第16話
「あ、あぁ……」
ローデリヒは頭を抱え、崩れ落ちる。
彼の脳内に響くのは、扉の向こうから聞こえる、赤子の泣き声。
生まれてしまった。
誕生してしまった。
ついに、ついにこの時がきてしまった。
ローデリヒは愛用と成り果てた包丁を握りしめ、ハイノのいる寝室の前に立ちすくんでいた。
「ローデリヒ」
「…………」
「……いるんだろう」
「……っ」
赤子の声混じりに。ハイノの声が聞こえてくる。
相当長い間、ジンつうん苦しんで居たのか、掠れ、疲れ果てた声だった。
「いいよ。もう終わったから。
というか運んで欲しいものがあるんだ……早く頼む」
「あ……は、はい」
扉を開けると、暖炉の熱気と共に、さらに赤ん坊の声が大きくなった。
当たり前のことであるが、ローデリヒは眉を顰める。
疲れ果てた様子伝ベッドに横たわり、小さな何かを腕に抱くハイノの姿。
白いシーツに包まれた「何か」が赤子である事に気づくと、胃液がせり上がる感触を覚える。
そんな相手の心情などつゆ知らず、ハイノは穏やかに笑いかけた。
「やあ、君の娘だよ。
ほら、抱いてやれよ」
「は……娘」
「女性器があったから体は少なくとも女性だ。
僕はは後天的な両性具有だから遺伝することはないぞ」
「わかっています……そんなにベラベラと喋っていいんですか。
疲れないんですか」
「まぁ、思ったよりも大丈夫だ。
出産の痛みに比べればな」
ハイノは薄い色素の肌を真っ赤に染め。
荒い呼吸を整えながら子を差し出す。
彼の腕の中には、真新しい布に包まれた小さな顔がか細く泣いていた。
「これが、俺の」
「娘だ。僕はそうだな……親と言うべきかわからない。ははっ」
ローデリヒは恐る恐る手を差し出す。
小さな、小さな命。
つい先ほどまで異からせり上がった嫌悪感はなりを潜め、全身がこの幼い人間を慈しめという本能に支配される。
「小さい……」
「本当、最初大きめに膣道を作っておいてよかった。
それがなければ死んでいた」
「俺と、ヘレネさんの……」
二人の精子と卵を組み合わせ、生まれた子供。
自分と同じ髪色のその赤ん坊を見つめ、ふつふつと胸の奥から湧き起こる感情が一つ。
愛おしい。
この子供が愛おしい。
先ほどまで喉の奥まで登っていた殺意はすっかり消え去り、残ったのは、小さな彼女への愛だった。
愛? 情? いずれにせよ、形容しがたい熱い何かであった。
「……出産というものは、存外体力を、使う……ローデリヒ、彼女の湯浴みを頼む。
流石に疲れた……僕は少し、眠る……」
ハイノはそう言い残し、清潔なベッドへと身を埋めた。
すぐに寝息を立てはじめ、ローデリヒは置いて行かれたかのような気分だった。
今一度、赤子を見やる。
真っ赤な肌をしたそれは。
ネジ巻きの人形の様にカクカクと震え、形容しがたい言葉で何かを語り欠けてくる。
「……行こうか」
いつの間にか泣き止んだ娘を抱え、ローデリヒは浴室へ向かう。
あらかじめ用意していた盥に娘を沈め、用水に濡れた体を優しく拭ってやった。
心地よいのだろう。
全身の力を抜き、ぼうっと半口を開けている。
それがまた、愛おしかった。
「…………」
きっと、この水の中に一思いに沈めてしまえば、この細い頸を絞めて仕舞えば、この赤ん坊は生き絶える。
禁忌により生まれた彼女は死ぬ。なかったことになる。
だが、今のローデリヒにできるか。
その答えは実に簡単。否、であった。
彼は娘を一眼見た瞬間、彼女の無実に気がついてしまった。
「シュシュー(可愛い子)……」
この小さな命に、罪はない。
彼女には、健やかに生き健全な生を送ることが許されている。
その生まれは歪であろうとも、彼女自身は、歪みなき清らかな魂を持っているのだ。
「……ぅ、うぅ……っ」
ならば、罪あるものは誰だ。
そう、自分だ。
これから起こる全ての悲劇の元凶は、間違いなく自分だ。
そしてハイノ。
彼が姉の腹を暴き子宮を簒奪しなければ、こんなことにはならなかった。
彼の思想は、実験は、今後もまた間違いなく惨事を産むことだろう。
ならば、ならば。
罰を受けるべきは誰か?
「…………」
明白だ。
火を見るより明らかだ。
そして、ローデリヒ。
彼は自分がこの罰を下すべきだと。
惨劇を止めるべきだと考えた。
真新しいガーゼのお包みに包まれた赤ん坊は、すっかりご機嫌なようで、愛らしい声を上げながら、長い袖をパタパタとふるっている。
ローデリヒはその様子に頬を緩めながら、自分と同じ色の髪を撫でた。
「おでかけだよ、シュシュー。
少しここで待っていてくれ」
ローデリヒは白く小さな生き物をカゴへと寝かせ、準備のためにその家を発つのであった。
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