今宵の月は三日月。

　薄雲を透かして地上を淡く照らし、朽ちかけた石橋の上にひとつの影を落とす。

　

　金糸のような髪が風に舞い、月光を受けて淡く輝く。真紅の古い外套は所々裂け旅の長さを物語っていたが、その裂け目から覗く黒い衣は品を感じさせるほど整い、隙がなかった。腰には細身の剣が一本、存在感を放つ。

　

　その女の佇まいは、夜空に浮かぶ月そのものが形を取ったかのようだった。

　

　女は、薄く息を吐いた。

　

　そのとき。

　足音。軽い靴音が、石橋の向こうから近づいてくる。

「……止まりな」

　少年の声だった。

　その声には幼さと、無理に作った威勢が混じっていた。

　彼女はゆっくりと振り返ると、剣呑な目つきで少年を見遣った。灯のない夜の中、まだ十代半ばの少年がひとり、短剣を構えて立っていた。痩せた体に薄汚れたシャツ。腰に巻いた布切れが、風に煽られてはためいている。

「ここを通りたきゃ、金を置いていきな」

　少年は虚勢を張るように顎を上げた。

　闇に包まれた夜に全ての音が吸い込まれていくかのような静寂。

　すぅ、と印象的な青い瞳が細められて、少年――サノスを射抜く。その静謐ながら燃えるような力を宿した瞳に、背筋が震えた。恐怖、否。憧れ、否。

　“畏れ”と呼ぶ他ない感情。その現世離れした気配を纏う女に心から酔い、平伏し、縋りたくなる衝動にかられた。

　しかし同時に、彼の中にある得体の知れない闘志が疼いた。名も知らぬこの女に、勝りたいと、そう強く思った。もしこの女に勝てたなら、自分は何かになれる気がした。貧民街で日銭を盗みながら生きるだけの、今の自分とは違う何者かに。

　一歩、踏み出す。

　剣が月光を弾いた。

　甲高い金属音が闇を裂く。

　一閃。

　女は微動だにせず、その一撃を流した。

　その動きには一切の無駄がない。まるで、幾たびも剣の嵐、矢の雨を受けてきたかのような熟練した正確さ。

　サノスは歯を食いしばり、再び踏み込む。

　短剣を逆手に持ち替え、足元の石を蹴り上げる。その石片が、女の目を狙った――だが。

　刹那、風が逆に吹いた。

　舞い上がった砂埃が跳ね返され、サノスの頬を掠める。

「……！」

　見えた。

　彼女の剣が抜かれた瞬間。

　潔い白銀の剣が走る。

　その刃の描いた曲線の美しさに、サノスは思わず見惚れた。

　次の瞬間、彼の短剣は宙を舞っていた。

　そして、脇腹に衝撃。蹴り飛ばされ、鈍い音を立てて石畳を転がる。

　痛みがじわじわと広がっていく。

　だが、不思議と悔しさはなかった。むしろ心の奥が熱を帯び、燃え上がるような昂ぶりを感じた。

（こいつは……やる奴だ）

　逃げようと思えば逃げられる。

　けれど、足が動かない。

　まるで運命や呪縛とでも呼ぶべき大きな得体の知れない力が、彼をこの場に縛りつけ、女から目を離すことを許さなかった。“この出会いから逃げたくない”と、本能が叫んでいる。

　サノスは唇の血を拭い、立ち上がった。

　女のその足取りは静かで、揺るがなかった。ふたり分の影が、三日月の下で揺らめいた。

　サノスは渾身の力で拳を振りかぶる。

　それは、彼のすべてを賭けた一撃だった。

　だが、女はその勢いを軽く受け止め、逆に白銀の刃先を喉元へ添えた。冷たい切先が、首の皮を一枚破った。

　至近距離で視線がぶつかる。

　青い瞳――凍てつくようで、燃えるような色。

　

(あぁ、なんて……美しい)

　次の瞬間、彼は再び地面を転がった。カツ、カツ――と女の長靴の音が響く。その音が妙に心地よく、遠くから流れる子守唄のようで、サノスは最後に良いものを見た、と目を閉じた。

　急速に意識が遠のく。剣を鞘に納める音がしたかと思うと、ぐい、と引かれる感覚。女の手には、彼の首にかけられた鎖があった。鎖の先には、古びた金の鍵。

　それを見つめる女の目の奥が、微かに揺れたように見えたのは気のせいだろうか。

「これは……」

　ひどく心地のいい声だと思った。女にしては少し低いだろうか。だがどこか懐かしさを含んでいた。

「俺が生まれた時から持ってる唯一の物だ、盗りたきゃ殺しな」

　声は震えていたが、確かな意志に満ちていた。自分を捨てたのであろう親との繋がりを示せる唯一の物だと信じて、どんな時も肌身離さず身につけていた鍵。それはサノスにとって命と同じほどの重さを持つ品だった。

　女は眉ひとつ動かさずに、ただ拳を彼の腹に叩き込む。軽く。だが、確実に意識を奪うだけの強さでもって。

　そして、倒れた少年を米俵のように担ぎ上げた。彼女の背が、月明かりの中でゆっくりと遠ざかっていく。

　

　サノスは、女の歩く振動を感じながら、薄れていく意識の中で思った。

　――あぁ、これが運命というやつかもしれない。

　女の後ろ姿が、夜の闇に溶けていく。

　

　その背に眠る少年が、彼女を再び王座へ導く“鍵”となることを、まだ誰も知らなかった。

──そのとき静かに、運命は息を吹き返した。