第12話


 あれから、二ヶ月が経った。


 ヴァイスコップ研究所では、特に変わり前の市内日々が続いていた。

 いいや、少しだけ、変わったと言えるかもしれない。

 ハイノが難なく歩けるようになった。

 医者を呼ばなくて済むようになった。

 原稿の進みが遅くなった。

 そして、僅かながら二人の会話が増えた。

 当たり前と言えば当たり前である。

 容体など時間が経てば安定してくるものだし、二人で暮らしていれば自ずと会話は増える。

 なんせ森の中。

 言葉が通じるのは互いと、時折やってくる例の顧問弁護士だけであったからだ。


「今日の食事はなんだ」


 いつの間にか研究室と化した寝室で、ハイノは筆を走らせて言う。


「いつもの。

 豆と肉のスープですよ」


「うげぇ。

 僕、豆嫌いだって言わなかったか」


「貴方ね。好き嫌いせずに食べないと体に悪いですよ。

 ヘレネさんの一部を受け取っているなら、それなりに健康でいてください」


 なんだよ、と不貞腐れた顔でスープ皿を除くハイノ。

 そこには、不機嫌な自分の顔と、数粒の豆が浮かんでいた。

 心なしか多めに肉が入っているのがせめてもの救いと言えるだろう。

 ハイノが仕方なくスプーンを握る。すると、


「受けても構いません」


 唐突に、ローデリヒが呟いた。


「なんだい、急に。

 主語はどこいった」


「あなたの要望を呑む、と言うことです。子供の父親になること……」


 ふと顔を上げる。

 伸び切った前髪の隙間から見えたローデリヒの瞳は、真剣だった。

 悪態をつく可愛げのない男であるが、その言葉は常に真摯だとハイノは知っていた。


 故に、頷く。


「そうか」


 深い色の目を伏せる。僅かな言の葉の隙間を縫うように、風が凪いだ。


「科学の進展のため、君の体の一部を頂戴できること、感謝しよう。

 では、こちらの方でも進めておこう」


 木製の匙がスープに浸る。

 瞬間その手首を無骨な手が掴んだ。


「結構です」


「うわっ」


 そのままベッドの上へと押しつけられたハイノは、満更でもなさそうに口を緩ませる。


「ほら、欲望に負けた」


「まず勘違いしないでいただきたい。

 俺はあなたのため、科学のためにこの身を捧げるのではありません。

 ヘレネさんのためです」


 服のボタンにかかる指。

 ハイノはわざとらしくそれを押さえてみせた。


「いいのか。

 折角のスープが冷めるぞ」


「豆はお嫌いなんでしょう。

 貴方にとっても好都合だ」


 ハイノは足先でロードリックの大腿骨を、挑発的になぞる。


「……だから、俺はそういう意味でしようとしているわけでは」


「じゃあなんだ。愛した女を孕ませるつもりでやるとでも言うのか」


「雇われの身として、相応の結果を貴方にもたらす。

 それがヘレネさんへの手向けだと判断したまでです」


「にしては随分決意に時間がかかったな。

 さっさとヤりゃぁいいのに」


「あのですねぇ……」


 潜められた眉をぐいぐいと推し、ハイノは微笑んだ。

 無邪気で、少年のような笑みだった。


「意地悪言って悪かったよ。臍を曲げるな。な?」


「……貴方って人は」


 春の昼下がり。

 誰も寄りつかない森の研究所。


 たった二人しかいないこの場所で、ローデリヒは小さく、息を吸った。


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