第14話

 彼は胎の子供を慈しむんだ。


「おい、ローデリヒ。何を呆けている。

 さっさと座ったらどうだ。

 せっかくの茶が冷める」


「は、はぁ……」


 ローデリヒは、震える手でカップを手に取った。

 芳しくも憎らしい薬草が、鼻腔をくすぐる。


「もうすぐ。

 だ。

 後数ヶ月で十ヶ月が経過する」


 突如、ハイノは口を開いた。


「生まれてくる。

 僕の胎から」


「……そうですね」


「ありがとう。君のおかげだローデリヒ。

 君がいなくては、この実験は完成しなかっただろう」


「まだ、終わっていません。

 生まれてくる子供が、獣の病罹患者だとは限りませんよ。

 ただの魔術師の子供が生まれてきたら、あなたはどうするんですか」


 僅かに首を傾げ、ハイノは言った。

 僅かに、口元に笑みを浮かべながら。迷いなく。


「育てるさ。この場合は……父親か、母親か。

 この際どっちでもいい。

 親として、子供を育てる」


「……は、」


「いずれにせよ、君には迷惑はかけるが、親としての負担は背負わせないつもりだ。

 希望するなら、親である事実も隠そう。

 そうだな、少し事実を誤魔化して、姉さんの忘れ形見と言うことにしてもいい」


 予想だにしなかった言葉だった。

 せめて、せめて生まれてからはぞんざいに扱って欲しかった。

 自分に子どもを押しつける勢いで、失敗だと嘯きながら他の適当な好色の元へ行って欲しかった。


 全て、全てうち砕いてくる。

 変わらないで欲しい。

 それなのに、まるで空の色のように変化していく。


「……変わりましたね」


 ローデリヒの口から嘲笑を含む声が漏れた。

 ハイノは爪の先ほども気にしていない様子だった。


「大袈裟だな……だが、君の言う通りだ」


 くるり、とポットを回す。

 満ちた水面が、不安げに揺れた。


「貴方は変わった。

 人として、研究者として」


「ああ。返す言葉もない。

 最初こそ、獣の子が生まれなければ、捨て置きさっさと次の子供を作ろうと考えていたが、今は大金をちらつかせられてもそんなことはしないだろうな」


「絶対にですか」


「絶対に、だ」


 静かな言葉に、ローデリヒは薄く牙を剥く。


 何を言う。それはお前の子ではない。

 自分とヘレネのとの子だ。

 お前はただの胎盤にすぎない。

 親ヅラをするな。ただ孕んだだけのくせに!


 ローデリヒは無言で立ち上がり、クッションの下の刃物を握りしめる、ハイノの背に立ち華奢な身体を見下ろした

 。美しい、憎らしい、美しい。


 無言のまま立ち尽くす彼に違和感を感じないはずがなく、ハイノは一つ問いかけた。


「ローデリヒ」


「…………」


「ローデリヒ、何をしているんだ」


 自らに振り上げられた凶器の殺意すら掴めない程に鈍化した、彼の警戒心にローデリヒは呆れ果てる。


 こんな男、今、今殺さなくては。

 悪辣の果て以外にいた彼を殺さなくては。


 揺らぎない信念。

 そう錯覚していた彼の意志は、小刻みに震え始める。

 垂直に振り上げられた包丁は、まだ動かない。


「ローデリヒ? 大丈夫か、お前」


 ついにハイノが動いた時、ローデリヒの手が降りた。


「、あ」


「葉がつてますよ」


 そう言って、乾燥した秋の葉を一枚摘みあげた。

 恐らく、先ほど外に出たときのものだろう。

 くるくると指で回してみせると、ハイノは微笑んだ。

 屈託ない笑みだ。憎らしく、なるほどに。


「ああ、私としたことが。すまないね」


「いいえ。あ、」


 からり、からりと玄関口で、呼び鈴がなった。来客だろうか。


「誰です」


「ああ、実は礼の顧問弁護士がくるんだ。

 ほら見ろ、カップだって3人分用意しているだろう」


 ローデリヒは納得する。

 これは来客用だったのか、と。


「俺、迎えにいってきます」


「ああ、頼んだよ。ローデリヒ」


 ハイノ言葉を聞き遂げるとそのまま踵を返し、大きな靴の音が居間を過ぎ去っていく。

 部屋の扉を過ぎてから暫く。

 突如賭してローデリヒは悪態を吐く。


「くそ……くそ!」


 一人玄関に向かうローデリヒは隠し持っていた包丁をキッチンに放り、唇を噛んだ。


「くそ、くそ、くそ!!」


 何故だ。何故躊躇った。好奇だったはず。殺せたはず。なのに、なのに。


 ある感情が、邪魔をした。

 それはよく言えば情、悪く言えば憐憫。

 不覚にも、ローデリヒはここに或る二つの魂に対し、無意識下の慈しみを抱いていたのだった。


 体内を埋め尽くす、燃えるような敗北感。焦燥に似た殺意と情動。


 空想の中で、先ほど自身に笑いかけてきたヘレネの顔が、ヘレネと重なった。

 自分に美しく微笑みかけてきた聖女の微笑みと、反吐の出る蛮行を重ねてきた男のそれが、重なったのだ。


 信じがたい、信じたくない。

 だが、事実なのだ。


「もう、嫌だ」


 急激な脱力感に襲われ、ローデリヒは立ち止まる。

 うずくまり、身を焦がす衝動を必死に抑え込んだ。


 呼び鈴が鳴る。ハイノの急かす声が聞こえる。


 しばらくの間、ローデリヒは身動きができなかった。


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