第13話
真白なシーツを干す、午後。
麗かな春の日差しとは裏腹に、ロードリックの表情は険しいものだった。
ただただじっと、乱暴な程に使い古した城を叩き、静かに唇を噛みしめる。
何か思い詰めている。傍から見れば、そう感じる事だろう。
あながち間違いではない。
彼の中には、まるで膨れ上がるような苛立ちの種が、萌芽の時を今か今かと待ち構えていたのだった。
全ての洗濯物を干し終わり室内に入ると、玄関で黒檀の髪が揺れた。
「ああ、ロードリック。
洗濯物干してくれたのか」
以前より僅かに、滑らかになった男の声。
ハイノだった。
「……仕事ですので」
「ありがとう。
この体じゃ、禄に動けやしないから」
そう言って、ハイノは愛おしげに腹を撫でる。
なぞった部分が、膨れている。
中年のビール腹のそれはよく目にするが、決して年寄りとは言えないハイノの腹が出ていると、猛烈な違和感を感じる。
違和感? いいや、これは怒りに近い。
「じゃあ部屋の中でじっとしていてください。
その大切な大切な、お体に障りますよ」
「冷たいな。仕事が済んだら部屋に来い。
飲み物を用意したんだ。
これから菓子を持って来るころだ」
「全く。身重なんだから、あなたは。
菓子は僕が持って行きます。
部屋で待っていてください」
「……はは。そうだったな。
じゃあ、頼むぞ」
踵へと返し、私室へと向かうハイノの背。
それを見届けると、ローデリヒは篭を落とし崩れ落ちるように膝をついた。
きいもちわるい、気持ち悪い!
喉をかきむしるような憎悪、嫌悪。
虫の這う居心地に悪さに身震いする。
ハイノ・ヴァイスコップは身勝手な男だ。
傍若無人、唯我独尊。我が儘で程攻撃的で嫌味な男だ。
顔ばかりで誰からも好かれない、そうでなくてはいけなかったのだ。
その前提が受胎という課程によって、いとも簡単に変わってしまった。
理解出来ない、支度もない。
しかもその容姿は、日に日にヘレネのそれと重なってくる。
元々戦は細い方であったが、それが更に、薄く纏った丸みによって、中性的に変わって行く。
どうやら体内分泌物の影響であると言うが、それ以上の何かが存在しうるローデリヒは確信していた。
ふとした瞬間、ヘレネがここにいるかのような錯覚すら覚える。
どうして自分はこんな男に子種を与えたのだろうか。
一時のよく、刹那の渇望に絆され、禁忌を犯してしまった。
ハイノへ抱く、それ以上の嫌悪を吐き出す。
これから。これから逃げるには、ただ一つしか。
「殺す、しか……?」
殺すしか、ない。
身のうちに湧き上がる尋常なき殺意。
それはすぐさまローデリヒを殺した。
彼は何かに操られたかのように、その足でキッチンに赴き、よく研がれた包丁を一つ掴む。
魔力は駄目だ、勘のいい人間には感知されてしまう。
対し、此は何の気配も出さない刃物。
南瓜すら割る優れものだ。
これがあれば、ハイノだってひとたまりものないはず。
ろくに魔術の使えない妊娠中が好機だ。
生まれてからは遅い。早く、早く肩をつけなくては。
ローデリヒは後ろ手に凶器を隠し、保存庫にあった菓子を片手に、ハイノの私室へと向かう。
ぎし、ぎし。と鳴る床板。
まるで膨れ上がる殺意の階段の様に鳴るそれに鼓動を早まらせ、ローデリヒは粗ぐ息を潜める。
まずは喉を裂く。そして胸を突き完全に殺す。
それが終わったら腹を裂き、胎児を殺す。
まだ臨月には間がある。きっと、外気に触れれば直ぐに死んでしまうだろう。
そうだ、それが良い。
「失礼します」
一人合点したローデリヒは、ハイノの寝室兼研究室の扉を叩く。
「なんだ。遅いな。入り給え」
無言の虚ろの侭、部屋へと足を踏み入れた。
ドアの向こうには、安楽椅子に腰掛け、読書を嗜んでいた。
その傍らにはハーブティ。
薄緑の芳しい香草の香りが、部屋に充満している。
つわりによく聞くと礼の顧問弁護士が譲ってくれたものだ。
最初はいい香りだと感心したものの、ハイノがこれを飲む姿を見せつけられるにつれ、清廉なこの風味ですら嫌いになった。
「これで間違いありませんか」
「ああ、ありがとう。
そこに座ってくれ」
ハイノは悪寒の出るほど穏やかな笑みを浮かべ、外を眺めた。
ローデリヒは包丁をクッションの隙間に隠し、椅子へと腰を下ろす.不覚にも形の良い、輪郭に嫌が応にも見とれてしまう。
やはり。確かに。
間違いなく、彼は妊娠してから変わった。
苛烈な思想こそ健在であるが、言動が明らかに穏やかなものとなった。
勿論、身体の変化により体調が不安定になったことが理由の一つだろう。
だが、それ以上に「自らの中に新たな命がある」その事実が、有無を言わさぬ変化を彼に与えた。
結果、美しき狂人ハイノ・ヴァイスコップは、ただの子を孕った男と成り果てたのだった。
その事実が、ローデリヒを困惑させた。
何故だ、何故だ、何故だ。
この男は狂ってなくてはいけない。
狂った末に姉の子宮を簒奪した冒涜者でなくてはいけない。
自らの子を道具か研究資材としか見ていない非道でなくてはならない。
なのに、どうして。
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