戦場の拾い手

初心なグミ

戦場の拾い手


【①死の静寂の中で】

 

 風が、鳴っていた。

 否、それは風ではなかった。燃え残った瓦礫の隙間を抜ける、死者たちの吐息だった。


 焦げた鉄。腐りかけた肉。乾いた血。

 そのどれもが、かつて人間であったものの名残だ。

 地に散らばる骸はもう語らない。だが、語らぬものほど雄弁に、人の愚かさを物語る。


 ――ここは、終わった戦場だ。


 夕陽は沈みかけ、血のような橙に染まった空が、地平の向こうで息絶えようとしている。

 そこを、一人の男が歩いていた。


 背は高くも低くもない。痩せて、黒ずんだ外套を纏っている。

 目は煤けた灰色。戦場の土埃と同じ色をしている。

 彼の名は――レオン。かつて、兵士だった男。


 手には一つの麻袋。中には、名も知らぬ者たちの遺品が詰まっている。

 軍靴の片方。折れた銃。欠けた指輪。焦げた写真。

 どれも、もはや価値を持たぬ屑鉄のようだ。

 だがレオンにとって、それらは確かに「命の残滓」だった。


 拾う。拾い続ける。

 ただ、誰かが失くした“想い”を、もとあった場所へ帰すために。


 戦争は終わった。けれど、死はまだ終わっていない。

 人々は勝利を叫び、国は復興を謳う。

 だがその裏で、誰にも見向きされずに朽ちていく“彼ら”がいる。


 だからレオンは歩く。

 誰に頼まれたわけでもなく。

 誰に褒められることもなく。

 ただ己の罪を、少しでも軽くしたくて。


 彼の胸には、ある夜の記憶が焼きついていた。

 ――炎。

 ――叫び。

 ――友の首を抱きしめながら、助けられなかった自分の手。


 あの夜から、彼はもう剣を握らなくなった。

 代わりに拾うことを選んだ。

 奪う者ではなく、返す者として。


 瓦礫の下から、金属の鈍い音がした。

 レオンは膝をつき、手のひらで灰を払いのける。

 そこにあったのは、小さな銀の指輪だった。


 薄汚れ、表面に血がこびりついている。

 しかし、光を浴びると微かに鈍く輝いた。

 それはまるで、死の底から這い上がった意志の欠片のようだった。


「……あんたも、帰りたいんだな」


 誰にともなく、彼は呟いた。

 風が、返事のように吹き抜けていく。


 その瞬間、遠くで女の声がした気がした。

 かすかで、懐かしい響きだった。


 振り向いても、誰もいない。

 ただ、沈みゆく太陽が地平線を焼いているだけだ。


 ――その声が、幻ではなかったと知るのは、もう少し先のことになる。



◆◆◆



【②一つの指輪】



 夜の帳が降りると、戦場は息を潜めた。

 昼の腐臭も、火薬の焦げも、暗闇の中ではただの影になる。

 死者さえ、闇に溶ければ平等だ。


 レオンは焚き火を前に座り、拾い上げた銀の指輪を見つめていた。

 火の明かりが金属の表面をなぞり、ゆらゆらと形を変えていく。

 指輪の輪郭は、まるで人の記憶のようだった。

 曖昧で、脆く、けれど確かに誰かを想って造られた証。


 彼はそれを布で拭き取り、光を戻そうとする。

 血がこびりつき、爪の間から乾いた粉が落ちる。

 それを洗い流すたびに、彼の胸の中で古い痛みが蠢く。


「……また、か」


 その痛みは、忘れたはずの友の名を呼ぶ声。

 あの夜、炎の中で助けを求めて伸ばされた腕。

 掴めなかった。

 掴む資格すら、あのときの自分にはなかった。


 だから今、彼は“拾い手”なのだ。


 罪を数え直すように、彼は遺品を拾い続けている。

 遺族の涙を見るたびに、少しずつ赦される気がする。

 赦されるはずもないと知りながら、それでも歩みを止められない。


 ふと、指輪の内側に刻印を見つけた。

 それは、かろうじて読める文字だった。

 敵国の言葉で──「M・S」。


「敵の……」

 

 レオンは目を細め、静かに息を吐いた。


 味方ではない。

 敵の兵士の遺品だ。


 ならば本来、拾う必要はない。

 国はそれを穢れと呼ぶ。

 仲間を殺した者のものを持ち帰るなど、裏切りと見なされるだろう。


 だが、彼にとって死者は皆同じだった。

 名もなく倒れた者たちは、すべて“戦争の子”だ。

 誰のために戦ったかよりも、どんな想いを遺したかが重要だった。


「……関係ない。誰のものであろうと、帰すだけだ」


 そう呟き、レオンは指輪を布で包み、懐にしまいこんだ。

 それが新しい旅の始まりになることを、まだ知らない。


 翌朝。

 村へ戻った彼は、戦死者の記録を管理する司書のもとを訪れた。

 薄暗い部屋、積み上げられた名簿。

 窓の隙間から差す光が、紙の山に黄昏色を落とす。


「その刻印は、敵国の指輪だな。……返すのか?」

 

 司書の老女は、驚きよりも、哀しみのような声で問うた。


 レオンは黙って頷く。


「……あの国はもう瓦礫の中だ。戻っても誰もおらんぞ」


「それでも行く。もし、誰かが待っているなら――」


 その声は低く、だが確かな光を孕んでいた。

 レオンは名簿を受け取り、背を向ける。

 老女はその背を見送りながら、かすかに呟いた。


「……戦場に拾い手などいないと思っていたが、いるものだねぇ……」


 扉が閉まる音。

 静寂。

 再び、風が鳴く。


 レオンは振り返らず、ただ前を見た。

 指輪の重みが、懐で脈打っていた。

 それは死者の声か、それとも、生き残った者の祈りか。


 まだ分からない。

 だが確かなことが一つ。

 その指輪が、彼を“戦場の外”へ導こうとしている。



◆◆◆



【③敵の裏】



 国境を越える道は、死の匂いで満ちていた。


 草も木も焼け落ち、丘の向こうに続くのは灰色の野原だけ。

 風が吹くたび、焼け焦げた旗の破片が空を舞う。

 かつては“敵国”と呼ばれた土地。

 今はただ、名もない墓場だった。


 レオンは黙々と歩いた。

 靴底の下で、砕けた骨が軋む音がした。

 そのたびに胸の奥が冷たく痛む。

 だが足を止めない。

 この指輪を渡すまでは、彼はまだこの地にいる理由を持っている。


 やがて、瓦礫の向こうに小さな村が見えた。

 崩れかけた教会。井戸。

 生き延びた人々が、慎ましく火を囲んでいる。


 レオンが姿を現すと、誰もが一斉に警戒した。

 その外套の色が、敵国のものだったからだ。

 老婆が杖を振り上げ、罵声を浴びせる。

 

「出て行け! お前らが、うちの息子を殺したんだ!」

「化け物め、何をしに来た!」


 怒号の中、レオンは立ち止まり、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……あるものを、届けに来た」


 その声は低く、風に溶けるほど静かだった。

 誰もが訝しむ中、一人の女性が前に出る。

 白い布で髪を覆い、まだ若いが、目の奥には深い影があった。


「あなた……兵士、なの?」

「昔は、そうだった。今はただの拾い手だ」


 レオンは懐から銀の指輪を取り出した。

 女性の目が一瞬だけ見開かれ、そして震えた。

 彼女の唇が、音にならない名を紡ぐ。


「それは……彼の、ものですか……?」

「……ああ。戦場で見つけた。血に濡れていたが、まだ輝いていた」


 女性は一歩、二歩と近づく。

 そして、恐る恐る指輪を受け取ると、胸に抱きしめた。

 嗚咽が、夜気を震わせる。


「旦那を……あの人の想いを…………! 私の元へと帰して来てくれて……ありがとうございます…………」

 

 レオンは何も言えなかった。

 戦争とは何か。国とは何か。

 この涙を前にして、それらの言葉は何の意味も持たない。


 彼は膝をつき、深く頭を垂れた。

 まるで懺悔のように。

 

 その声は、かつて戦場で聞いた“幻の声”と同じだった。

 あのとき風に乗って届いた、亡き者の願い。

 それが、今ここに還ってきたのだ。

 

 彼女は涙を拭い、微笑んだ。

 

「あなたのような人が……まだ、この世にいてくれて良かった」


 その笑みは儚く、しかし確かに、生きる者の光を宿していた。

 レオンはその光を胸に刻み、静かに立ち上がる。


「ああ……俺もやっと、少しだけ報われた気がする」


 風が、二人の間を通り抜ける。

 そこにはもう、“敵”も“味方”も存在しなかった。

 ただ、ひとつの祈りだけがあった。



◆◆◆



【④広い手の祈り】



 夜が明けた。


 曇天の隙間からこぼれる光は弱く、まるで世界がまだ“生きること”を迷っているようだった。

 レオンは丘の上に立っていた。

 風が頬を撫でる。冷たくはない。

 それは、昨日までこの地で泣いていた者たちの、息のようでもあった。


 彼の足もとには、かつての戦場が広がっている。

 血に染まった大地。崩れた城壁。

 だが、今はもう誰も争っていない。

 ただ、静かに風が通り抜けていくだけだ。


 懐の中には、あの女性から渡された小さな包みがあった。

 中には乾いた花弁と、短い手紙。


『この花を、彼の眠る場所に添えてください』


 レオンはそれを掌に包み、目を閉じた。


「……ああ、任せてくれ」


 足を進める。

 戦場を歩く彼の足音は、もう重くなかった。

 拾うためではない。

 返すためでもない。

 今の彼はただ、“祈るため”にここへ戻ってきたのだ。


 崩れた丘の窪みに、見覚えのある土の塊があった。

 そこに、あの銀の指輪を拾った跡が残っている。

 レオンは静かに膝をつき、花弁をそっと置いた。


 乾いた風が吹き、花びらが舞い上がる。

 それはまるで、彼女の涙が空へ還っていくようだった。


「……戦争は……いつになったら終わるのだろうか……」


 その言葉は、誰に向けたわけでもない。

 けれど確かに、この世界に向けられた“祈り”だった。


 レオンは空を見上げた。

 薄雲の向こう、光がひと筋だけ差し込んでいる。

 その光が地を撫でるたび、廃墟の瓦礫が淡く輝いた。


 誰も見ていない。

 だが、確かに戦場は息をしていた。

 奪い合うだけだった大地に、今、ほんのわずかに“返す”という温もりが生まれていた。


 レオンはゆっくりと立ち上がり、振り返らずに歩き出す。

 もう彼の背には、銃も剣もなかった。

 ただ、ひとつの袋。

 中には、まだ誰かに返されていない小さな遺品がいくつも眠っている。


 それは終わらない旅。

 だが、もう彼は孤独ではない。

 彼の後ろを、風が歩いていた。


 夕陽が地平線を焼くころ、彼の影は長く伸び、やがて大地に溶けて消えた。


 ──そして、誰もいない戦場に、静かな声が残る。


「まだ、帰る場所がある──」

 

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戦場の拾い手 初心なグミ @TasogaretaGumi

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