ!痛かったろう?」

「痛いのは最初だけでした……」

「ほぉほぉ。で、気持ち良かったかい?」

「は、はい、最初から気持ちが良いなんておかしいかと思いましたが、何度も、その逝ってしまいました……」

「素質があるじゃないか!最初の一発でやや子ができるかわからないから、韓信様がこの村に逗留なさっている間は、毎晩、韓信様の褥に侍るんだよ!」


「……それはイヤじゃありませんが(むしろ毎晩やりたい!アレ、好きになった!)……やや子が産まれたら私とその子はどうなるんでしょうか?」

「それは韓信様次第だけど、ロンが韓信様に気に入られたら、ここいらの視察が終わって、漢朝の都の成都(劉邦は項羽に敗れて巴蜀=四川省に追いやられていたので、長安が漢の首都になるのは項羽に勝ってからのこと)に連れて行ってもらえるかもしれないよ。それで、韓信様の後宮に入れてもらえるかもねえ……」


「私が韓信様の奥様に?」

「バカだねえ、ロンは。お前みたいな下々の農家の娘が漢の大将軍の奥様になれるわけがないじゃないか。韓信様の奥様なら、格として滅っした秦の皇女様とかがお似合いだよ。お前は皇女様のお付きの侍女がせいぜいだ。でもね、韓信様のやや子を身ごもって、男の子が産まれれば話は別だ。一気にお前は跡取りの母后様になるよ」


 あれ?昨夜、韓信様は『俺だっておぼこの女を抱いたことなんかないぞ。いつも商売女ばかりだ』と言っていた。まだ、独身で後宮なんて持っていないんじゃないかしらね?とアンヌは思った。って、まあ、いいか。


 粥が煮えるまで時間があった。昨晩限りになるかもしれないし、確か日本の平安時代では後朝きぬぎぬの別れとか言って和歌を女は男に渡すんじゃなかったっけ?とアンヌは思って、「奥様、あのぉ、筆と墨と木簡をお貸しいただけませんか?」と頼んだ。


「ああ、お前はウチの亭主に読み書き算盤を習ってるんだっけね。読み書きができれば韓信様の覚えめでたくなるかもね。何に使うんだい?」

「昨晩限りになるかもしれず、韓信様に詩(漢詩)をお渡ししたいと思いまして……」

「まあ、いいんじゃないか?無知無教養で読み書きもできないウチの村の娘の中に読み書きができる娘ってアッピールできるわな」


 奥様は台所の横の棚にあった木簡をアンヌに渡した。ウチの亭主の書き損ないの木簡だから小刀で削って使いな、硯と墨、筆はその横の箱に入ってる、とアンヌに言った。


 アンヌは少し考えて、村の長が教えてくれた十九古詩の「西北有高樓」を小篆(しょうてん、中国の古代文字)で木簡にしたためた。


◯十九古詩、「西北有高樓」


 西北有高樓 上與浮雲齊

 交疏結綺窗 阿閣三重階

 上有弦歌聲 音響一何悲

 誰能爲此曲 無乃杞梁妻

 清商隨風發 中曲正徘徊

 一彈再三歎 慷慨有餘哀

 不惜歌者苦 但傷知音稀

 願爲雙鴻鵠 奮翅起高飛


 西北にそびえる高い楼閣は、まるで雲に届くほど

 そこには美しい窓と三重の階段がある

 楼閣から聞こえてくる琴や歌の音は、なんて悲しげなんだろう

 この切ない曲を奏でているのは、亡魂となった夫(杞梁)を失った妻のようだ

 清らかな音色が風に乗って響き、曲の途中でためらいがちに揺れる

 一度弦を弾くたびに何度もため息をつき、情熱的な調べには深い悲しみがあふれる

 歌う人の苦しみを惜しむわけではないが、

 こんな心のこもった歌を理解してくれる人があまりにも少ないのが悲しい

 いっそ二羽の鴻鵠(大きな鳥)になって、翼を広げて高く飛び立ちたいと願う


 文の最後に「張蓉ヂャン ロン」と署名しようと思ったが、韓信様に本来は他人のロンという名前で呼ばれたくなかった。え~っと、アンヌの発音に似ている漢字はなんだろう?……「安女?『(あなたを)安(らかに導く)女』でどうだろう?発音は『アンニュ』でアンヌに似ているし……」と考えて、最後に、


 ー 張安女(ヂャン アンヌ) ー


と署名した。村の人には張蓉ヂャン ロンで良いが、ロンには悪いが韓信に抱かれたのは、ロンじゃない。曽根崎安女アンヌなのよ!……ロン、ごめんね。


……そう言えば、この体のロンはどこに行ったんだろう?

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