第4話

「ヘレネ。ヘレネ・ヴァイスコップ。

 もしかして、覚えていてくれるの?」


「はい!」


「嬉し」


 そう言って、ヘレネは花びらのようなドレスを翻し去る。

 抱き込むように包む、彼女の残り香。

 甘い香り。それが鼻腔をくすぐった瞬間、身体中に信じられないほどの熱があった。

 沸騰するような、狂うような、未知の熱。

 初めての感覚に、彼は、ただ襲い来る激情の波に耐えることしかできなかった。           


 瞬間、ローデリヒは悟る。


 これは、恋だ。 


 恋に落ちたのだ。


 所作、声、横顔。残り香。

 たったそれだけで、抜け出せぬ夢見心地の蟻地獄へ落とされてしまった。


 馬鹿らしいというだろうか、錯覚だというだろうか。

 だが事実なのだ。

 ローデリヒ・ペルツは、ヘレネ・ヴァイスコップに恋をした。

 この事実は確固たる現実であり、核心であるのだ。


 それからローデリヒはヘレネについて徹底的に調べ上げた。

 学科、身の上、所属。

 双子の弟がいるということ。

 獣の病及び遺伝子の錬金術的角度からの研究を行っていること。そして、もうすぐ独り立ちして弟とともに研究室を持つということも。


 情報を掴んだローデリヒは、迷うことなく専攻外の研究を始め、卒業後はすぐにヘレネの元で助手として働き出した。同時に弟のハイノとも出会うことになる。  


 ローデリヒは、彼女がいるからこそ、この鬱陶しい森の中に身を埋めることに決めたのだ。

 狭い部屋とベッドに身を埋め、毎日を過ごすことに決めたのだ。 


 結ばれなくていい。

 そばにいるだけでもいい。


 何もしない。


 爪の先だって触れない。

 触れようとしない。


 たった僅かの残り香だけで満足するから。 


 だから、だから。


「ヘレネ、さん……ん……っ」


 どうか、想うことだけは許してほしい。


「ヘレネさん、ヘレネさん……ヘレネさん、ヘレネさん。ヘレネさんヘレネさんヘレネさんヘレネさん……!!」


 乱れ狂う心臓と脈。困惑し、荒ぶる熱。

 脳を焼き尽くすような衝動。


「…………ッ」


 鎮まり、冷静になった脳に鞭打ち、ローデリヒはゆるりと立ち上がる。

 そうだ、自分は、自分は決して彼女に醜い欲を向けてはいけない。

 清らかな女性として彼女を見なければならない。


 だが、だが。

 もし、彼女が自分以外の男と結ばれたら?

 子を孕み、産み、嬉しげな表情で自分に見せてきたら?     

 一体、平常心を取り繕えるのだろうか。

 いいや、取り繕わねばならない。

 少なくともローデリヒは自分を『そういう存在』として認識していた。 


 疲労纏う体を伸ばし、ため息をつく。すると、ノックが聞こえた。


 時計を見ると、時刻は昼過ぎ。

 ヘレネが来てもおかしくない時間だった。 


「ローデリヒくん。

 お買い物、行きましょうー」


「は、はい! 今すぐ準備します」


 ボタンとベルトを掛け直し、ローデリヒは外套を手に取った。


 落ち着け、落ち着け。

 これから二人で出かける。そう、出かけるんだ。


 ローデリヒは、弛んだ頬を手で撫でる。  


 胸が高鳴る。

 これから、彼女と共に外を歩くことができるのだから。

 

 どうか、平穏に、そしてあわよくば幸福に。一日を終えたい。

 そう心の底から祈るのだった。



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