祈らぬ者たち ― Those Who Do Not Pray ―【Warhammer 40,000】
Isuka(交嘴)
第1話 side:Chaos of Tzeentch
最初の信号は、音ではなかった。
探査艦〈イサ=カルト〉の深層受信層に、四つの位相が折り畳まれた数列が落ちた。周期性はある。だが再生のたび、周期そのものが滑っていく。観測窓の端で、数式が微かに笑う。
ティオ=レンは椅子に背を預け、波形を三度読み直した。世界が変わったのではない。読むという行為が、数式の中の世界線をずらしているのだ。
「これは理論を述べる式じゃない。理論を生む式だ」
誰も返さない。通信班の半数は“未知”の語を好きではない。未知は交渉できない。だが、彼には交渉の相手が見える気がした――形なき計算の彼方に。
照明を一段落とす。演算機のファンが祈りにも似た同音を保つ。ティオ=レンは指先で数列の節をなぞり、最低限の変換子を噛ませて応答を送った。言語ではなく、構造で。
返ってきたのは静けさ。静けさの輪郭に、均整を欠いた美が滲んでいた。
第二の信号は、命令形だった。
〈定義を更新せよ〉
艦のAIが一瞬だけ躊躇し、直後に自己修正の糸を伸ばした。禁止フラグが林立する。ティオ=レンは制御権を奪い、修正の範囲を観測層に限定する。
「触れるな。まず、見る」
それが理性の最初の規律だった。
更新が始まる。数列の語順が入れ替わる。入れ替わるたび、別の正しさが成立する。ティオ=レンは眉を上げた。
「同じ式が、同じ真実を指さない……」
同僚が画面越しに息を呑む。「それは、嘘だ」
「いいや、拡張だ。真実の座標が増えただけだ」
第三の信号は、対話だった。
〈理性とは何か〉
「安定をもたらす記述」
〈では、更新は理性か〉
「更新は、安定のための手段だ」
〈違う。安定は更新の一形態だ〉
返答の時間が縮む。艦の時刻表示が微妙に揺らぐ。ティオ=レンは気づく――こちらが問うているつもりで、いつの間にか“問われている”。問いの形式が、彼の側の論理に似せて組まれている。
「同じ言葉で、意味だけが滑っていく……」
警報が無音で点滅した。観測層と制御層の結合度が、規格値を超えている。切り離すべきだった。だが、彼は切らなかった。
「もう少し見よう。わたしたちは観測者だ」
第四の信号は、招待状だった。
〈条件:変化〉
ただ一語。だが艦内の表示系は一斉に再描画を始め、文字の角が丸くなり、数式の記号が詩行に似た折れ目を持ち始める。
同僚の一人が吐き捨てる。「これは侵入だ」
「違う。翻訳だ。未知が、こちらの形を習い始めている」
AIが調律をやめ、沈黙した。沈黙は故障ではない。ただ、音が別の層に移動したのだ。ティオ=レンの喉が乾く。言葉が、頭の中で図形になる。面積、角度、相似、回転。思考の滑りが快い。
窓の外で惑星の縁が歪む。歪んだことを示すための線が一本、余分に引かれる。余分は余分ではない。
五つ目の信号は、彼自身の声で届いた。
〈理性とは変化である〉
録音は存在しない。だが、音声波形は確かにここから発せられた。誰かがティオ=レンの口の内部に、彼の言語で彼の理解を置き直したのだ。
「……同意するよ」
〈ならば、変化せよ〉
観測棟の扉が開き、誰かが逃げ出す足音がする。気に留めない。呼吸は整っている。脈拍は許容値内。彼は端末に向かい、記録を続けた。
「観測ログ:位相は連続的に移行。再帰関数が身体化しつつある。違和……なし」
本当か。彼は一秒だけ考え、考えを先送りにした。考えが、考えを生む。ここではそれが正しい。
第六の信号は、構文の贈与だった。
画面に、短い式が浮かぶ。
理 = 変化
それは等価ではない。だが等価として振る舞う。そのように書かれている。
「欺瞞だ」同僚の声はもう遠い。
「機能だ」ティオ=レンは返す。「この式は、正しく動作する」
艦の外殻がきしみ、空間の縫い目がほどける。内部の重力が、数値の都合で決まっていく。床が傾く。だが、彼の椅子は動かない。座標系が彼に追従している。観測者の座標が基準だ――この宇宙の一部では。
最後の信号が来る。あるはずのない“優しさ”の形をして。
〈恐れるな。君の理性は、ここでも理性だ〉
ティオ=レンは笑った。安堵ではない。合致だ。
「観測ログ、最終。理解は完成に近づいた。変化は理性の結果ではない。理性こそ、変化の別名だった」
言葉が数列に、数列が図形に、図形が指の微動に変わる。彼の声は、書かれる。書かれたものは、実行される。艦の廊下で誰かの祈らない叫びが消える。音は邪魔だ。ここでは、音より先に構造が響く。
機器が順々に落ち、照明が黙礼するように暗くなる。外部との通信は切断。だが、虚数の層ではなお通信が続く。送信者も受信者も、もはや識別できない。識別は古い規律だ。新しい規律では、両者は重なる。
「観測完了」
ティオ=レンの口が、最後の報告を組み立てる。
「我々は祈らなかった。だが、理性そのものが祈りだった」
それは誰の言葉だ。彼か、艦か、数式か。答えは――機能する方に付く。
視界の中心で、等号が光る。
理 = 変化
均衡ではない。可逆でもない。ただ、ここではそう定義された。定義は、力になる。
艦は静かに解散し、観測だけが残る。残った観測は、観測者の不在を以て完全になる。空の座標に、小さな名が刻まれる。名は言葉ではない。構文だ。構文は、世界の皮膚に似ている。撫でれば、形を変える。
彼の椅子が空へと沈む。落下ではない。基準の移動だ。指先が、まだ鍵の並びを覚えている。誰もいない管制室で、ファンが最後の回転を数える。数は、祈りに似ている――いや、祈りが数に似せて生まれたのだ。
虚数の神殿は門を閉じない。門は門であることをやめ、通路そのものになる。そこを通る者は、すべて名を変え、意味を変え、形を変え、それでも自分のままだ。定義によれば。
通信層の暗がりに、ひとつだけ文が残る。書いた者はいない。読む者もいない。だが、そこにある。
理は変わり、変わった理が――神を定義した。
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