第9話

「……寒いな」


 灰色の冬空を仰ぎ、ぽつりとローデリヒは呟く。

 月は2月。

 大きな動物は冬眠し、地表に現れているのは、ウサギや僅かな肉食動物だけ。

 そんな生の香りの薄い季節が、ローデリヒは好きであった。


 ヘレネの子宮がハイノに移植されてから半年、彼と二人きりの生活は実い窮屈極まりないものだった。

 いままでヘレネが澄ませていた書類整理や室内の片付けなど、全ての雑務がローデリヒの元に回ってきたのだ。

 予想以上の量。

 彼女が一人でこれを片付け、自らの研究にも取り組んでいたと思うと、尊敬の念が滲み出る。


 一方ハイノは、一日の殆どをベッドの上で過ごしている。

 医師団によれば、子宮を移植した事による体内の乱れが長引いているのだとか。

 納得せざるを得ない。

 男から、女でも何者でもない身体に人為的に変えたのだ。

 自業自得と言えど、毎晩のように嘔吐し生白い顔を見せるハイノには、僅かな憐憫が芽生えていた。


 痩せたせいだろうか。

 なにより、ぐったりとベッドに横たわり目を伏せる姿が、血だまりに浸るヘレネを彷彿とさせ、放って置く事が出来なかった。

 こんな悪魔の様な男、捨ておけばいいというのに。

 理性は分かっていても、本能は無性に世話を焼いてしまう。


 その日もローデリヒは、野菜を砕いたスープを片手に、ハイノの部屋へと訪れていた。

 ノックをすると「好きに入れ」と返答が来たので、言葉に甘え足を踏み入れる。


 すると、窓からの風に押され燻る紫煙がローデリヒの顔を覆う。

 不意打ちに思わず咳き込んだ。

 見ると、ハイノが寝間着のままパイプで煙草を吹かしていた。


 その出で立ちに、ローデリヒは思わず絶句する。


 元のハイノは背は少々低くも筋肉質な体形であり、そこそこ身体の厚みがあった。

 所謂「男の身体」をしていたのである。

 だが今はどうだろうか。

 性別が変わった影響か痩せ細り、肉の付く肩も変わった。

 そのせいか、逆光に照らされた輪郭は、まるで女のそれのように見える。


「やめてください」


「おい、返せ。

 引きこもりの数少ない楽しみだぞ」


 実験室にて論文を書き綴るハイノから、タバコを奪う。


「これから孕む予定なんでしょう。

 最近タバコをは体に悪いって言われるようになったの知ってますか?」


「ふぅん。すっかりお前は僕を女として扱っているようだ。

 あははっ!  傑作傑作」


 嘲るように笑うハイノを無視し、ローデリヒは静かに自分用のコーヒーを口にした。

 ハイノは不機嫌そうな顔をしながらも、おとなしくベッドに戻り、スープを口にする。


「味が薄い」


「前は濃いって言ったじゃないですか」


「君は極端だ。早く僕の好みを覚え給えよ」


 はいはい。

 と適当にあしらい、窓辺の椅子へと腰掛ける。


「なんだ。見惚れているのか変態」


「患者の様子を見ているだけですよ。

 それ以上でもそれ以下でもない」


 はっ、馬鹿を言え。


 ハイノはふんぞり返り、お得意のいやらしい笑みを口元に形作る。


「目がやたらといやらしいんだよ。

 まさか、僕の姿に姉さんを重ねているなんて言わないよな?」


「は……! そんな……」


 かっと熱をもつ頬。

 それを指差し、ハイノは嗤う。


「ははは! 図星じゃぁないか! 残念。

 ここに居るのは僕だ。ハイノ・ヴァイスコップだ。

 ヘレネ・ヴァイスコップじゃない」


「解ってます! わかってますよ、そんなことくらい!」


 声を荒げ、ローデリヒが慟哭する。


「ヘレネさんが亡くなったのは、事故だったって。

 もうこの世にはいないって。

 何度も何度も自分に言い聞かせましたよ。

 頭では、わかってるんです。でも」


「そんなに惚れていたのか」


「…………」


 僅かな沈黙が部屋を薙ぐ。


「知ってたんですか」


「バレバレだ。隠せると思っていたのか阿呆め」


 ハイノがため息をつく。

 その仕草が、嫌に艶っぽく感じた。


「あの女の、ことを何も知らなかったくせに。

 上っ面だけを知って、よくそこまで慕えるものだ。はぁ」


「何を、」


「じゃあ。知っているのか。

 あの女が何を研究していたのか。

 僕と普段どんな話をしていたのか。

 言えるか? 言えないだろう。

 それでいて愛してるなんて思うな。

 現実を見ろ」


 彼の言葉は、正論であった。

 ローデリヒはヘレネの研究を知らない。

 獣の病に関する物だということ以外、一切彼女は明かさなかった。

 何度かその理由を聞いた。だが決まって答える。


「秘密。終わったら1番最初に見せてあげるわね」


 そう微笑まれただけで、有頂天となり追求することができなかった。


 思い返すと、彼女は自らを明かすことは少なかった。

 だからこそ、より一層彼女に惹かれたというのもある。

 だが、最初の出会い、パーティーで気さくにも声をかけてくれたあの瞬間。

 あれがあったからこその今なのだ。


「でも、でも……好きだったんですよ!」


「……ったく。筋金入りだ。おい、ローデリヒ」


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